阪神間モダニズム

旧阪急梅田駅コンコース(大阪市) ※現存せず(阪急うめだ本店内に移設)
『バロックドーム』(旧阪急梅田駅コンコース) ※現存せず
カトリック夙川教会(西宮市)

阪神間モダニズム(はんしんかんモダニズム)とは、日本1900年代から1930年代(特に大正期から昭和初期[1][2])にかけて「大阪市神戸市の間」を指す「阪神間[1]を中心とする地域において育まれた、近代的芸術文化・生活様式とその時代状況を指す。神戸市東灘区灘区須磨区)・芦屋市西宮市宝塚市伊丹市川西市などでおこり、のちにはスプロール(都市拡大)に伴い、阪神間東部の池田市豊中市箕面市にも拡大した。

なお「阪神間」という地域概念は曖昧であり、その範囲には諸説がある[1]

概要[編集]

1990年代以降、阪急沿線都市研究会編『ライフスタイルと都市文化 阪神間モダニズムの光と影』(1994年)や、『「阪神間モダニズム」展』(1997年兵庫県立近代美術館西宮市大谷記念美術館芦屋市立美術博物館芦屋市谷崎潤一郎記念館の同時開催)などを機に提唱された、郷土史・地域文化史の概念である。

明治維新から大正・昭和初期を経て第二次世界大戦終結までの77年間に、戦前近代化過程で起こった黎明期の文化現象を対象とする。その後の戦後復興期高度経済成長期バブル期など戦後の時代については通常は含めないが、戦後から現代に至るまでの時代にも阪神間モダニズムの影響を色濃く見ることができる。

関西大手私鉄系グループ(鉄道不動産)などの企業による観光マーケティングや地域ブランディング、地元自治体によるまちおこしの観点からも注目され、2017年2月からは阪神電気鉄道と沿線の神戸市芦屋市西宮市の合同企画事業として「阪神K・A・Nモダニズム」が行われている[注釈 1][2][3][4][5]

『阪神間モダニズム』の定義[編集]

モダニズム(modernism)は一般に「近代主義」と訳され、伝統からの脱却をめざす傾向の総称とされている。モダニズムという語に特定の意味を与える用法は、20世紀ヨーロッパにおいて盛んになったといわれる[注釈 2][6]。時期的には、ルネッサンス以降をさす場合と、18世紀後期の産業革命以降、資本主義社会の形成以降をさす場合とがあり、日本においては、明治維新以後をさす場合が一般的である。いずれの場合においても、都市化を含むものであり、「今日的」、「当世風」であることを強調し、伝統や因習からの脱却を図ろうとする立場をmodernism、あるいは「近代主義」と呼んでいる。

日本においては「西洋風」であることを示す語として、明治中期頃から、“high collar”(=高い襟)を語源とする「ハイカラ」という語が流行し、第二次世界大戦後まで広く用いられた。しかし、1920年代には、「ハイカラ」とは異なる意味で、「モダン」という言葉が使われ始めるようになる。その最も分かりやすい例は、昭和初期の流行となった「モダン・ガール」、「モダン・ボーイ」(モボ・モガ)である。この呼称は当時、時代性や流行を意識し、常に新しさを求める進歩主義[要曖昧さ回避]的傾向をもつ男女を総称するものであったが、特に「モダン・ガール」は、関東大震災以後、昭和戦前期にかけて、タイピスト、電話交換手、バスの車掌など、新しい職業につく女性が目立ち始めた社会の動きに呼応するように広まっていったと考えられる[7]。昭和18(1943)年に発表された谷崎潤一郎の小説、『細雪』に登場する末娘の妙子は、その奔放な性格や伝統にとらわれない自由な生き方から、モダン・ガールの典型として描かれている。また、大阪を本拠地として働く夫たちの留守宅を守る一方で、複数の使用人に家事を任せて、観劇やお稽古ごとに興じる妙子の姉たちの優雅な暮らしぶりからは、戦前の豊かで華やかな「モダン・ライフ」を垣間見ることができる。

「モダン」という語が、伝統からの脱却、あるいは否定という文脈のなかで成立していることはすでに述べた。しかし、ヨーロッパ芸術におけるモダニズムに目をやれば、日本の伝統的な様式美、芸術が色濃く反映されていることは明らかであり、ジャポニスムを取り込んだ西洋文化を「輸入」することで、われわれは再び、自らの伝統と向き合うことになる。そうであるならば、モダニズムを一概に、伝統からの脱却という概念で捉えることはできず、伝統を包含した「近代」を更に超えようとする新たな捉え方が必要となる。

近代主義(modernism)は、それ以前の状態を変革する志向を意味し、それゆえ絶えず新たな「近代主義」を準備する。そして、いつも、今こそ新しい時代に入ったことを言いたがる人々がいる。その意味では、「ポスト・モダニズム」も一種のモダニズムだ。実際、「ポスト・モダニズム」を名のり、また、そのように見なされる今日の主張の妥当範囲は、実は第二次大戦前に起源を見いだせるものが珍しくない。1920年代の動きに、あるいは世紀転換期からの動きにも、同じ傾向を指摘することができる場合も多い。
(中略)逆に、「近代」に、ある特定の内容を与え、それを志向する意志、「近代主義」は、つぎの「近代主義」からは、停滞を志向する反「近代主義」と非難を浴びるだろう。他方、「近代」の状態を克服し、変革する志向を「近代の超克」と呼ぶとするなら、「近代主義」の内には、すなわち、「近代の超克」の意志をはらんで展開しているものもあるだろう[8]

つまり、このような意味からいえば、モダニズムとは、伝統を否定し、脱却するというよりも寧ろ、伝統との絡み合いであり、せめぎ合いであるともいえる。

所謂、「阪神間」とは、大阪神戸に挟まれた、六甲山を背景とする地域をさし、行政区域としては、武庫川以西の西宮市芦屋市、そして神戸市東部までを含めた地域と考えられる。これらの地域は、明治後期、政府が推進した近代化政策を背景に、次々に鉄道が開通し、主として大阪の企業家たちが競って住宅や別荘を建築したことから、著しい都市発展を遂げてきた。近代資本主義の発展とともに、大阪は、産業化が進展し、西日本における経済活動の中心地となっていった。また、神戸では、明治期、外国人居留地を拠点に貿易が始まり、西洋文化が早くから浸透したことによって、国際都市として独自の発展をみた。したがって、居留地を窓口に西洋文化を受容し、発展させてきた港湾都市・神戸と、上方伝統文化を継承しつつ発展してきた商都・大阪との間に位置する阪神間は、革新と伝統、西洋と日本が交錯しつつ都市発展を遂げ、新しいライフスタイルが築き上げられた地域であるということができる。とくに、1920年代から1930年代にかけては、阪神間において新たに住宅地が開発されるとともに、西洋料理を中心とした食文化の浸透、和装から洋装への変化、ゴルフテニスなど近代スポーツの広まりなどがみられ、人々のライフスタイルが大きな変化を遂げていった時期でもあった。

以上のことから、「阪神間モダニズム」とは、明治後期から大正期を経て、太平洋戦争直前の昭和15(1940)年頃までの期間において、阪神間の人々のライフスタイルを形成し、地域の発展に影響を与えてきた、ある一つの文化的傾向である、と捉えることができる[9]

経緯[編集]

三代目阪急梅田駅を覆っていた天蓋(百貨店新聞社・編『大・阪急』:1936年

19世紀末の大阪は、東京を上回る日本最大の商業都市であった(いわゆる大大阪時代[10]。また、神戸東洋最大の港湾都市へと拡大していた。

当時の近畿地方では、アメリカ合衆国の例にならったインターアーバン(都市間電車)路線の建設が相次ぐ。阪神電気鉄道本線1905年開業)を嚆矢とし、続く箕面有馬電気軌道(後の阪急宝塚本線1910年開業)、阪神急行電鉄神戸本線1920年開業)といった各線の開通によって、未開拓な後背地であった神戸近郊北摂近郊の農村地帯が注目される。こうして、風光明媚な六甲山南斜面の鉄道沿線である阪神間で、快適な住環境創造を目的に郊外住宅地の開発が進められた。したがってこの地区の都市的・文化的な発展と、関西私鉄資本の導入は不可分の関係にあったといえる。

まず明治期に、阪神の豪商等の豪壮な邸宅が、旧住吉村[注釈 3]に陸続と建築され、このエリアに居住する富豪数が日本最多となった[11][12]

大正期には、実業家に加え当時の新興階級であった大卒のインテリサラリーマン層、すなわち無産中流階級の住宅地として発展し、文化的・経済的な環境が整ったことから芸術家文化人などが多く移り住んだ。この流れと併行して、19世紀末から六甲山上および緑豊かな市街地となった山麓に、ブルジョワと呼ばれる富裕層を対象とする様々な文化・教育・社交場としての別荘ホテル・娯楽施設が造られ、西洋式の大リゾート地が形成された。

このようにして、西洋文化の影響を受けた生活を楽しむ生活様式が育まれていった。なおこれらの地域は、現代でも高級住宅地ブランド住宅地として全国屈指のエリアとなっている。

また首都圏においても、田園都市株式会社東急の前身)によって建設された田園調布などの東京近郊の高級住宅地などに、阪神間モダニズムの影響を見ることができる。

初期の大阪の郊外住宅地[編集]

昭和16年(1941年)の阪神間鉄道路線図
昭和16年(1941年)の阪神間鉄道路線図

大阪周辺の郊外住宅地は、元々、別荘地の開発から始まった。

「明治の半ば頃、船場島之内の旦那衆の間に上町の桃山あたりに別荘をつくり、客を招待したり閑日にのんびりすることが流行した[13]

というように、富裕層によって比較的環境の良い手近な所で始まったそれらが鉄道の開通とともに、さらに環境の良い天下茶屋・浜寺など大阪南部、あるいは阪神間へと広がっていった。 特に阪神問では、1907年大谷光瑞が現在の神戸市東灘区に「二楽荘」と名付けた別荘や、当時の大阪府立高等医学校校長の佐多愛彦が芦屋山手に結核予防に良い保養地として別荘(松風山荘住宅地の前身)の建設を行い、人々に注目されるようになった。

こうした富裕層の別荘地から多くの人々が居住する郊外住宅地になったのは鉄道敷設による都心へのアクセスの改善によるところがおおきく、中でも阪神間は山側の阪急電鉄からJR西日本、浜側の阪神電鉄と3本の鉄道路線があり、大阪郊外の他の地域に較べ、極めて交通条件の恵まれた地域であった[14]

阪神間における沿線開発[編集]

阪神電鉄の住宅地開発[編集]

阪神電鉄は、明治42年(1909年)、住宅地経営を開始し、鳴尾で貸家経営(西宮市、1910年)、御影神戸市、1911年)及び、甲子園(西宮市)で分譲住宅販売(1928-30年)というように、住宅販売事業を拡大していく。その一方で、沿線にスポーツ・アミューズメント施設を建設する構想も立て、多角的な土地利用計画を推進していった。その代表は、阪神甲子園球場である。その他にも、甲子園ホテル阪神パークなど、沿線にホテルや遊園地を建設しリゾート関連事業を手がけていった。

リゾート開発の一環として、阪神電鉄は六甲山の開発にも力を注いだ。緑が濃く、豊かな自然が残された六甲山は格好の避暑地であり、別荘地としての要件を充分に満たすものであった。リゾート地としての六甲山に最初に注目したのは、イギリス貿易商、A.H.グルーム(Arthur Hesketh Groom)をはじめとする神戸在住の外国人たちである。彼らはまず六甲山に別荘を造り、ゴルフ場を建設し、六甲山の豊かな自然のなかでゴルフや登山、クリケットなどの近代スポーツに興じた。また同時に、機関誌『INAKA』を発行し、それらのスポーツの紹介や登山記録、旅行記などを掲載した。その後も、多くの外国人が六甲山に別荘を建て、六甲山は日本におけるゴルフ発祥の地、近代スポーツと娯楽の地として広く知られるようになる。

阪神電鉄は、このようなリゾート地・六甲山に早くから注目し、電鉄の集客増員 をねらって開発を計画していた。そのためにはまず、交通手段の整備が必要であると考え、大正14年(1925年)に摩耶ケーブルを、昭和2年(1927年)に表六甲ドライブウェーを、さらには、昭和7年(1932年)に六甲ケーブルを完成させ、大都市に近接した別荘地・六甲山の販売を開始した[15]

このように、阪神電鉄では、電鉄の集客増員を図るため、沿線の住宅地開発に力が注がれると同時に、その沿線の付加価値を高める装置として、球場、ホテル、遊園地などのスポーツ・アミューズメント施設が建設され、沿線地域を総合的に開発するという経営戦略がとられた。

阪急電鉄の住宅地開発[編集]

私鉄による住宅経営には、阪急電鉄も名乗りをあげた。小林一三の経営方針によって、阪急電鉄による活発な沿線住宅地の開発が行われた。住宅販売にあたっては、「郊外に居住し、日々市内に出でゝ終日の勤務に脳漿を絞り、疲労したる身体を其家庭に慰安せんとせらるゝ諸君・・・[16]」すなわち、中堅サラリーマンを対象とした販売戦略をとっていた。

阪急電鉄が最初の住宅開発を始めたのは、明治43年(1910年)、宝塚線池田駅周辺の池田室町住宅地(現・池田市室町)であった[17]。33,000坪の土地を碁盤の目に区切って221区画とし、1区画120坪程度を標準とし、木造二階建てもしくは平屋建ての和風住宅(建坪約20坪)を建設した。またその後、大正9年(1920年)7月16日に神戸線が開通、大阪-神戸間が約42分で結ばれることになったが、この神戸線の開通によって始まったのが、岡本住宅地(現・神戸市東灘区)の分譲であった。神戸線開通の翌年、大正10年(1921年)、阪急岡本駅周辺を含む17,557坪の土地の分譲が開始された。

阪急電鉄の住宅経営で注目されるのは、和風建築が多い点である。小林一三は、「阪神間高級住宅においてすらも、純洋式の売家には買手がない。いつも売れ残って結局貸家にする。(中略)寝台的設計よりも畳敷が愛されて、純洋式は不評である[18]」と自叙伝のなかで述べ、一般大衆が好む和風建築を中心に住宅販売を展開した。また、阪急沿線の開発ポテンシャルをさらに高めたのは、当時、珍しかった住宅の「割賦販売方式」であったことも特筆すべきである。

これ以後、池田・岡本に次いで、甲東園(西宮市、1923年)、稲野伊丹市、1925年)、塚口尼崎市、1934年)、武庫之荘(尼崎市、1937年)が次々に開発され、本格的な住宅販売事業が展開された[19]

三つの鉄道路線が敷かれ、交通アクセスが整備されたことは、阪神間への人口集中を促した。その背景には、隣接する商業都市・大阪の住環境悪化があった。大阪は企業が集中し、西日本の経済・産業の中心地として発展を遂げていた。それに伴い人口も次第に増加し、大阪は「東洋のマンチェスター」と称されるほどの勢いで工業都市に変貌していった。しかし、そのことは同時に、大気汚染騒音水質汚濁などの公害を生む要因となり、急速な産業の発展に伴う生活環境の悪化は、大阪市民の生活に脅威を与える深刻なものとなり、水都・大阪は「煙の都」とまで呼ばれるようになる。このような大阪市を中心とした生活環境の悪化を社会的背景にして、電鉄会社を中心に、阪神間の住宅地開発が本格的に展開する。

郊外生活のすすめ[編集]

阪急・阪神の両電鉄会社は、「健康に恵まれた郊外生活」、あるいは「市外居住のすすめ」というキャッチコピーを掲げ、住宅地開発を展開する。その開発戦略のキーワードは、「緑」、「郊外」、「健康」であった。両電鉄会社が謳った田園生活の要素の一つである「緑」とは、六甲山の緑を指す。阪神間の西部に位置する六甲山は、標高932メートルの山で、六甲山麓の南斜面を形成する台地は起伏に富み、北から南に向かって広がる雛壇型の台地は、住宅造成地に適していた。緑が深く、眺望に優れ、瀬戸内海に面した温暖な気候とともに、自然環境にも恵まれたこの地域は、住環境の要件を充分に満たしていたということがいえる。加えて、六甲山から流れ出る中小の河川は、阪神間における町の景観にさまざまな変化を与え、親水空間を創出している。阪急・阪神の沿線を流れる夙川住吉川芦屋川武庫川は、緑豊かな六甲山系を背景に、美しい河川景観を形成し、人々に安らぎを与えてきた。しかし、沿線の田園地帯は美しい自然こそあれ、都心からは離れ、居住者もまだまばらで、決して認知度が高いとはいえなかった。そこで、電鉄各社は、田園生活の素晴しさをPRするため、数々の情報誌を発行する。

まず、阪神電鉄は、明治41年(1908年)、『市外居住のすすめ』を刊行した。この『市外居住のすすめ』の刊行後、大正3年(1914年)、月刊誌『郊外生活』(大正3年1月~大正4年11月)を発行している。これには、郊外生活の利点は勿論のこと、の育て方や栽培など、今でいう、ガーデニング関連の記事を中心に、随筆や評論などが掲載された。

大正末期の1923年大阪市社会部調査課が行った 『余暇生活の研究』では、「大阪市が近年その経済的勢力に依って年々人口の集注を来しつつあると同時に一方に於いては亦都市生活の不健康と精神的不安とを脱却すべく放射的に郊外へ郊外へと居を移すものが加速度的に増加して来た」とし一方「居を移す能はざるものも熱闘の都市生活に疲れきった心身を医すべく休日には郊外に出でて自然の天地に抱擁さるる必要がある」として郊外電車の様子を記している。

阪神電車については「郊外電車中古き沿革を有し自然的にも最も交通の要衝に当り 」、「沿線は風光極めて明嫡にして理想的住宅地を形成せるが故、阪神二市より移り住むもの最も多く随って郊外住宅地として早くより発達したるの観がある」と述べている。また、梅田から大グラウンドのある鳴尾駅と海水浴場を抱える香櫨園駅に至る月別乗客数が示されており、1921年には梅田~鳴尾・香櫨園間で年間70万人もの乗客があったことが紹介されている[20]

阪急電鉄は、明治42年(1909年)、住宅案内パンフレット『住宅御案内 如何なる土地を選ぶべきか・如何なる家屋に住むべきか』を発行、この冒頭で、「美しき水の都は夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が 大阪市民諸君よ!」と呼びかけている。公害によって生活環境が悪化した大阪を離れ、田園での優雅で健康的な生活ができる郊外居住をアピールし、沿線の新興住宅地「池田新市街」の住宅案内を行ったのである。また、大正2年(1913年)には、月刊誌『山容水態』が発行された。これは、池田新市街、豊中新市街など、阪急電鉄が開発した住宅地の様子を詳しく紹介した住宅情報誌であると同時に、沿線の名所旧跡の紹介、イベント案内なども掲載され、現在のタウン情報誌としての役割も兼ね備えたものであった。また、阪神電鉄の『市外居住のすすめ』と同様、郊外生活への不安を解消して快適な生活が期待できるよう、飲料水や医療など、健康に関する記事も掲載された[21]

「健康な田園生活」をキャッチフレーズに展開された、これらの郊外住宅地開発は、国内で早い段階に進められたものであり、澄んだ空気と清らかな水に恵まれた良好な住環境を創出・維持することが「山容水態」の地-すなわち、阪神間のイメージアップに大きく貢献したといえる。また、阪神間における郊外住宅の形成が、その後、東京の田園調布等の高級住宅地開発にも少なからず影響を及ぼしたといわれる[22]

当時建設された主な施設・邸宅等[編集]

阪神間の主な居住者[編集]

阪神間では、当地に居を移した阪神の富裕層を中心に、多くの芸術家が誕生した。1923年関東大震災を逃れた東京の芸術家らが移住したこともあり、活況を呈することになった。

芸術家[編集]

財界人[編集]

芸能人[編集]

その他[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 名称はそれぞれの頭文字を取ったもの。
  2. ^ その用法は、宗教芸術という二つの領域で分かれる。まず、宗教においては、カトリックなどのキリスト教において、科学歴史に矛盾しない教義を求めようとする運動をいう場合がある。いわゆる、ヨーロッパにおける「近代」は、キリスト教会が強大な権力をもち、支配していた中世封建社会からの解放から始まる。それゆえ、伝統宗教の世俗化やプロテスタンティズムの台頭を意味する場合に、modernismが用いられる。一方、芸術においては、印象派象徴主義アール・ヌーボーの流れにおいて呼ぶ場合、未来派構成主義表現主義などから抽象絵画が生み出される過程において呼ぶ場合、第一次世界大戦中のダダから戦後のシュールレアリスムへの流れを呼ぶ場合などがあり、総じて伝統的な価値観や様式を拒絶し、否定するところから始まる運動を、modernismと呼ぶ。
  3. ^ 現在の神戸市東灘区住吉各町および灘区六甲山町東部。

出典[編集]

  1. ^ a b c 阪神間モダニズム 公益財団法人 西宮市大谷記念美術館
  2. ^ a b 「阪神K・A・Nモダニズム」~インスタグラム投稿キャンペーンを開催~ 神戸市、2018年11月9日、2021年2月14日閲覧。
  3. ^ 阪神K・A・Nモダニズム 知る・見る・巡る 阪神KANお散歩マップ 阪神電気鉄道、2021年2月14日閲覧。
  4. ^ 阪神K・A・Nモダニズム 芦屋市、2021年2月14日閲覧。
  5. ^ 阪神K・A・Nモダニズム 神戸、芦屋、西宮と阪神電鉄が地域の魅力を共同発信 20日からスイーツスタンプラリー/兵庫 毎日新聞阪神版、2018年2月11日、2021年2月14日閲覧。
  6. ^ 鈴木貞美「モダニズムと伝統、もしくは『近代の超克』とは何か」、竹村民郎・鈴木貞美編『関西モダニズム再考』思文閣出版 2008年 所収 386-399頁)
  7. ^ 鈴木貞美「モダニズムと伝統、もしくは『近代の超克』とは何か」 394-395頁
  8. ^ 鈴木貞美「モダニズムと伝統、もしくは『近代の超克』とは何か」 552頁
  9. ^ 戸田清子「阪神間モダニズムの形成と地域文化の創造」『奈良県立大学研究季報』第19巻第4号、2009年3月、49-77頁、ISSN 1346-5775CRID 10500013388093780482023年6月6日閲覧 
  10. ^ [1][リンク切れ] 大阪市経済局
  11. ^ 山本ゆかり, 萬谷治子, 加藤拓郎「旧住吉村の住宅地開発とその特徴」『住宅総合研究財団研究論文集』第31巻、住総研、2005年、91-102頁、doi:10.20803/jusokenold.31.0_91ISSN 1880-2702CRID 13900012052971865602023年6月6日閲覧 
  12. ^ 日本一の富豪村
  13. ^ 大阪市都市住宅史編集委員会編「まちに住まう大阪都市住宅史」平凡社 pp.328. 1989年.
  14. ^ 土井勉, 河内厚郎「鉄道沿線における郊外住宅地の開発と地域イメージの形成」『土木史研究』第15巻、土木学会、1995年、1-13頁、doi:10.2208/journalhs1990.15.1ISSN 0916-7293CRID 13902826793055577602023年6月6日閲覧 
  15. ^ 坂本勝比古 「郊外住宅地の形成」 『阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化、明治末期ー昭和15年の軌跡』1994年、所収、36頁
  16. ^ 坂本勝比古 「郊外住宅地の形成」30頁
  17. ^ 阪急阪神の住まいづくりの歴史 阪急阪神不動産、2024年4月1日閲覧
  18. ^ 坂本勝比古 「郊外住宅地の形成」31頁
  19. ^ 猿渡彬順「むらからまちへ~阪神間の住宅開発」、阪急沿線都市研究会編『阪神間モダニズムの光と影―ライフスタイルと都市文化』、1994年、所収、131頁
  20. ^ 『阪神電気鉄道の発達と阪神地域における郊外生活の形成』、甲子園短期大学紀要 No.26、永藤青子、2007年
  21. ^ 坂本勝比古 「郊外住宅地の形成」30-31頁
  22. ^ 坂田清三・土井勉「阪神間の都市構造」、阪急沿線都市研究会編『阪神間モダニズムの光と影―ライフスタイルと都市文化』、1994年、所収、145頁
  23. ^ 長沢伸一 (2019年6月25日). “幻の社交場、藤田ガーデン 神戸・須磨にあったその面影探る”. 神戸新聞NEXT. 神戸新聞. 2021年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月15日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]