潞州

潞州(ろしゅう)は、中国にかつて存在した南北朝時代から明代にかけて、現在の山西省長治市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

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578年宣政元年)、北周により并州上党郡に潞州が設置された。

隋代

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初には、潞州は2郡7県を管轄した。607年大業3年)、郡制施行に伴い、潞州は上党郡と改称され、下部に10県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
潞州 晋州 上党郡
上党郡 郷郡 義寧郡 上党県 襄垣県 長子県
黎城県 郷県 銅鞮県
沁源県 渉県 潞城県
屯留県
壷関県 襄垣県
寄氏県 刈陵県
郷県 銅鞮県
陽城県
沁源県 義寧県

唐代

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618年武徳元年)、により上党郡は潞州と改められた。742年天宝元年)、潞州は上党郡と改称された。758年乾元元年)、上党郡は潞州と改称されたが、沢潞節度が置かれた。潞州は河東道に属し、上党・長子・屯留・襄垣・潞城・壷関・黎城・渉・銅鞮・武郷の10県を管轄した[2]777年大暦12年)、沢潞節度は昭義軍節度に統合された。

宋代

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1104年崇寧3年)、北宋により潞州は隆徳府に昇格した。隆徳府は河東路に属し、上党・長子・屯留・襄垣・潞城・壷関・黎城・渉の8県を管轄した[3]

のとき、隆徳府は潞州にもどされた。潞州は河東南路に属し、上党・長子・屯留・襄垣・潞城・壷関・黎城・渉の8県と八義・横水・寺底・褫亭の4鎮を管轄した[4]

元代以降

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潞州がモンゴル帝国に占領されると、再び隆徳府とされた。1231年太宗3年)、隆徳府は潞州と改められた。の潞州は晋寧路に属し、上党・長子・屯留・襄垣・潞城・壷関・黎城の7県を管轄した[5]

1369年洪武2年)、により潞州は山西等処行中書省に直属した。1376年(洪武9年)、山西等処承宣布政使司に直属した。1529年嘉靖8年)、潞州は潞安府に昇格した。潞安府は山西省に属し、長治・長子・屯留・襄垣・潞城・壷関・黎城・平順の8県を管轄した[6]

のとき、潞安府は山西省に属し、長治・長子・屯留・襄垣・潞城・壷関・黎城の7県を管轄した[7]

1913年中華民国により潞安府は廃止された。

脚注

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  1. ^ 隋書』地理志中
  2. ^ 旧唐書』地理志二
  3. ^ 宋史』地理志二
  4. ^ 金史』地理志下
  5. ^ 元史』地理志一
  6. ^ 明史』地理志二
  7. ^ 清史稿』地理志七