板垣退助
板垣 退助 いたがき たいすけ | |
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1906年頃(70歳頃) | |
生年月日 | 天保8年4月16日もしくは4月17日 (1837年5月20日もしくは5月21日) |
出生地 | 日本 土佐国高知城下中島町 (現・高知県高知市本町2-3-18) |
没年月日 | 大正8年(1919年)7月16日、享年83歳 |
死没地 | 日本 東京府東京市芝区芝公園第7号地8番(現・東京都港区芝大門1-10-11 芝大門センタービル) |
前職 | 土佐藩陸軍総督(軍人) |
所属政党 | 愛国公党→愛国社→ 国会期成同盟→自由党→ 愛国公党(再興)→自由党→憲政党 |
称号 | 従一位・勲一等 旭日桐花大綬章 伯爵 |
配偶者 | (正妻1)林益之丞政護妹 (正妻2)中山弥平治秀雅次女 (正妻3)板垣鈴 (正妻4)板垣絹子 (側室1)萩原薬子 (側室2)久川政野 (側室3)板垣清女 |
子女 | 板垣鉾太郎(長男) 乾正士(次男) 板垣孫三郎(三男) 板垣正実(四男) 乾六一(五男) 片岡兵子(長女) 宮地軍子(次女) 小川婉子(三女) 浅野千代子(四女) 小山良子(五女) |
親族 | 板垣信方(遠祖) 板垣信憲(遠祖) 板垣正信(遠祖) 山内刑部(遠祖) 乾正清(五世祖父) 乾直建(高祖父) 乾正聰(曽祖父) 乾信武(祖父) 乾正成(父) 片岡光房(娘婿) 宮地茂春(娘婿) 小川一眞(娘婿) 浅野泰治郎(娘婿) 小山鞆絵(娘婿) 板垣守正(孫) 板垣正貫(孫) 乾一郎(孫) 宮地茂秋(孫) 川瀬徳太郎(孫婿) 杉崎光世(曽孫) 片岡孝(曽孫婿) 髙岡功太郎(玄孫[1][2][3][4]) |
内閣 | 第2次伊藤内閣 第2次松方内閣 |
在任期間 | 1896年4月14日 - 1896年9月20日 |
第13代 内務大臣 | |
内閣 | 第1次大隈内閣 |
在任期間 | 1898年6月30日 - 1898年11月8日 |
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日[5]、4月17日[6]〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 - 大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督、迅衝隊総督兼大隊司令)、武士(土佐藩士)、東征大総督東山道参謀。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲として参与、参議、内務大臣(第10代・第13代)を歴任。
幕末に薩摩藩士・西郷隆盛と共に「薩土密約」締結を主導。戊辰戦争では東征大総督東山道参謀として指揮を執り、明治維新後に参与となる。征韓論政変で下野後、自由民権運動の指導者として東アジアで初となる帝国議会の樹立に向けて活動し、「国会を創った男」として知られる[7]。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある[7][8]。1898年(明治31年)には大隈重信とともに組閣の大命を受け、日本初の政党内閣となる隈板内閣を組織した[9][10][11]。
戦前・戦後を通して圧倒的な国民人気を誇り[12]、政府紙幣B号50銭、日本銀行券B号100円として紙幣の肖像として採用。また、文久3年乾退助暗殺未遂事件をはじめ、何度も命を狙われ、明治15年には板垣退助岐阜遭難事件、その後も明治17年板垣退助暗殺未遂事件、明治24年板垣退助暗殺未遂事件、明治25年板垣退助暗殺未遂事件などが起きた[13]。
特記
[編集]日本史上初めて議会政治を樹立するため民撰議院設立を政府に建白。帝国議会ならびに現在の自由民主党の源流となる愛国公党、自由党の創始者[14]。そのため旧50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられ、紙幣裏面には国会議事堂が描かれた。板垣が議会設立のため欧州視察中にパリで購入したトランクは、現存する日本最古のルイ・ヴィトン製品[15]。好角家として知られ、海山太郎友綱を初め多くの力士を後援した[16]。国技館の命名にも携わり[注釈 1]、また軍馬の育成に資するとして競馬を奨励した。晩年の著作には『日本は侵略國にあらず[17]』、『社会主義の脅威[注釈 2]』、『武士道論』、『神と人道』などがある[18]。欧米の翻訳思想の流入やキリスト教思想の蔓延を批判し、日本独自の武士道精神に基づく人道思想を提唱した[19]。清貧で古武士の品格を矜持し「維新の精神に背かぬため」と己の死するにあたって遺言して爵位を返上した[16]。
概略
[編集]幕末「戦争の結果によって形成された社会秩序は、戦争によってで無ければこれを到底覆すことは出来ない」と主張し[注釈 3]、土佐藩における武力討幕派の重鎮として薩摩藩に対し薩土討幕の密約を結ぶ[注釈 4]。これに基づき土佐藩の兵制を改革して近代式練兵を行った。独断で土佐藩邸に天狗党浪士を隠匿しその身柄を薩摩藩へ委託。この浪士らが幕府を挑発して江戸薩摩藩邸の焼討事件を惹起し、戊辰戦争の前哨戦を為す。鳥羽・伏見の戦い開戦後は、天皇陛下御親征東山道先鋒総督軍参謀・迅衝隊総督(土佐藩陸軍総督)となり戊辰戦争で活躍。特に甲州勝沼の戦い、会津攻略戦では軍功著しく、会庄両藩の蝦夷地売却計画を阻止。また日光東照宮を戦禍から守る。絶対尊皇主義者として知られ、君民一体による自由民権運動の主導者であり「君主」は「民」を本とするので「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた[21]。自由民権運動は、億兆安撫国威宣揚の御宸翰の意を拝し尊皇を基礎とし、その柱を五箇条の御誓文に求めるもので、特にその第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は重視され、国内へは「国会の開設」、国外へは「不平等条約の撤廃」等を求めた[16]。さらに国民皆兵を断行するため太政官の許可を得て全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した[16]。これらの論旨の説明には「天賦人権説」がしばしば用いられたが、海外思想の単なる翻訳・流用ではなく、日本の国体に則して歴史的に培われたものであることが強調されている[22]。世界の自由主義思想は、キリスト教神学の聖書解釈や個人主義などを伴って発展したものが多い中で、板垣退助の説く自由主義は武士道精神により醸熟された愛国主義(Patriotism)と密接に結びついており、単純にリベラリズム(Liberalism)と翻訳出来ない日本独自の特徴を有する[注釈 6][注釈 7] 。これは板垣が生涯にわたって貫いた姿勢であり[16]、そのため国防を重視し、天皇護衛のための軍隊・御親兵の創設に盡力。この御親兵がのちの近衛師団さらに大日本帝国陸軍の前身となる[16]。参議のほか内務大臣を務めること2回。清貧で「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受ける。少年期に聴覚障碍を患った経験から、政界を退いてからは視覚障碍者の按摩専業や、傷痍軍人に対する福利厚生、女性受刑者が獄中出産した幼児の保護と育成などの社会改良にも取り組んだ[16]。一君万民を説き、被差別部落解放の為の日本最初の全国組織となる帝国公道会を創設[注釈 8]。岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名[23]。座右の銘は「死生亦大矣[注釈 9]」。林獻堂らの招きによって渡台し台湾人の地位向上のための組織・台湾同化会を設立。生涯に亘って尊皇を貫き、勤皇に尽くした姿から「幕末明治の大楠公」とも称され[注釈 10]大日本国粋会の結成に影響を与えた[注釈 11]。明治維新に勲功のあった土佐藩出身の伯爵としては、板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行が著名で「土佐三伯」と称された。
来歴
[編集]- 生い立ち
天保8年4月16日もしくは4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日)、土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として[24]、高知城下中島町(現・高知県高知市本町2丁目3番18号、高野寺 北緯33.558167度分秒 東経133.537167度分秒)に生まれる。幼名は「猪之助」(いのすけ)。退助は通称。諱は初め「正躬(まさみ)」、のち「正形(まさかた)」。号は「無形(むけい)」。母は林幸子。なお、乾家の本姓は板垣氏で、武田信玄の重臣・板垣信方を祖とする家柄。坂本龍馬や武市瑞山とは親戚にあたる[25]。(退助の復姓については後述)
- 質実剛健の家風
山内一豊が掛川藩主の時代に召抱えられた、土佐藩の上士の家柄であったが、乾家(板垣家)は、質実剛健を家風としていたため、食事も素食で退助の好物は鮎の塩焼きと半熟卵であった。のち退助は、武力討幕や自由民権運動など、私財を投じて国家のために尽瘁することになるが、貧乏を苦としない草莽崛起の精神が養われたと懐述している[26][16]。
- 貧者救済
真冬に乳呑み児を抱えた貧窮した女性が乾家の門前に来て物乞に来た。門番が追い払おうとする処に、その姿を見た猪之助(=退助)は姉の箪笥にあった着物を一領あたえた。のちに姉が怒って母に告げた。猪之助は「我が家にあっては、豪奢を嗜む一領の着物に過ぎないですが、かの貧した女性にとっては、自分と乳飲み子二つの生命が救われるかもしれない、かけがえのない着物です」と悠然と答えた。すると母は、
民心を思い、治政を行うのは立国の大本である。子供ながらにそれが分かっているのならば、将来、我が家の名を挙げるのは、この子(板垣退助)となるであろう[16]。 — 林幸子(退助生母)
と答えて却ってこれを褒めた[27]。これが彼が民本主義を生涯にわたって取り組む萌芽となったと捉える識者もいる[16]。上士と下士の身分が確立されていた徳川藩政期の中で、庶民と分け隔てなく交わった人物として知られる[27]。(この乾家の門は、現在高知市内の龍乗院へ移築され現存する[16])
- 母の死
嘉永元年9月19日(1848年10月15日)、猪之助12歳(満11歳)の時、母・林幸子が死去[28]。(同じ年の7月25日、保弥太(=後藤象二郎)11歳(満10歳)の時、江戸藩邸で父が病死している)その後、父・正成が近藤祐五郎秀行の姉と婚した為、継母が出来るがこの母も、3年後の嘉永3年12月19日(1851年1月20日)に歿した。その後、さらに父は高屋繁次長容の伯母を迎えて妻とした[29]。
- 少年期
後藤象二郎とは竹馬の友で互いに親を亡くした境遇が似て、心を通わせ「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。二人の遊び場は鏡川や潮江天満宮、潮江村のあたりで、駆け回って遊んだ。少年期は腕白そのもので、ある時、後藤象二郎が蛇が苦手であることを知った板垣は、紐で縛った青大将を棒の先にぶら下げて、後藤を驚かせた。逃げる後藤を追いかけるが、怒った後藤は道端に落ちていた犬の糞を躊躇なく手で掴むと、板垣の顔へ目掛けて投げつけて反撃[30]。板垣は手を洗う時に盥の水を二張り使うほどの潔癖症であったので、この糞攻撃の効果は絶大で「糞を投げるは卑怯なり」と忽ち降参した[30]。この様に時には悪ふざけをする仲であったが、二人は毎日のように一緒に遊んだ。
- 迷信と実証主義
少年時代「蝦蟇の油を塗ると川に潜っても呼吸ができる」との言い伝えを聞き、後藤象二郎と一緒に、潮江村の田圃から大量に蛙を捕獲。後藤宅の釜で煮こんで蝦蟇の油を作るが悪臭が立ち込めて露見[注釈 12]。後藤家の人より散々怒られる。しかし、蝦蟇の油を秘匿して持ち出し、これを塗って鏡川に潜ってみたが呼吸ができず、油の効力が迷信であることを知る。今度は実証主義に転じて、お守りを厠に捨ててみて、神罰が本当に起こるのか試した。すると、鏡川で遊泳の際、耳に水が入った事で聴力が不自由となる[27]。(神罰は起きた[27])
- 難聴
鏡川での遊泳時に耳に水が入って中耳炎を併発。数ヶ年にわたって聴力(突発性難聴)を失い就学に不便をきたす[27]。そのため塾に通うことはなかった。将来のことを危ぶまれたが、のち不意の所作がきっかけで膿が破れ飛び出て聴力がやや回復した。しかし、後遺症は残り、晩年また聴力が衰えた[注釈 13]。(後年、政界を退いてからは視覚障碍者の按摩専業や、傷痍軍人に対する福利厚生など社会改良に取り組んだ素地は少年期に聴覚障碍を患った経験に由来すると言われる[16])
- 好物
好物は鮎の塩焼きと半熟卵で、鮎は鏡川で獲れたものを食べていた[注釈 14]。(後年、三多摩郡の自由党有志が、板垣退助を多摩川対岸の大柳河原に招き、板垣の好物である鮎釣大会を催した。のち青梅の人々は板垣の人柄を懐かしみ銅像が建立された[31])
- 少壮気鋭
板垣は廓中(高知城下の武士居住区)で人気があり、義侠心もあって弱い者いじめをする者には敢然と喧嘩で応戦。身分の上下を問わず、常に公平な視点から評価を下したので、これを慕う小輩(子分)が多くいた。親分肌で小輩(子分)への面倒見が良く、餓鬼大将となる[注釈 15]。不義があると正論を吐いて宣戦布告。大人に対しても物怖じせず。この性格は母の教育による影響が大きく、退助は晩年、この事を聞かれ自分の少年時代を振り返り次のように述懐している[32]。
母が予(退助)を戒めて云うに「喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ」、また喧嘩に負けて帰れば「男子たるもの仮りにも喧嘩をするならば必ず勝利を得よ」と母は叱って直ぐに門に入れない。成長すると「卑怯な挙動をして祖先の名を汚してはならぬ」と教えられた[32]。 — 板垣退助
- 信賞必罰
常に公平な視点から評価を下し、身分の上下を問わず有用の者を味方につけ、子分にするところは織田信長のようであった[33]。のち、退助は日本初の部落解放の全国組織である『帝國公道会』を創設したが、当時からその片鱗があり、被差別部落の人々とも交わり飲食をともにし、語り会うことがあった。(当時は、被差別部落の人々と共に飲食をすることはタブーとされていた。『帝國公道会』の創設は、全国水平社より先である)この姿勢は生涯をかけて一貫して変わらず、のち伯爵になってからも、飲食をともすることがあった。「伯爵ともあろう人が」と周囲の者がとめに入ろうとすると、退助から「幼いころに蛙捕りをして遊んだ仲だ」と云われ、その者は藩政期は身分の上下の厳格であった時代と想像していたため非常に驚いた[34]。
- 青年期
清廉潔白で曲がったことを嫌い、正論を忌憚なく話し、相手を論破するのが得意であった。口論から発して腕づくでの喧嘩となることもしばしばあった。そのため、藩から譴責処分を受ける事が度々あったが、全く懲りることがなかった。小輩に対する面倒見が良く、推されて「盛組」の総長となる。大叔父・谷村亀之丞自雄(第15代宗家)より無双直伝英信流居合を習い、若くして後継者の一人と目されて林弥太夫政敬(第14代宗家)の孫娘を最初の妻に迎えるがのち離縁[29]。(離縁された妻は、林家に戻り、小笠原茂常(大四郎)の五男・茂平と婚し、茂平が入婿となり林姓を継ぐ。戊辰戦争の時の軍監・林茂平(亀吉)がその人である[29]。(堺事件を参照)次に親族・中山弥平治秀雅の次女を妻に娶るも、程無く離縁している[29]。退助は居合は無双直伝英信流、柔術は呑敵流の達人であった。土佐勤王党の『同志姓名附』第13番目に名を連ね、筋金入りの勤王家であった。
- 土佐藩士姻族関連系図
板垣退助 | 宮地軍子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宮地茂秋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宮地自然 | 宮地茂春 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宮地茂光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
柳村惟政 | さよ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鹿持雅澄 | 女子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野見自守 | 柳村惟則 | 鹿持孫平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
菊子 | 田内衛吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武市正久 | 武市正恒 | 武市瑞山 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
島村雅事 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
島村正壽 | 島村雅風 | 武市富子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐尾子 | 沢辺琢磨 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山本信敬 | 山本信固 | 山本信年 | 山本信道 | 桑津重時 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
坂本直足 | 坂本直方 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
坂本龍馬 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
坂本直澄 | 坂本幸 | 福岡孝弟 | 福岡秀猪 | 宮地呉子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宮地信貞 | 宮地茂好 | 宮地自然 | 宮地茂春 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾直建 | 乾正聰 | 乾信武 | 宮地茂秋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾正成 | 板垣退助 | 宮地軍子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女子 | 女子 | 寺村道成 | 寺村成潔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平井政実 | 板垣勝子 | 女子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
谷村自貞 | 谷村自熈 | 谷村自雄 | 日野成文 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寺村成雄 | 山田信子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
谷村自高 | 谷村自輝 | 谷村自庸 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女子 | 山田清廉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋本寅直 | 橋本孝直 | 橋本直道 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武藤好直 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女子 | 後藤正晴 | 後藤猛太郎 | 後藤保弥太 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後藤象二郎 | 岩崎早苗 | 岩崎小弥太 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大塚勝従 | 女子 | 岩崎俊弥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後藤正刻 | 後藤吉長 | 岩崎弥次郎 | 岩崎弥之助 | 岩崎輝弥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎弥太郎 | 岩崎久弥 | 福沢綾子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本山茂直 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
福沢諭吉 | 福沢捨次郎 | 福沢堅次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清岡公張 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清岡春勝 | 清岡成章 | 清岡邦之助 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後藤吉正 | 後藤正澄 | 琴子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉田正春 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉田正幸 | 吉田正清 | 吉田東洋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 神田村謫居
安政3年8月8日(1856年9月6日)、係争に加わり罪を得て、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村(こうだむら)に謫居となる。廃嫡の上、追放という重い処分であったが、ここで村人の麦の収穫や脱穀の手伝いをするなど、身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得る[27]。この時、当時の人が食べ合わせ(「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた迷信に対して、村人の前で自ら食べて無害なことを実証してみせた。またこの謫居時代、吉田東洋と岩崎弥太郎も別件で罪を得て謫居の身にあり、吉田東洋は退助の寓居を訪れて自塾への就学を奨励したが、退助はその申し出をつぎの様に断っている[16]。
これに対し、吉田東洋は「およそ侍たる者、忠を盡し藩公の馬前に相果てる心掛けは、申すに及ばず尋常当然である。けれども、その限りで終わるのは
- 恩赦と復職
一時は家督相続すら危ぶまれたが、藩主の代替わりの恩赦によって、廃嫡処分を解除され、高知城下へ戻ることを許された。(この頃、名を「猪之助」から「退助」へ改める)
父・正成の死後、家禄を220石に減ぜられて家督を相続[29]。
藩政に復職し、免奉行(税務官)を務める。その場所は前年、騒動があり農夫たちが、藩政に抗議する人たちがいた地域であったため、藩庁は気の荒い退助を送り込んだのだが、退助は平伏して遠慮がちに話をする農夫たちを見て「万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てください」と語った[注釈 17]。
- 江戸へ遊学
文久元年10月25日(1861年11月27日)、江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、11月21日(太陽暦12月22日)、高知を出て江戸へ向かう[29]。
退助の教養形成に大きな影響を与えたのが、阿波国出身の学者、若山勿堂(壮吉)である。昌平坂学問所塾頭を務めた佐藤一斎に儒学を学んだ勿堂は、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山などと並び「一斎門下の十哲」として、昌平黌の儒官として教鞭を取った人物である[35]。勿堂は儒学だけでなく、幕府講武所頭取を務め、甲州流軍学、越後流、長沼流を兼修した兵学の重鎮・窪田清音から山鹿流兵学を学び、免許皆伝を許された英才である。
勿堂の山鹿流は、赤穂山鹿流の正統な伝系を継いでおり、ほかにも勝海舟、土方久元、佐々木高行、谷干城が勿堂から山鹿流を習得している[36][37]。したがって、退助の学問的系譜は、当時の幕府側学者の最高峰である佐藤一斎、窪田清音の孫弟子ということになる。
- 赤穂山鹿流伝系
- 吉田東洋の横死
文久2年4月8日(1862年5月6日)、吉田東洋が土佐勤王党の那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵らによって暗殺される。片岡健吉からの書簡で事件を知った江戸の退助は、国許(土佐)の役人たちが狼狽していることに慷慨し、5月2日(太陽暦5月30日)付で次のように書き送っている。
勤皇の誓い
[編集]文久2年6月(1862年7月)、小笠原唯八(牧野茂敬、本姓奥平氏)、佐々木高行らと肝胆相照し、ともに勤王に盡忠することを誓う[39]。
- 長州の動きを洞察
文久2年6月6日(1862年7月2日)付の片岡健吉宛書簡において退助は、
と書き送り、国許の片岡に長州藩の動向を伝えている(長井雅楽の切腹は、翌年2月6日)。尊皇攘夷(破約攘夷派)の退助は、幕府専制による無勅許の開港条約をなし崩し的に是認する事に繋がる長井雅楽の『航海遠略策』(開国策)を、皇威を貶めるものと警戒していたと考えられ、同時期にあたる文久2年6月19日(太陽暦7月15日)の長州藩・久坂玄瑞の日記にも、
とあり、退助と同様に長井雅楽の『航海遠略策』に真っ向から反対し「朝廷を侮慢している」と糾弾している[注釈 18]。
- 土佐勤王党・間崎哲馬と好誼
退助は、この頃既に土佐勤王党の重鎮・間崎哲馬と好誼を結んでいた。間崎は土佐藩・田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江ノ口村に私塾を構えた博学の士で、間崎の門下には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいた。文久2年9月17日(太陽暦11月8日)に退助と間崎が交わした書簡が現存する[16]。
愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調ひ申さず、然るに右別封の義は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣
(文久2年)九月十七日 間崎哲馬
乾退助様
書簡を読む限り別封で、勤王派の重要人物から何らかの機密事項が退助のもとへ直接送られたと考えられている。
- 幕府といえども追討して違勅の罪を問ふべき
文久2年10月17日(1862年12月8日)夜、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、退助は尊皇攘夷を唱える[41]。
朝廷の御趣意、御遵奉して攘夷の議に決すべく候ふて、幕府、若 し勅命 遵奉 これなき時は、追討して違勅の罪を問ふ可 きなり。乾退助
(『寺村左膳道成日記(1)』文久2年(1862)10月17日條)
文久3年1月4日(1863年2月21日)、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(のちの利通)に会う。1月9日(太陽暦2月26日)、大久保一蔵は容堂に面会し、容堂の決心を問うと、容堂は松平春嶽と島津久光の上洛を待って朝廷の意に奉答する(命に順う)と答え、更に「屍を京都に晒す覚悟である」と不動の決意を示した。この時、容堂の傍らに乾退助と小笠原唯八がおり、両者は主君の「朝命遵奉」の決意を聞いて純粋に涙を流した[42]。
容堂の側近、乾退助と小笠原唯八は「正義の者」にて君臣の関係はさすがに殊勝に見受けられる。大久保一蔵
(『大久保利通文書(1)』中山中左衛門宛書簡)
1月10日(太陽暦2月27日)、容堂に随行して上洛のため品川を出帆するが、悪天候により翌日、下田港に漂着する。1月15日(太陽暦3月4日)、容堂の本陣に勝麟太郎(のちの海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議した場に同席。4月12日(太陽暦5月29日)、土佐に帰藩する[29]。
- 青蓮院宮令旨事件
間崎哲馬は、土佐藩の藩政改革を行うため、土佐勤王党が仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動した。12月佐幕派の青蓮院宮は令旨を発したが、この越権行為が土佐藩主の権威を失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂より「不遜の極み」としての逆鱗にふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎は平井収二郎、弘瀬健太と共に責任をとって切腹した。その2ヶ月後、間崎の門下にあたる中岡慎太郎が乾退助を訪問し、のちに薩土討幕の密約を結ぶ端緒となる(詳細は後述)[16]。
中岡慎太郎と胸襟を開いて国策を練る
[編集]文久3年8月下旬(1863年10月)、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、退助は藩の要職(御側御用役)を外されて失脚。中岡慎太郎は失脚した直後の退助を訪ねた。退助は中岡に「君(中岡)が私に会いに来たのは、私が失脚したから、その真意を探る気になったからであろう。その話に移る前に、以前、君(中岡)は京都で私(退助)の暗殺を企てた事があっただろう」と尋ねた。慎太郎は「滅相もございません」とシラを切ったが「いや、天下の事を考えればこそ、あるいは斬ろうとする。あるいは共に協力しようとする。その肚があるのが真の男だ。中岡慎太郎は、男であろう」と迫られたため、「いかにも、あなたを斬ろうとした」と堂々と正直に打ち明けたところ、乾に度胸を気にいられ「それでこそ、天下国家の話が出来る」と、互いに胸襟を開いて話せる仲となった[注釈 19]。その後、二人はお互いの立場を生かして尊皇攘夷を実現するために、中岡は藩外から(下から)の活動を行うため9月5日(太陽暦10月17日)土佐藩を脱藩して長州へ奔り[44]、乾退助は藩内から(上から)の活動を行うため、10月4日(太陽暦11月14日)土佐藩の要職(深尾丹波組・御馬廻組頭[注釈 20])に復帰した。
- 武市瑞山への尋問と冤罪による失脚
元治元年7月24日(1864年8月25日)、退助は高知城下で町奉行に就任し、8月11日(太陽暦9月11日)、武市瑞山らを審理する大監察(大目付)を兼任した。退助は役務上、取調べを行わざるを得なかったが、退助も勤王派であったため尋問には消極的で、一度だけ尋問した際にも「土佐勤王党の首領である武市から犯人の名を明らかにさせ、他はあまり深く究明しないつもりである」と述べている[45]。退助を含め多くの人は、当時の状況から武市の関与があったか曖昧であるため、証拠不充分で武市は釈放されると考えていた。大方の予想に反し、慶応元年閏5月11日、武市は切腹となった。しかし退助自身はその5ヶ月前の元治2年1月14日(1865年2月9日)、勤王党関係者への弾圧を加える藩庁の姿勢と意見が合わず、大監察(大目付)・軍備御用兼帯を解任され失脚している[29]。さらに、元治2年3月27日(太陽暦4月22日)、先の在職中に「(武市瑞山の)郷士から上士昇格の件で不念の儀(不正)」があったとして謹慎を命ぜられるが[注釈 21]、これは深尾丹波に罪が及ぶのを案じて退助が身代わりとなって処断されたものである[29]。
- 中岡慎太郎からの書簡
元治元年12月(1865年1月)、中岡慎太郎は薩摩の西郷隆盛の人柄を伝える書簡を乾退助へ送った[47]。
- 再び江戸へ
元治2年4月1日(1865年4月25日)、ようやく謹慎が解かれ、江戸へ兵学修行へ出る。洋式騎兵術修行を命ぜられ、江戸で幕臣・倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎[注釈 24](騎兵指図役頭取)らにオランダ式騎兵術を学ぶ[48]。また江戸で幕臣および他藩の士と交わって世の動静を察す。
慶応元年9月16日付の片岡健吉宛の書簡で、幕府の対応を批判し、
弱腰之幕府は、英仏蘭米の四カ国の連合艦隊に脅えて降参することはあれども、先陣を切って戦端を開くなどあり得ないだろう。乾退助
(『片岡健吉宛書簡』慶応元年(1865)9月16日付)
と述べている。
慶応2年1月21日(1866年3月7日)、坂本龍馬の盡力により薩長同盟が成立。
慶応2年5月13日(太陽暦6月25日)、藩庁より、学問および騎兵修行の為、引続き江戸に滞留することの許可が下りる。
慶応2年6月7日(太陽暦7月18日)、第二次長州征伐が始まる。
慶応2年9月28日(太陽暦11月5日)、騎兵修行の命が解かれる。
慶応2年11月(1866年12月)、薩摩藩士の吉井友実らと交流する[27]。
吉井はこれに賛同し、後日、西郷、吉井が島津久光の使者として土佐へ来る事になった。残念ながら退助はその時、江戸に居たがその消息を聞き「前途頗る望みある事として心中愉快」と語った[49]。
水戸浪士隠匿事件と水戸学
[編集]慶応2年12月(1867年1月)、水戸浪士の中村勇吉(天狗党残党)、相楽総三、里見某らが退助を頼って江戸に潜伏。江戸築地土佐藩邸の惣預役(総責任者)であった退助は、参勤交代で藩主が土佐へ帰ったばかりで藩邸に人が少ないのを好機として、独断で彼等を藩邸内に匿った[27][50]。中村勇吉は天狗党筑波勢の残党で、急進的な尊王攘夷思想を有していたが、同時に彼等が日光東照宮へ攘夷祈願した檄文には「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州の威稜を万国に輝き候様致し度…」と記すなど、表面的には幕府を敬い、攘夷の決行もあくまで東照宮(徳川家康)の遺訓であるとしていた。これ以降、退助は彼等と接する事で、水戸学における尊皇思想を研鑽した。水戸浪士が東照宮を敬う姿は、後に戊辰戦争の際、退助が敬崇を尽くした参詣を行い、戦禍から守った行動に貫かれている[51]。(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)
- 四侯会議
薩摩藩主の父・島津久光は、外交国際問題及び、国事の重要案件については、勅許を得るべきと考え、更にその案件は雄藩による合議が形成されたものを上奏する制度を構想。四侯会議を開き、江戸幕府専制による政治を改めようとした。 1867年(慶応3年)5月、開かれた四侯会議では、島津久光は会議を主導するが、結果的に征夷大将軍・徳川慶喜の意見に押し切られ、また土佐藩主・山内容堂が幕府寄りの意見を支持したり、病欠するなどし、会議の体を成さず失敗に終わる。薩摩藩は幕藩体制下での合議制度を見限り、徳川家を打破した新政権の樹立の必要性を認識。長州藩も穏便な政治制度改革ではなくもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟る。さらに山内容堂の優柔不断な態度によって、土佐藩の勤王討幕派は、他藩より面目を失墜しかねない危機に陥った[52]。
薩土討幕の密約
[編集]在京の中岡慎太郎は四侯会議の不発を嘆き、上洛を促す書簡を江戸の乾退助に送った。乾退助は、この書簡を受け取ると即座に職を辞し、後事を山田喜久馬に任せ、旅装を整え京都へ向う。5月18日(太陽暦6月20日)乾退助が京都に到着すると、同日、東山の近安楼で、乾退助、中岡慎太郎、福岡孝弟、広島藩の船越洋之助らが会して討幕の策を練った[53][54]。
慶応3年5月21日(1867年6月23日)、京都の料亭・大森で再び乾と中岡が策を練り以下の書簡をしたため西郷へ送る[55]。
慶応3年5月21日(1867年6月23日) 夕方、京都室町通り鞍馬口下る西入森之木町の近衛家別邸(薩摩藩家老・小松帯刀の寓居[注釈 25]「御花畑屋敷」)において土佐藩の乾退助、中岡慎太郎、谷干城、毛利恭助は、薩摩藩の小松清廉、西郷吉之助(のちの隆盛)、吉井幸輔らと武力討幕を議し、
一、勤王一途に存入、朝命を遵奉する。
一、薩摩、土佐の両藩は互いに討幕に向けて藩論を統一させる。
一、両藩は、幕府との決戦に備えて軍備を調達し、練兵を行う。
一、薩摩藩が幕府と決戦となれば、土佐藩はその時の藩論の如何にかかわらず(藩論を討幕に統一出来ていなかったとしても)、30日以内に必ず土佐藩兵を率いて薩藩に合流する。(その為には、集団での脱藩もあり得る)
一、上記は乾退助が切腹の覚悟を以って誓約し、その証として、中岡慎太郎が人質となって薩摩藩邸に籠る。
(中岡が人質となる事に関しては「それには及ばない。全面的に乾の去就を信頼する」との西郷の言を以て除外)
附則として、現在、土佐藩邸に隠匿している水戸藩の勤王派浪士は、薩摩藩が責任を持って預かる[52]。
翌5月22日(太陽暦6月24日)に、乾退助はこれを前土佐藩主・山内容堂に稟申し、同時に勤王派水戸浪士(天狗党残党)・中村勇吉、相楽総三らを江戸藩邸に隠匿している事を告白し、土佐藩の起居を促した[58][59][16]。(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され庄内藩などを挑発し江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する[58][16])
この勢いに押される形で、山内容堂は討幕の軍事密約を了承し、退助に土佐藩の軍制刷新を命じた。 薩摩藩側も5月25日(太陽暦6月27日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。同日、土佐藩側は、福岡孝弟、乾退助、毛利吉盛、谷干城、中岡慎太郎が喰々堂に集まり討幕の具体策を協議[60]。5月26日(太陽暦6月28日)、中岡慎太郎は再度、西郷隆盛に会い、薩摩藩側の情勢を確認すると同時に、乾退助、毛利吉盛、谷干城ら土佐藩側の討幕の具体策を報告した[61]。
- 武器調達
5月27日(太陽暦6月29日)、退助は山内容堂に随って離京。離京に当たり退助は容堂の許可を得て藩費より5月27日(太陽暦6月29日)、中岡慎太郎らに大坂でベルギー製活罨式(かつあんしき)アルミニー銃(Albini-Braendlin_rifle)300挺[注釈 26]の購入を命じ、6月2日(太陽暦7月3日)に土佐に帰着。
弓隊を廃止して銃砲隊を組織し近代式練兵を行った。中岡は乾の武力討幕の意をしたためた書簡を土佐勤王党の同志あてに送り、勤王党員ら300余名の支持を得る[58]。(これが士格別撰隊となり、後に迅衝隊と名を改め戊辰戦争で活躍する)
一方、幕府側は、6月10日(太陽暦7月11日)、近藤勇ら新撰組隊士を幕臣として召抱え、勤皇派の取締りを強化している[55]。
- 土佐藩の軍制を近代化
薩摩と土佐の間で「武力討幕の密約」が締結されると、中岡慎太郎は、ただちに土佐勤王党同志に書簡をしたためてこれを知らせた[54]。
天下の大事を成さんとすれば、先ず過去の遺恨や私怨を忘れよ。今や乾退助を盟主として起つべき時である。 — 中岡慎太郎
6月13日(太陽暦7月14日)、退助が土佐藩の大目付(大監察)に復職し、軍備御用兼帯となると「薩土討幕の密約」を基軸として藩内に武力討幕論を推し進め、6月16日(太陽暦7月17日)、町人袴着用免許以上の者に砲術修行允可(砲術修行を許可する)令を布告[55]。
6月17日(太陽暦7月18日)、土佐藩小目付役(小監察)谷干城を、御軍備御用と文武調(ととのえ)役に任命し、いつでも幕府を武力で倒せるよう軍事教練を強化した[55]。
(この頃、大政奉還論を意図した後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、6月22日(太陽暦7月23日)に薩摩藩と薩土盟約を結んだ)
土佐藩の軍制改革
[編集]7月17日(太陽暦8月16日)、中岡慎太郎の『時勢論』に基づき、乾退助は土佐藩銃隊設置の令を発した[55]。さらに7月22日(太陽暦8月21日)、退助は古式ゆかしい北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止。7月24日(太陽暦8月23日)、参政(仕置役)へ昇進した退助は、軍備御用兼帯・藩校致道館掛を兼職。新たに銃隊編成を行い士格別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊を設置。近代式銃隊を主軸とする兵制改革を行った(これが戊辰戦争で活躍する迅衝隊の前身となる) [16]。 同日、中岡慎太郎が、土佐藩大目付(大監察)・本山茂任(只一郎)に幕府の動静を伝える密書を送った[62]。
(前文欠)又、乍恐窃に拝察候得者、君上御上京之思食も被爲在哉に而、難有仕合に奉存候。然此度之事、御議論周旋而己(のみ)に相止り候得者、再度上京の可然候得共、是より忽ち天下之大戰争と相成候儀、明々たる事に御座候。然れば、實は上京不被爲遊方宜敷樣相考申候。斯る大敵を引受、奇變之働を爲し候に、本陣を顧み候患御座候而は、少人數之我藩別而功を爲す事少かるべしと奉存候。乍恐、猶名君英斷、先じて敵に臨まんと被爲思召候事なれば、無之上事にて、臣子壹人が生還する者有之間敷に付、何之異論可申上哉、只々敬服之次第也。此比長藩政府之議論を聞に、若(し)京師(に)事有ると聞かば、即日にても出兵せんと決せり。依て本末藩共、其内令を國中に布告せり。諸隊、之が爲めに先鋒を争ひ、弩を張るの勢也との事に御座候。右者、私内存之處相認、御侍中并、乾(板垣退助)樣あたりへ差出候樣、佐々木樣より御氣付に付、如此御座候。誠恐頓首。
(慶應三年)七月廿二日、(石川)清之助。
匆々相認、思出し次第に而、何時も失敬奉恐謝候[62]。
本山(只一郎)樣玉机下。
中岡は本山宛の書簡に「…議論周旋も結構だが、所詮は武器を執って立つの覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日かならず開戦になる情勢だから、容堂公もそのお覚悟がなければ、むしろ周旋は中止あるべきである」と書き綴っている[62]。
7月27日(太陽暦8月26日)、中岡慎太郎は、長州の奇兵隊を参考として京都白川の土佐藩邸に陸援隊を結成した。
8月6日(太陽暦9月3日)、退助は「東西兵学研究」と「騎兵修行創始」の令を土佐藩内に布告[55]。この時、長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、阿波経由で英艦が土佐に向かうこととなり、英公使・ハリー・パークスが乗る英艦バジリスク号が、土佐藩内の須崎に入港。土佐藩は不測の事態に備え、退助指揮下の諸部隊を砲台陣地、および要所の守備に就かせた。退助はこれを実戦配備への訓練と位置づけ、軍事演習として利用した[55]。
武力討幕派と大政奉還派の対立
[編集]土佐藩は、乾退助(板垣退助)主導のもと、軍制近代化と武力討幕論に舵を切ったが、後藤象二郎が「大政奉還論」を献策すると、藩論は過激な武力討幕論を退け、大政奉還論が主流となる。しかし、乾退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し真っ向から反対した[63]。
5月22日(太陽暦6月24日)の時点で薩土討幕の密約を了承し、退助に土佐藩の軍制改革と武器調達を命じた山内容堂であったが、8月20日(太陽暦9月17日)になると、容堂は一転して後藤象二郎の献策による大政奉還を幕府へ上奏する意思を示した[64]。藩庁は大政奉還論に反対する乾退助にアメリカ派遣の内命を下し、政局から遠避けようと画策[55]。さらに、8月21日(太陽暦9月18日)、乾退助は土佐藩御軍備御用と兼帯の致道館掛を解任された[64]。
薩土盟約の破綻と乾退助の復職
[編集]イカルス号事件の処理に時間を用した後藤象二郎は、9月2日、ようやく京都へ戻るが、翌9月3日、京都で赤松小三郎が門下生・中村半次郎、田代五郎左衛門によって暗殺されるなどの事件が起きる。その間に薩土両藩は思惑の違いから亀裂が生じ、9月6日(太陽暦10月3日)、薩土盟約は破綻。両藩は再び薩土討幕の密約に基づき討幕の準備を進めることになった[65]。
9月2日付、木戸孝允が龍馬に宛てた書簡(当時、既に木戸と龍馬は薩土密約の存在を承知している[65])によれば、桂は「狂言」によって(大政奉還)が成されようが、成されまいが「大舞台(幕府)の崩れは必然と存じ奉り候」と指摘。さらに、その後の幕府との武力衝突も想定し、土佐藩の乾退助と薩摩藩の西郷隆盛に依って締結された薩土討幕の密約の履行が「最も急務である」と説いている[65]。(龍馬はこの書簡を得た後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を千丁以上購入。9月24日(太陽暦10月21日)帰藩し、藩の参政・渡辺弥久馬(斎藤利行)に討幕の覚悟を求めている。詳細後述)
- 旧土佐勤王党員らを赦免し土佐藩兵に加え決戦に備える
藩政が討幕路線へ再び舵を切った為、慶応3年9月6日(1867年10月3日)、退助は大監察に任ぜられ復職を果たす。退助は薩土討幕の密約に基づく武力討幕論を貫き、これを好機と佐々木高行とともに藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた[58]。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の幹部らは議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山の土佐勤王党を乾退助が事実上引き継ぐこととなる[58]。
- 左行秀の裏切り
乾退助が勤王派水戸浪士(天狗党残党)・中村勇吉、相楽総三、里見某らを築地の土佐藩邸に匿っていることに対し、同藩お抱えの刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門[66])が江戸藩邸の役人に密告。江戸役人は慶応3年9月9日(1867年10月6日)、在京の寺村左膳へこれを伝えた。大政奉還論を軌道に載せようとしていた寺村は、武力討幕派の乾退助の失脚を狙い、これを好機とこの件を山内容堂へ報告。寺村はその際、乾退助が江戸築地の土佐藩邸(中屋敷)に天狗党残党(筑波浪士)を隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する計画を立てている事と、行秀が所有している乾退助が中村勇吉に宛た書簡の写しを添えた[67]。
土佐勤王党が乾退助の身を案じ脱藩を薦める
[編集]「この事が容堂公の耳に入れば、退助の命はとても助からないであろう」と密かに後藤象二郎が話す言葉を漏れ聞いた清岡公張(半四郎)は、土佐勤王党の一員であった島村寿太郎(武市瑞山の妻・富子の弟で、瑞山の義弟)に乾退助を脱藩させることを提案。島村が退助に面会して脱藩を勧めた。しかし、退助は容堂の御側御用役・西野友保(彦四郎)に対し、水戸浪士を藩邸に隠匿していることは、既に5月22日(薩土討幕の密約締結を報告の際)に自ら容堂公へ申し上げている事であるため、既に覚悟は出来ており御沙汰を俟つのみであると返答した[52]。
果たして山内容堂は、乾退助が勤王派浪士を藩邸内に匿っている事の報告を(5月22日の時点で)乾自身から受けて知っており、乾退助への処分は下らず、逆に薩土討幕の密約を結んでいる事を、藩内上役(寺村、後藤)らが知る事となり大政奉還路線を進めようとしていた者達に激震が走る[52]。
当時、土佐藩が「薩土盟約」と「薩土密約」という性質の異なる軍事同盟を、二重に結び、かつ山内容堂も承認していたという背景には、容堂の優柔不断な態度によるものという否定的な見解と、どちらに舵が切られても土佐藩が生き残れるようにする為という肯定的な見解があり、また「大政奉還」の意義を幕府を弱体化させるための大芝居(倒幕を行う途中過程)とする意見もあった[52]。
9月14日(太陽暦10月11日)、土佐藩(勤王派)上士・小笠原茂連、別府彦九郎が、江戸より上洛して、京都藩邸内の土佐藩重役へ討幕挙兵の大義を説く[64]。
9月20日(太陽暦10月17日)、坂本龍馬が、長州の桂小五郎(木戸孝允)へ送った書簡には、
一筆啓上仕候。然ニ先日の御書中、大芝居の一件、兼而存居候所とや、實におもしろく能相わかり申候間、彌憤発可仕奉存候。其後於長崎も、上國の事種々心にかゝり候内、少〻存付候旨も在之候より、私し一身の存付ニ而手銃一千廷買求、藝州蒸氣船をかり入、本國ニつみ廻さんと今日下の關まで參候所、不計 も伊藤兄上國より御かへり被成、御目かゝり候て、薩土及云云、且大久保が使者ニ来りし事迄承り申候より、急々本國をすくわん事を欲し、此所ニ止り拝顔を希 ふに暇 なく、殘念出帆仕候。小弟(坂本龍馬)思ふに是より(土佐に)かへり乾(板垣)退助ニ引合置キ、夫 より上國(京都)に出候て、後藤庄(象)次郎を國にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕 と存申候。先生の方ニハ御やくし申上候時勢云云の認 もの御出來に相成 居申候ハんと奉存候。其上此頃の上國の論は先生に御直ニうかゞい候得バ、はたして小弟の愚論と同一かとも奉存候得ども、何共筆には尽かね申候。彼是の所を以、心中御察可被遣候。猶後日の時を期し候。誠恐謹言。
(慶應三年)九月廿日、(坂本)龍馬。
木圭先生左右[69]
と記し「大政奉還」を幕府の権力を削ぐための大芝居とし、その後、武力討幕を行わねばならないが、後藤象二郎が大政奉還のみで止まり討幕挙兵を躊躇った場合は、後藤を捨て乾退助に接触すると述べている[69]。
9月22日(太陽暦10月19日)、中岡慎太郎が『兵談』を著して、国許の勤王党同志・大石円に送り、軍隊編成方法の詳細を説く[64]。
- 薩土討幕の密約による浪士の移管
薩土討幕の密約締結の時点で、勤王派浪士を薩摩藩邸へ移管する事が決議されていたが、幕府の目を伺いその機を得ぬまま10月となっていた。討幕派の乾らの穏便に薩摩藩へ移管したいと言う思惑と、大政奉還派の寺村、後藤象二郎らは武力討幕路線の浪士を藩邸内から一掃したいという思惑が一致し、10月の時点で薩摩藩への身柄の移管が実現した[16]。(この浪士たちが、のちに庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)
9月24日(太陽暦10月21日)、在京の土佐藩(佐幕派)上士らが、幕吏の嫌疑を恐れて白川藩邸から陸援隊の追放を計画[64]。
同日、坂本龍馬が、安芸藩・震天丸に乗り、ライフル銃1000挺を持って5年ぶりに長崎より土佐に帰国。浦戸入港の時、土佐藩参政・渡辺弥久馬(斎藤利行)に宛てた龍馬の書簡の中に、
一筆啓上仕候。然ニ此度云々の念在之、手銃一千挺、藝州蒸汽船に積込候て、浦戸に相廻申候。參がけ下ノ關に立より申候所、京師の急報在之候所、中々さしせまり候勢、一変動在之候も、今月末より来月初のよふ相聞へ申候。二十六日頃は薩州の兵は二大隊上京、其節長州人数も上坂 是も三大隊斗 かとも被存候との約定相成申候。小弟(坂本龍馬)下ノ關居の日、薩大久保一蔵長ニ使者ニ来り、同國の蒸汽船を以て本國に歸り申候。御國の勢はいかに御座候や。又、後藤(象二郎)參政はいかゞに候や。 京師(京都)の周旋くち(口)下關にてうけたまわり實に苦心に御座候。乾氏(板垣退助)はいかゞに候や。早々拜顔の上、万情申述度、一刻を争て奉急報候。謹言。
(慶應三年)九月廿四日 坂本龍馬
渡辺先生 左右
と書き、乾退助へ会って直接「大政奉還」の策略の真意について説明をしたいと送っている。
9月25日(太陽暦10月22日)、坂本龍馬が、土佐勤王党の同志らと再会し、討幕挙兵の方策と時期を議す[64]。
9月29日(太陽暦10月26日)、乾退助が、土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜらる[64]。
- 大政奉還に猛反対し失脚
しかし、後藤象二郎の献策による大政奉還論が徳川恩顧の土佐藩上士の中で主流を占めると、過激な武力討幕論は遠ざけられるようになる[70]。大政奉還論に傾く藩論を憂い、退助は何度も警告を発した[68]。
また「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことが出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう[63]」と意見を再三述べたが、山内容堂は「退助まだ暴論を吐くか」と取り合わず、10月8日(太陽暦11月3日)、退助を土佐藩歩兵大隊司令役から解任した[64]。
山内容堂はこの時点で薩土討幕の密約を反故に出来たと考え、土佐藩主導のもと、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、大政奉還が成される事になる[63]。
討幕の密勅
[編集]慶応3年10月13日(1867年11月8日)、公家・岩倉具視らの盡力により、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之連署の討幕及び会津・桑名両藩討伐を命ずる討幕の密勅が薩摩藩に下る。
(訳文)詔を下す。源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。 朕(明治天皇)今、人民の父母となってこの賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、朕の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、朕の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻しなさい。これこそが朕の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ[72]。
翌14日、同様の密勅が長州藩に下る。討幕の密勅は江戸の薩摩邸に伝わり、討幕挙兵の準備が行われた。しかし、翌10月14日(1867年11月9日)、大政奉還が御嘉納あらせられ『討幕実行延期の沙汰書』が10月21日(太陽暦11月16日)に薩長両藩に対し下されると、討幕の密勅は効力を失った[58]。
武力討幕の大義名分を延期された薩摩藩の西郷隆盛は、乾退助より移管された勤王派浪士を使い江戸市中を撹乱させ、旧幕府を挑発することによって旧幕府側から戦端を開かせようと戦略をたてた[58]。
浪士による騒擾活動
[編集]10月15日、薩摩藩士・西郷隆盛は討幕の名分が立たない事に苦慮し、百万の兵をもつ徳川家を憤激させようと謀った。その手始めとして薩土討幕の密約によって、土佐藩・乾退助より移管を受けた勤王派浪士・中村勇吉、相楽総三、里見某らを中心とし、さらに討幕勢力の拡大を構想して浪士を募集し藩邸内に匿った[58]。その第一計として浪人を関東各地へ放って、開戦時には関西・関東どちらでも江戸幕府を奔走させ疲れさせようと考えた[73]。そこで西郷は薩摩藩士・益満休之助と同藩の陪臣(倍々臣)・伊牟田尚平に「江戸へ出たら浪人をよびあつめ、関東中で騒乱を起こせ。もし徳川家が警備隊(警察)を送ってくればできるだけ抵抗せよ」と告げると、両人は大喜びで江戸へ向かった[73]。益満と伊牟田が三田の薩摩藩邸に着くと、同藩邸の留守居役・篠崎彦次郎とともに、公然と浪人を募集しはじめた[73]。益満らは同藩主・島津忠義の名で「(江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所で、薩摩藩出身の)天璋院さまご守衛の為」と偽って徳川宗家へ浪人公募の旨を届け出た為、老中らは拒むことができなかった[73]。これから益満らは東奔西走し募集した500名の浪人らを、中村勇吉、落合直亮と相楽総三らを統括者としてまとめると、権田直助を彼らの相談役に、しきりに彼らを江戸から関東一帯へ放って騒擾活動をさせた[74]。
さらに慶喜復権に向けての不穏な動きを感じた討幕派は、薩摩藩管理下の勤王派浪士たちを用いて江戸幕府に対し江戸市中で放火、町人への強盗・庶民への辻斬りなど騒擾による挑発作戦を敢行しはじめた。
四散した浪人らは江戸では豪商や民家を強盗し、関東取締出役・渋谷和四郎の留守宅を襲うと家族を殺傷した[75]。浪人らは、無頼の徒や浪人の名を借りて誰にはばかるところもなく、至るところで財産を盗んで騒擾事件を起こした[75]。これらの浪人による騒擾事件は、10月下旬からはじまり、12月になると最も凄まじくなった[75]。
土佐藩兵の上洛
[編集]10月18日(太陽暦11月13日)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に反対する乾を残し、土佐藩(勤皇派)上士・山田喜久馬(第一別撰隊隊長)、渋谷伝之助(第二別撰隊隊長)らが兵を率いて浦戸を出港。しかし、この時「もし京都で戦闘が始まれば藩論の如何に関わらず、薩土討幕の密約に基づき参戦し薩摩藩に加勢せよ」との内命を乾退助より受ける[55]。この日、乾退助は在京の同志である谷干城に宛て、左行秀の不穏な行動に注意するよう書簡を託した[76]。
10月19日(太陽暦11月14日)、大政奉還論に反対したことにより乾が、土佐藩仕置役(参政)を解任され失脚した[55]。
勤皇派藩士集団脱藩挙兵計画
[編集]土佐藩は徳川恩顧の藩であると主張し、徹底佐幕を貫く小八木政躬や寺村左膳らの策謀により、全役職を解任されて失脚した退助は、京都で合戦が始まれば、薩土討幕の密約に基づき国許の勤皇派同志 数百名と共に脱藩して武力討幕の軍に加わるため、脱藩決意書をしたためた。以下はその全文[16]。
此度、私共御下知に先だち、皇京 の急難に趨 き、御 国 の為、死力を盡し候儀、聊 も軽挙に相当らず可きと申すやに候得ども、根元 両殿様、宇内 の形勢、御洞察あそばされ、先年ならび已來、尊攘の大義、時々御告諭おおせつけられ候を以て、義勇の御誠意、私供の心魂に相徹し、自 然 一箇敵愾の気と相成り候上は、今日に当り未だ出陣おおせつけられず候得ども、従来の御本意に相基づき、眼前の変動は今更とどまり難たく、やむをえず、暫時の御暇を願いたてまつり候。
— 乾退助[16][注釈 27]
抑 も今日 に至り、幕府の大罪は枚挙にいとまあらず候儀に相したため候。就いては、それの年 勅命、初めて幕府に下り候みぎり、奉 違 の二途に拠り、御去就をお定め思召しあそばされあらせられ候以来、追々世運に従い御動静も種々あらせられ候得ども、勤王の御誠意は前後とも御一貫にあらせられ候を以て、御 国 の御令聞、御美名赫々 として親父母の如く仰望たてまつり、隨て御臣下の者共感喜踊躍 相競い罷りあり候ところ、今日 に至り候ても御実行の相顕われ申さず候を以て、漸 く有名無実の御虚飾と相唱え候者もこれあり哉 に承知致し候。
然 るに当今、幕府の逆炎、益々相募り、外夷に諂 い、微弱の 朝廷を凌侮 し、元悪大憝、苟 くも皇国 の恩 を知る者、扼腕切歯 に不堪 場合、薩州侯と仰せ合せられ御上京の上、皇國 の御基本に御立返りあそばされ候に付、必死の分を相盡し候様、以下まで拝承おおせつけられ、実を以て一同踊躍 まかりあり候ところ、不計 御病症の御発動あらせられ、やむを得ず御帰国あそばされ候(※四侯会議の際、山内容堂が発病を理由に欠席し帰国したことを指す)に付、彼藩 (※薩摩藩のこと)に於ても一同落膽 仕 り候趣。剰 へ御側の姦吏の所爲にも候哉 。薩侯、御内談の事ども、会藩へ漏れ候事件もこれあり候趣 を以て、彼藩の者ども御 国 (※土佐藩のこと)を指し、反覆と相唱へ候趣 、内々相聞へ候。然 るに後藤象二郎 大政奉還の儀を相唱へ、彼藩 と盟約 の趣 を以て、尚 又 思召 し伺 いたてまつり候処、御別慮なされず、再び御懸合 に相成 り候趣に候得ども、「有文事者必有武備」の定理 をも相辨 へず、口舌 を主張し、一兵をも率いず、且 前議と齟齬 の筋もこれありを以て、彼藩疑念相蓄 、差迫 候密事も相謀 申さず、進退 維 に至り候趣、勿論 象二郎に於ては頓着これなきに候得ども、堂々たる大国、互いに大事を謀 り、有始無終の謗 を受け候様に相成り候ては、祖宗千載の御瑕瑾 に相成り、 両殿様の御 意 外の御恥辱と存入 、私供、死生を顧みず、乍恐 是迄 の御志 を継ぎ、違 勅の幕臣を払い、一度 今上 之御 宸襟 を奉安 候功業を以て、 両殿様、御 恩澤 の萬に一を報じたてまつりたく、又、志を貫き申さざる節は、一切の悪名 私供が甘受つかまつり、御 国 後来の御迷惑は決して相懸け申さず、赤心 存じ入り候処、神明 に誓い聊 か虚辞これ無き候に付、千万 格別 の御 仁恕 を以て、右件之通り、暫時之御暇、一同願いたてまつり候。
この乾退助による、勤皇派藩士集団脱藩計画は、実行寸前のところで、最終的には土佐藩自体が退助の失脚を解いて盟主に奉りあげ、正規の軍隊として迅衝隊を組織し出陣することになった[77]。なおこの時、小笠原唯八も薩土討幕の密約に基づき同様に脱藩趣意書をしたためている[67]。
坂本龍馬が新政府綱領八義を示す
[編集]11月(太陽暦12月)、坂本龍馬が大政奉還後の新政権設立の為の政治綱領『新政府綱領八義』を示す[78]。(この草案は、かつては慶応3年6月に、船上にて起草されたと考えられていた[79])
第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
第四義 律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レハ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ卒ス
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云云
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ慶応丁卯十一月 坂本直柔
第一義では幅広い人材の登用、第二義では有材の人材選用、名ばかりの官役職廃止、第三義では国際条約の議定、第四義では憲法の制定、第五義では両院議会政治の導入、第六義では海軍・陸軍の組織、第七義では御親兵の組織、第八義では金銀物価の交換レートの変更が述べられている[79]。
王政復古の大号令
[編集]慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇は王政復古の大号令を発し、1.徳川慶喜の将軍職辞職を勅許。2.江戸幕府の廃止、摂政・関白の廃止と総裁、議定、参与の三職の設置。3.諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言された[80]。
徳川內府(徳川内大臣=徳川慶喜)、從前御委任大政返上(大政奉還)、將軍職辞退之兩條、今般斷然被 聞食候。抑、癸丑(1853年(嘉永6年)=黒船来航)以來、未曾有之國難 先帝(孝明天皇)頻年被惱 宸襟候御次第、衆庶之知所候。依之被決 叡慮、 王政復古、國威挽囘ノ御基被爲立候間、自今、攝關幕府等(摂政・関白・幕府等)廢絕、即今先假總裁議定參與之三職被置萬機可被爲行、諸事 神武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之無別、至當之公議竭シ、天下ト休戚ヲ同ク可被遊 叡慮ニ付、各勉勵、舊來驕惰之汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國之誠ヲ以テ可致奉 公候事。
一 內覽 勅問御人數國事御用掛議奏武家傳奏守護職所司代總テ被廢候事。
一 三職人躰
總裁
有栖川帥宮
(中略)
一 太政官始追々可被爲興候間其旨可心得居候事。
一 朝廷禮式追々御改正可被爲在候得共先攝籙門流(せつろくもんりゅう=摂関家)之儀被止候事。
一 舊弊御一洗ニ付、言語之道被洞開候間、見込之向ハ不拘貴賤、無忌憚、可致獻言。且人材登庸第一之御急務ニ候。故心當之仁有之候ハ早々可有言上候事。
一 近年物價格別騰貴如何共不可爲、勢富者ハ益富ヲ累ネ、貧者ハ益窘急ニ至リ候趣、畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者之大寶百事御一新之折柄旁被惱 宸衷候。智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼可申出候事。
一 和宮御方先年關東ヘ降嫁被爲在候得共、其後將軍(徳川家茂)薨去且 先帝攘夷成功之 叡願ヨリ被爲許候處、始終奸吏ノ詐謀ニ出御無詮之上ハ旁一日モ早ク御還京被爲促度近日御迎公卿被差立候事。
右之通御確定以一紙被 仰出候事。 — 王政復古の大号令[81](部分)、慶應3年12月9日(1868年1月3日)
小御所会議における対立
[編集]同日夕刻開かれた小御所会議で、新政治の大綱が議論される。この会議では京都所司代・京都守護職の免職も当初の議題に含まれていたが、会議中に桑名藩主・松平定敬は京都所司代を自ら辞職し、会津藩主・松平容保も同様に京都守護職を辞したため、会議は徳川慶喜の地位に対するもののみとなった[82] 。
山内容堂は、家康以来の徳川氏の治世による歴代の功績と、大政奉還を行った慶喜の英断をたたえ、慶喜と徳川家に対して、寛大な処分を行うよう先鞭を切って提案。松平春嶽や後藤象二郎らも容堂の意見に同調したが、徳川家が幕府に代わる新政権の中で権力を保持し続けるならば「大政奉還」は、忽ちに空文化してしまう危険性があったため、岩倉具視や大久保利通らは、容堂の提案に強固に反対。慶喜の「辞官納地」(官位を辞し徳川家の土地と人民を朝廷に返却すること)を求め、親徳川・反徳川藩両陣営が激しく意見を対立させた。最終的には岩倉や大久保らの意見が通ったが、会津藩・桑名藩など、親徳川派の譜代藩はこの処分に不満を募らせ一触即発の剣幕となる。これら不穏な動静に対し、西本願寺・徳如上人が御所警固のため、六条侍および僧を参集させ尊王近衛団を結成。さらに征討総督宮の護衛、錦旗守備、諜報活動を行った。
江戸薩摩藩邸の焼討事件
[編集]慶応3年12月(1868年1月)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛したが、12月25日(太陽暦1868年1月19日)、江戸では退助から移管され薩摩藩邸に潜匿されていた中村勇吉、相楽総三ら浪士が庄内藩を挑発する事に成功し、江戸薩摩藩邸の焼討事件が勃発する[16]。
薩摩が薩土密約の履行を促す
[編集]12月28日(太陽暦1868年1月22日)、土佐藩・山田喜久馬、吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城を陣中に招き薩摩・長州・安芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国許の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した[16]。
谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(太陽暦1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立、1月3日(太陽暦1月27日)、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日(太陽暦1月28日)、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦。その後、錦の御旗が翻る。1月6日(太陽暦1月30日)、谷が土佐に到着。1月9日(太陽暦2月2日)、乾退助の失脚が解かれ、1月13日(太陽暦2月6日)、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した[84]。
高松攻略
[編集]深尾成質、乾退助率いる土佐藩迅衝隊は北山越え(現在の大豊町を通過する参勤交代の経路)で進軍。この途中、高松藩征討の勅命が土佐藩に下り、直ちに進軍中の迅衝隊へ伝えられた。
勅命では「高松、松山、川之江を討て」との指示で要するに四国の北半分を鎮撫せよとの事であるが、四国は広い。松山は四国の西端、高松は東端とはいかないまでも東側に位置し、川之江は両者の真ん中にある。よってこれらを同時に討つことは出来ない。600の兵を2つ、3つ、に分かつのはもとより愚策であるし、かと言って松山まで兵を率いて進軍し、高松、川之江の兵に背後を突かれる愚も避けたい。四国内の局地戦で時間を浪費し、入京に遅れる事があってはならないし[64]、むしろ松山なら土佐の宿毛あたりから手勢を送った方が近い。そこで、乾退助はこの事を伝えるため腹心の軍監・谷干城を伝令として土佐へ戻し、第二軍を設えて松山討伐へ向かわせる事を指示。自らは今いる場所から最も近い幕領の川之江(現・愛媛県四国中央市川之江町)を目指し進軍することに決した[64]。川之江は幕領であるが、兵の数も少なく、さしたる抵抗もなくこの鎮撫に成功。さらに進路を北東へ転じ、鳥坂峠[注釈 29] を越えて1月19日(太陽暦2月12日)、丸亀城下に入った。土佐兵が讃岐へ侵攻したのは、実に長宗我部氏の時以来300年ぶりの快挙であった[85]。この日、京都から錦の御旗を伝奏した大監察・本山茂任、樋口真吉らも丸亀藩に到着。朝廷から御下賜あらせられた追討令と錦旗を届けた。 丸亀藩は驚き、直ちに恭順の意を示して、支藩の多度津藩を引き連れ、退助ら東征軍の旗下に入った。同日、高松藩士・長谷川惣右衛門が、讃州丸亀の征討軍本陣を訪れ、乾退助らに朝廷への謝罪歎願の取成しを求めた。さらに高松藩は事前に丸亀街道を清掃し、各所に接待所を設け、草鞋等を準備し、征討軍を迎え入れる準備を行う。
翌1月20日(太陽暦2月13日)、退助ら東征軍は錦旗を先頭に、丸亀、多度津の藩兵を先鋒として道案内をさせながら、丸亀から高松城下まで進軍[85]。この隊列は、高松にとって「四国は既に勤王派が席捲し高松は孤立して封じ込められつつある」との心理的不安を煽り効果は絶大であった。この時の丸亀藩兵の参謀は土肥実光で、土肥は丸亀藩内の勤王派で長州の久坂玄瑞とも親交があったが、幕府から「長州寄り」と嫌疑をかけられるのを恐れた丸亀藩によって幽閉されていた。ところが高松藩が朝敵となったと知るや丸亀藩は幽閉を解いて手のひらを返して今度は参謀に据えたのである。退助も大政奉還に反対してつい先日まで失脚していたが、鳥羽伏見の戦いが起ると即日失脚を解かれて土佐藩兵の大隊司令に復職し、兵をあずかり出陣した状況と境遇が全く良く似ていた。さて高松藩は「朝敵」となったと知らされるや、三日三晩、激論が飛び交った末「恭順」する事に決した。(高松藩の被害を最小限にとどめた対応は実に立派で、後の会津藩が優柔不断な態度に出て、ついに「恭順」の機会を逃し、被害を広げたのと対照的となった[注釈 30])その為高松藩は、門前に「降参」と書いた白旗を掲げ、東征軍が通る道を掃き清め、家老が裃を着て平伏土下座して出迎えた。藩主・松平頼聡は既に城を去り、浄願寺で謹慎しており城主のいない城となっていた為、東征軍は城門前に「当分、土佐領御預地」と高札を建て、真行寺を本陣と定め、東征軍は高松城と真行寺に分かれ宿営した[85]。この高松城接収により、逃亡中の高杉晋作を匿った罪状で高松藩の牢獄に入れられていた勤皇の侠客・日柳燕石が出獄解放される。
翌1月21日(太陽暦2月14日)、乾退助は丸亀に戻り、在京の山内容堂や佐幕派の上士らを説得するため船で京都を目指した。丸亀、多度津藩兵は帰藩。しかし、この間も在京の土佐藩重役らは「乾退助を上京させるべからず。片岡健吉を大隊司令として上京させよ」との伝令がしきりに発せられたが、乾退助は巧みにこれらの伝令と遭遇する道を避けて上洛を果たし、ついに在京藩士らの説得に成功する。2月3日(太陽暦2月25日)、土佐藩兵は在京の乾退助を追って、高松から京都へ向けて出発した[85]。なお高松藩主・松平頼聡が帰城したのは1ヶ月後の2月20日(太陽暦3月13日)夜で、正式に謹慎が解かれ、官位が復元されたのは4月15日(太陽暦5月7日)のことであった[85]。
板垣復姓
[編集]2月18日(太陽暦3月11日)、乾退助の率いる迅衝隊が、美濃大垣に到着。次の進軍路の甲府は幕領であったが、圧政に苦しみ徳川藩政を快く思わず、武田信玄の治世を懐かしみ尊敬する気風があった。退助は岩倉具定の助言を容れ軍略を練り先祖・板垣信方ゆかりの甲州進軍に備え、名字を板垣に復し「板垣正形」と名乗る。名将・板垣信方の名に恥じぬよう背水の陣で臨んだ[64]。ちなみにこの時の板垣の佩刀は先祖伝来の備前長船則光(室町期、刀身52.7 cm)である[86]。
甲州勝沼の戦い
[編集]3月1日(太陽暦3月24日)、東山道(現・中山道)を進む東山道先鋒総督府軍は、下諏訪で本隊と別働隊に分かれ、本隊は伊地知正治が率いてそのまま中山道を進み、板垣退助の率いる別働隊(迅衝隊)は、案内役の高島藩一箇小隊を先頭に、因州鳥取藩兵と共に甲州街道を進撃し、幕府の天領であった甲府を目差す。甲府城入城が戦いの勝敗を決すると考えた板垣退助は、「江戸~甲府」と「大垣~甲府」までの距離から東山道先鋒総督府軍側の圧倒的不利を計算した上で、急ぎに急ぎ、あるいは駆け足で進軍。甲州街道を進んで、土佐迅衝隊(約100人[注釈 31])と、因幡鳥取藩兵(約300人[注釈 31])らと共に、3月5日(太陽暦3月28日)、甲府城入城を果した。
一方、幕軍側・大久保大和(近藤勇)は「城持ち大名になれる」と有頂天になり「甲府を先に押さえた方に軍配が上がる」という幕閣の忠告を軽視し、新選組70人、被差別民200人からなる混成部隊の士気を高めるため、幕府より支給された5,000両の軍資金を使って大名行列のように贅沢に豪遊しながら行軍し、飲めや騒げの宴会を連日繰り返した。行軍途中の日野宿で春日隊40人が加わる[注釈 32]。ところが天候が悪化し行軍が遅くなり、甲府到着への時間を空費したため、移動の邪魔となった大砲6門のうち4門を置き去りにして2門しか運ばなかった[87]。しかし、悪天候に悩まされたのは両軍とも同じで、官軍・板垣たちは泥濘に足を取られながらも武器弾薬を運び必死の行軍を続け3月5日(太陽暦3月28日)に入城した。
3月6日(太陽暦3月29日)、板垣退助らより一日遅れて、大久保大和(近藤勇)の率いる甲陽鎮撫隊は甲府に到着したが、板垣らが城を固めていたため入城を果たせず、近藤は応援要請のため、土方歳三を江戸へ向わせる一方で、自身は甲州街道と青梅街道の分岐点近くを「軍事上の要衝である」として柏尾の大善寺を本陣にしようとする。ところが「徳川家康の時代から伝わる寺宝を戦火に巻き込まないで欲しい」と寺から頑なに拒否され、やむなく大善寺の西側に先頭、山門前及び、東側から白山平に伸びる細長い陣を布かざるを得なかった。さらに、当初310人いた兵卒は次第に皇威に恐れをなして脱走し、121人まで減る。土方は神奈川方面へ赴き旗本の間で結成されていた菜葉隊(隊長:吹田鯛六、以下隊士:500名)に援助を求めるが黙殺される。正午頃、柏尾坂附近で甲陽鎮撫隊が官軍に対して発砲したことを発端として戦闘が始まったが、甲陽鎮撫隊は近代式戦闘に不慣れで、大砲の弾を逆に装填して撃った為、照準が定まらず、支給されたミニエー銃の扱いにも窮し敵陣に抜刀戦を仕掛けるという愚を犯し銃弾を浴びて壊滅。洋式兵法にも精通していた迅衝隊がこれを撃破するのは容易く、甲陽鎮撫隊は、戦闘を放棄して脱走する兵が後をたたなかった。原田左之助、永倉新八らが兵を叱咤し、近藤勇が「会津の本隊が援軍に来る」と虚言を用いても、脱走兵を食い止めることが出来ず、戦闘が始まって僅か約2時間(資料によっては1時間)で本陣が突き崩されて勝敗がつき、甲陽鎮撫隊は山中を隠れながら江戸へ敗走。板垣退助ら迅衝隊の大勝利となった[88](甲州勝沼の戦い)。
愈々ご壮栄にてご進発のこと恐賀奉ります。
甲府表では(近藤勇のひきいる甲陽鎮撫隊を甲州勝沼で撃破壊滅させたこと)大手柄でありました由を承りまして嬉しく思い、官軍の勇気もよほど増しまして大慶に存じます。さて、大総督府から江戸に打入りの期限をご布令になりまして、定めてご承知になっている事と存じますが、それまでに軽挙のことがあっては、厳に相済まないことです。静寛院宮様の御事について田安家へお申し含めの事もあり、また勝、大久保(一翁)等の人々もぜひ道を立てようと、ひたすら尽力していると云うことも聞いておりますから、此度の御親征が私闘のようになっては相済まず、玉石相混ぜざるおはからいもあるだろうと存じますれば、十五日以前には必ずお動き下さるまじく、合掌して頼みます。じねん、ご承諾下さるであろうとは信じておりますが、遠くかけへだたっておりますこと故、事情が通じかねるだろうとも思いますので、余計なことながら、この段、ご注意をうながしておきます。恐惶謹言。
川田佐久馬様
(慶応4年)三月十二日 西郷吉之助
乾退助様
- 戊辰の皇誓と億兆安撫國威宣揚の御宸翰
3月14日、明治天皇は五箇条の御誓文を皇祖に誓われると共に、億兆安撫国威宣揚の御宸翰を国民に対して下される[16]。
朕󠄂幼弱󠄁ヲ以テ猝 ニ大統ヲ紹 キ、爾來何ヲ以テ萬國ニ對立シ、列祖󠄁ニ事 ヘ奉 ランヤト朝󠄁夕恐懼ニ堪ヘザルナリ。竊 ニ考 ルニ、中葉朝󠄁政衰 テヨリ、武家權ヲ專 ニシ、表ニハ朝󠄁廷󠄁ヲ推尊󠄁シテ、實ハ敬シテ是ヲ遠󠄁ケ、億兆ノ父󠄁母トシテ、絕テ赤子ノ情󠄁ヲ知ルコト能 ハザル樣 計リナシ、遂󠄂ニ億兆ノ君タルモ唯名ノミニ成リ果テ、其ガ爲ニ今日朝󠄁廷󠄁ノ尊󠄁重ハ古ニ倍セシガ如クニテ朝󠄁威ハ倍 衰へ、上下相離ルヽコト霄壤 ノ如シ。斯 ル形󠄁勢ニテ、何ヲ以テ天下ニ君臨セムヤ。今般朝󠄁政一新ノ時ニ膺 リ、天下億兆一人モ其所󠄁ヲ得ザル時ハ、皆朕󠄂ガ罪ナレバ、今日ノ事朕󠄂自 ラ身骨ヲ勞シ、心志ヲ苦 メ、艱難󠄀 ノ先ニ立 チ、古 列祖󠄁ノ盡 サセ給ヒシ蹤 ヲ履 ミ、治蹟ヲ勤󠄁メテコソ始 テ天職ヲ奉ジテ、億兆ノ君タル所󠄁ニ背 カザルベシ。往昔、列祖󠄁萬機ヲ親 ラシ、不臣ノ者󠄁 アレバ、自ラ將トシテ之ヲ征シ給 ヒ、朝󠄁廷󠄁ノ政 總 テ簡易ニシテ、此 ノ如 ク尊󠄁重ナラザル故、君臣相親 シミ上下相愛 シ、德澤天下ニ洽 ク、國威海󠄀外ニ輝キシナリ。然ルニ近󠄁年宇內大 ニ開ケ、各國四方ニ相雄飛スルノ時ニ當 リ、獨 リ我邦󠄁 ノミ世界ノ形󠄁勢ニ疎 ク、舊習󠄁ヲ固守シ、一新ノ效 ヲハカラズ、朕󠄂徒 ニ九重ノ中ニ安居 シ、一日ノ安キヲ偸 ミ、百年ノ憂 ヲ忘 ル時ハ、遂󠄂ニ各國ノ凌侮󠄁 ヲ受󠄁ケ、上ハ列聖󠄁ヲ辱シメ給リ、下ハ億兆ヲ苦メンコトヲ恐󠄁ル。故ニ朕󠄂コヽニ百官諸󠄀侯ト廣ク相誓ヒ、列祖󠄁ノ御偉󠄁業ヲ繼述󠄁シ、一身ノ艱難󠄀辛苦ヲ問 ハズ、親ラ四方ヲ經營シ、汝億兆ヲ安撫シ、遂󠄂ニ萬里ノ波濤ヲ開拓シ、國威ヲ四方ニ宣布シ、天下ヲ富嶽ノ安キニ置 カムコトヲ欲ス。汝億兆、舊來ノ陋習󠄁ニ慣レ、尊󠄁重ノミヲ朝󠄁廷󠄁ノ事トナシ、神󠄀州ノ危急󠄁ヲ知ラズ、朕󠄂一度 足ヲ擧 レバ非常二驚キ、種〻 ノ疑惑ヲ生ジ、萬口紛󠄁紜 トシテ、朕󠄂ガ志ヲナサヾラシムル時ハ、是朕󠄂ヲシテ君タル道󠄁ヲ失ハシムルノミナラズ、從テ列祖󠄁ノ天下ヲ失ハシムルナリ。汝億兆能 ク朕󠄂ガ志ヲ體認󠄁 シ、相率󠄁 ヰテ私見ヲ去リ、公󠄁議ヲ採󠄁 リ、朕󠄂ガ業ヲ助 ケテ神󠄀州ヲ保全󠄁シ、列聖󠄁ノ神󠄀靈ヲ慰メ奉ラシメバ生前󠄁ノ幸甚ナラム[89]。 — 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』
この頃、奥羽越列藩同盟は、神器も保持せず輪王寺宮を東武皇帝として即位を強要し、伊達慶邦を権征夷大将軍として武家政権を樹立しようと画策[90]。また、会津、庄内両藩は蝦夷地をプロイセンに売却して資金を得ようと考えるなど、いかに時代錯誤で御宸襟を体せざる行動であったかが比較できる[90]。
- 断金隊、護国隊の結成
天領として江戸幕府の圧政に苦しめられていた領民は、甲州勝沼の戦いで幕軍・甲陽鎮撫隊(新撰組)に対し鮮やかに勝利した迅衝隊に驚喜した。さらにその総督・板垣退助が、板垣信方の子孫であると知れると「流石名将板垣駿河守の名に恥じぬ戦いぶりだ」と感心し「武田家旧臣の武田家遺臣が甲府に帰ってきた」と大歓迎した。さらに甲斐国内の武田家遺臣の子孫で帰農した長百姓、浪人、神主らが、板垣ら率いる官軍への協力を志願。これらの諸士を集め「断金隊」や「護国隊」が結成される。結成式は武田信玄の墓前で恭しく行われ、迅衝隊の進軍を追いかけた。このように板垣の復姓は、甲斐国民心の懐柔に絶大な効力を発揮したばかりではなく、迅衝隊が、江戸に進軍する際、武田遺臣が多く召抱えられた八王子(八王子千人同心)を通過する際も同様に絶大な効力を発揮した[64]。
脱走者が相次いだ近藤勇の甲陽鎮撫隊と比較し、板垣退助の戦略は銃器の新旧や練兵度など以前に心理戦としても巧みであったと評されている[64]。板垣の通過した近くの三多摩郡では、官軍が極めて紳士的な態度であったため、その司令官であった板垣の人気はその後も衰えず、板垣の結成した自由党に多くの者が参加した。後年、三多摩の有志は板垣退助を多摩川対岸の大柳河原に招き、板垣の好物である鮎釣大会を催した。また青梅の人々は板垣の人柄を懐かしみ銅像を建立している[31]
会津を攻略
[編集]東北戦争では、三春藩を無血開城させ、二本松藩・仙台藩・会津藩などを攻略するなどの軍功を上げた。
慶応4年(1868年)8月15日、米沢藩主上杉斉憲の正室が、山内容堂から三代前の土佐藩主山内豊資の娘(貞姫)だった関係から、米沢藩に降伏勧告する使者として土佐藩士澤本盛弥を派遣した。 会津攻略戦では、在府の大村益次郎は周囲の敵対勢力を徐々に陥落させていく長期戦を指示したが、戦地の板垣退助、伊地知正治らは、これに反対し一気呵成に敵本陣を攻める短期決戦を提案。この時、会津、庄内両藩は蝦夷地をプロイセンに売却して資金を得ようしていた。板垣らが会津を攻め落した為に、ビスマルクから返書が阻止されて蝦夷地売却の話が反故となったが、長期戦となっておれば、日本の国境線は大いに変わっていたと言われる[16]。そのため特に会津攻略戦での采配は「皇軍千載の範に為すべき」と賞せられ賞典禄1,000石を賜っている。明治元年12月(1869年1月頃)には土佐藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。
会津が降参するにあたり、会津藩士らは主君・松平容保が「素衣面縛」即ち罪人のように縄で縛られた状態で引きずり出され辱められるのではないかと危ぶんだが、板垣は藩主としての体面を保たせ「輿」に乗った状態で城から出て降伏する事を許した。この事に会津藩士らは感激した[27]。会津藩が斗南藩へ減石転封となった時は、藩士らが貧する様を見て特別公債の発給を書面で上奏している。官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。また、自由民権運動も東北地方では福島県を中心として広がりを見せることになった[91]。
総督府は官軍の遺体のみを埋葬し東軍遺体の埋葬を許さなかったと誤解する人がいるが、これらは会津側を悲劇的に物語る為のフィクションで実際には、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写しが会津若松市で見つかり、埋葬場所、埋葬経費などの詳細に記されている。写しによると、明治元年(1868年)10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬している。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載され、更に蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼んで近くに葬ってもらったとの記載がある[92]。
- 凱旋
10月4日(1868年11月17日)、総督・板垣退助が、朝廷より凱旋の令を拝し、凱旋の全軍に諭戒した[注釈 33]。
不肖、退助、推 されて一軍の將となり、當初、剣を仗 て諸君と共に故郷 を出づるの時、生きて再び還る念慮は毫 も無かりき。屍 を馬革に裹 み、骨を原野に曝 すは固 より覺悟の上の事なり。想はせり今日征討の功を了 へ、凱旋の機會に接せんとは。これ何等の幸 ぞや。獨 つ悲 みに堪 へざるは、吾等、戰友同志は露 に臥 し、雨 に餐 するの餘 、竟 に一死大節に殉じ、永 く英魂 を此土 に留むるに至る。眸 の當 り賊徒平定の快を見て之 を禁闕 に復奏 する事 能 はざるの一事なり。而 して我等、此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、低徊 躊躇 の情 に堪 へざるものあり。それを何事 ぞや諸君らの中に刻 を競 ふて南 に歸 さんと冀 ふは。抑 も此の殉國諸士の墓標 に對 し心 に恥 づ處なき乎 。今時 、凱旋奏功の時に臨み、敢 て惰心を起して王師 を汚す者あらば、忽 にして軍法を以て處す。然 れば全軍謹んで之 を戒 めよ[注釈 33]。板垣退助
10月13日(1868年11月26日)、明治天皇、西国諸藩兵3300名に護られ江戸・千代田城に入城。
10月19日(1868年12月2日)、土佐藩兵、東京に凱旋。
10月24日(1868年12月7日)、皇后が皇居に入る。同日、土佐藩迅衝隊大軍監・谷干城が東京に凱旋。
10月29日(1868年12月12日)、御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督・板垣退助が、東山道総督府先鋒参謀・伊地知正治と共に東京に凱旋。
10月30日(1868年12月13日)、迅衝隊大軍監兼右半大隊長司令・片岡健吉、大軍監・伴権太夫ほか迅衝隊士530名が土佐に凱旋(高知凱旋第一陣)。
11月5日(1868年12月18日)、御親征東山道総督府軍先鋒参謀兼迅衝隊総督・板垣退助と大軍監・谷干城ら本営以下442名が土佐藩船・夕顔丸に乗り土佐に凱旋[64]。
版籍奉還の上表
[編集]明治2年1月14日、薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が京都円山端寮(現・円山公園 坂本龍馬・中岡慎太郎像建立地北部)で、薩摩藩の吉井友実が持参した草稿を元に版籍奉還についての会合を行った[94]。3藩は合意し、肥前藩を加えた薩長土肥4藩の藩主、薩摩藩の島津忠義、長州藩の毛利敬親、土佐藩の山内豊範、肥前藩の鍋島直大が連名で新政府に対して明治2年1月20日に版籍奉還の上表を提出した。上表は、国立公文書館で公開されている[95]。明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還が勅許される。
- 戊辰の敵方を軍事顧問に採用
戊辰戦争で勝利した板垣退助は、御親兵の創設を構想して、明治2年5月(1869年6月頃)、旧幕側フランス人将校・アントアンや、旧伝習隊・沼間守一らを土佐藩・迅衝隊の軍事顧問に採用しフランス式練兵を行う。
国民皆兵と四民平等
[編集]明治3年閏10月24日(1870年12月16日)、高知藩の大参事となった板垣は、国民皆兵を断行するため海路上京し、11月7日(1870年1月7日)、「人民平均の理」を布告する事を太政官に具申。その許可を得て12月10日(太陽暦1月30日)高知に帰り、12月24日(太陽暦2月13日)山内豊範の名をもって全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した[16]。
夫れ人間は天地間活動物の最も貴重なるものにして、特に靈妙の天性を具備し、智識技能を兼有し、所謂萬物の靈と稱するは、固(もと)より士農工商の隔(へだて)もなく、貴賤上下の階級に由るにあらざる也。然(しか)るに文武の業は自ら士の常職となりて、平生は廟堂に坐して政權を持し、一旦緩急あれば兵を執り亂を撥する等、獨(ひと)り士族の責(せめ)のみに委(まか)し、國家の興亡安危に至りては平民(へいみん)曾(かつ)て與(あづ)かり知らず、坐視傍觀の勢となり行きしは、全く中古封建制度の弊にして、貴重靈物の責(せめ)を私(わたくし)し、賤民をして愈賤劣ならしむる所以也。方今、王政一新、宇内の變革に基き、封建の舊を變し、郡縣の政體を正さんとする際に當りて、當藩(土佐藩)今や大改革の令を發するは、固(もと)より朝旨を遵奉し、王政の一端を掲起せんと欲すれば也。故に主として從前士族文武常職の責(せめ)を廣く民庶に推亘し、人間は階級に由らず貴重の靈物なるを知らしめ、各自に智識技能を淬勵(さいれい)し、人々をして自主自由の權を得せしめ、悉皆其志願を遂(と)げしむるを庶幾するのみ。抑(そもそ)も古(いにし)へ士と稱するは有志有爲の稱にして、必ずしも門閥の謂(いひ)にあらず、然(さ)れは其(その)多妙の性に基(もとづ)き、更に智識技能を長進し、報國の誠心を盡さんとするは、凡(およ)そ人たる者の天地間に逃れざる大義にして、殊(こと)に皇國は人の資質純厚、義氣最も烈しき風俗なれば、今、一般文明開化の道を講習し、各處に學校を興し、敎育を隆にし、富強(富国強兵)を謀り、士民競起憤發の域に勸進せしめ、大に舊習を變し、務めて新得を來すは、實に當今の一大の急務にあらずや。既に近頃(ちかごろ)普佛の戰爭に、佛國(フランス)屢(しば)々敗を取ると雖(いへど)も、其民、擧國憤興し、愈報國の志強く、其(その)都府(とふ)長圍を受けて猶屈せさるを聞けり。是(これ)亦人を重んずる制度の善なるを見るに足る。故に皇國をして萬國に對抗し、富國の大業を興さしめんには、全國億兆をして各自に報國の責を懷かしめ、人民平均の制度を創立するに如くは無し。若(もし)夫(そ)れ改革の條件、其細目に至つては、往々布告の令に據て之(これ)を詳(つまびらか)にすべし。或(あるい)は其意を誤認して、士族は文武を廢し、安逸に就(つ)き、平民亦(また)其職に惰り、且つ徒(いたづ)らに士族の貴を抑(おさ)へ、民庶の賤を揚ぐる等の疑惑を生す可からず。唯今日(こんにち)宇内の形勢を審(つまびらか)にし、朝廷大變革、開明日新の事情に通し、人間貴重の責をして士族に私(わたくし)し、平民をして賤陋(せんろう)に歸せしむるの大弊を一洗し、人民自己の貴重なるを自知し、各互に協心戮力、富強の道を助けしむるの大改革にして、畢竟(つまるところ)民の富強は卽ち政府の富強、民の貧弱は即ち政府の貧弱、所謂(いはゆる)民ありて然(しか)る後ち政府立ち、政府立ちて然(しか)る後ち民其生を遂ぐるを要するのみ。 明治三年庚午十一月 — (土佐藩布告『人民平均の理[96]』)
御親兵の創設
[編集]板垣退助は富国強兵を国策に掲げ、明治4年2月(1871年3月)、明治天皇の親衛を目的とする薩摩、長州、土佐藩の兵からなるフランス式兵制の御親兵6,000人を創設。国家の常備軍として廃藩置県を行うための軍事的実力を確保する事に成功した。この御親兵が近衛師団の前身にあたる[16]。
- 廃藩置県
明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。
10時に鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳、佐賀藩知事・鍋島直大及び高知藩知事・山内豊範の代理の板垣を召し出し、廃藩の詔勅[97] を読み上げた。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝、熊本藩知事・細川護久、鳥取藩知事・池田慶徳、徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。板垣は、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信らとともに参議に任ぜられると、東京の駿河台に居した[98]。
武田信玄逝去第三百回忌法要
[編集]明治5年4月12日(1872年5月18日)、恵林寺で斎行された武田信玄の第三百回忌法要に、板垣信方の嫡流子孫として板垣退助が参列[16]。
退助は松本楓湖画の板垣信方肖像画に、松本楓湖や住職より讃を請われて固辞し得ず、下記の言葉を直筆で書いた[16]。
松本楓湖自身も勤皇画家として知られ、剣術を修め水戸藩の武田耕雲斎や藤田小四郎らと交わり勤王党を援助している。松本は元治元年(1864年)天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居した。板垣は幕吏に追われた天狗党の中村勇吉、相楽総三、里見某らを江戸築地の土佐藩邸に匿っており、松本とも浅からぬ縁があった。板垣退助の揮毫[99]として確実なもの2点のうちの一つ(もう1点は「死生亦大矣」の書)であるため歴史的にも貴重[16]。
明治六年政変による下野
[編集]明治4年(1871年)10月、右大臣岩倉具視・木戸孝允・大久保利通ら岩倉使節団がアメリカおよびヨーロッパを歴訪することが決定された[100]。板垣は残留し、太政大臣三条実美・西郷隆盛らと共に内政の処理に当たることが決定された[101]。11月7日には板垣ら留守政府と使節団の間で、「廃藩置県の後始末を行う」「大きな改革は行わない」という約束が大久保ら使節団と取り交わされた[100]。また、11月9日には李氏朝鮮に対して正式な使節を送って国交を求め、応じなければ即時に朝鮮を征討するべきであると提案を行ったが(征韓論)否決され、使節団の帰国まで朝鮮問題は凍結するという決定が下された[100]。留守政府体制下では学制の発足、秩禄処分などが行われている。明治4年11月からは台湾への出兵が議論となっており、板垣を含む大多数の留守政府首脳は出兵方針に固まっていたが、大蔵省の実権を握っていた井上馨ら木戸派が反対したため、実行には移されなかった[102]。しかし明治6年(1873年)5月に井上が失脚すると、政府内の改革急進論と対外強硬論はいよいよ強まることとなった[103]。
5月31日、朝鮮の釜山に設置されていた大日本公館代表広津弘信は、朝鮮政府が日本人の密貿易を取り締まる布告の中で、日本を侮辱した文言があったと報告し、居留民保護のために軍艦などを派遣するよう要請した[104]。板垣はこの報告を受けて一個大隊を釜山に派遣するよう主張したが、西郷隆盛は自らを使者として派遣するように提案した[105][106]。西郷は板垣宛の書簡で朝鮮側が日本側の要求を拒否すればこちらから戦に持ち込むとした上で、自らの遣使実現のための協力を依頼した[107]。8月17日に西郷遣使は閣議で決定され、その後天皇の裁可を得た[108]。
しかし帰国した木戸・大久保・岩倉らはこれに対して巻き返しを行った。岩倉は西郷の即時派遣による開戦は、ロシア帝国を始めとする諸外国の介入を招くとして反対し、内地を優先するために西郷遣使は延期するように要望した[109]。西郷はあくまで即時派遣を求め[110]、当初は延期に同意していた板垣・江藤新平・副島種臣・後藤象二郎も西郷の即時派遣論を支持し、特に板垣と副島は強く西郷を支持するようになった[111]。しかし10月23日には板垣と副島の間で論争が起こるなど、彼らの足並みは決して揃っていなかった[112]。一方の岩倉らは宮中の支持を取り付け、西郷ら征韓派を排除する政治闘争の意思を固めていた[113]。10月22日、西郷と板垣ら征韓派五参議は、岩倉に西郷遣使決定を上奏するよう要求したが、拒否されるとなすすべもなく引き下がるほかはなかった[113]。10月24日、天皇は岩倉の上奏した遣使延期を裁可した。同日、西郷と板垣らの辞表も受理され、政府を去ることになった[113]。
板垣らの下野後、政府には多くの請願書が寄せられたが、その多くは征韓論に賛同するものであった[106]。奈良勝司や真辺美佐は征韓論は攘夷論から派生した「輿論」「衆議」と認識されていたと指摘している[114]。真辺は板垣が輿論を無視した政府を正すという目的を持って、議会設立の意思を固めたとみている[114]。
国会開設の請願
[編集]野に下った退助は五箇条の御誓文の文言「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を根拠に、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、明治7年(1874年)1月12日、同志を集めて愛国公党を結成[116]。後藤象二郎らと左院に『民撰議院設立建白書』を提出したが、時期を同じくして板垣らの征韓論を支持する武市熊吉(高知県士族)を筆頭に、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の総勢9人が、同月14日、夜8時過ぎ、赤坂仮皇居から退出しようとした岩倉具視を襲撃する事件が発生した(喰違の変)[117]。岩倉は負傷したが命に別条はなかった。しかしこれにより、国会開設論は過激で時期尚早とみなされ却下された[117]。
臣等伏して方今(ほうこん)政権の帰する所を察するに、上は帝室(すめらみこと)に在らず、下は人民(おほみたから)に在らず、而(しか)も独り有司に帰す。夫れ有司、上は帝室を尊ぶと曰(い)はざるに非(あら)ず、而して帝室漸く其尊栄を失ふ。下は人民を保つと曰はざるに非らず、而も政令百端、朝出暮改、政情実(まこと)に成り、賞罰愛憎に出づ。言路壅蔽、困苦告(つぐ)るなし。夫(そ)れ如是(かくのごとく)にして天下の治安ならん事を欲す。三尺の童子も猶(なほ)其不可なるを知る。因仍改めずば、恐くは国家土崩の勢を致(いた)さん。臣等愛国の情自ら已む能はず、乃(すなは)ち之(これ)を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張る在る而已(のみ)。天下の公議を張るは、民撰議院を立つるに在る而已(のみ)。則(すなは)ち有司の権を限(かぎ)る所あつて、而して上下安全、其の幸福を受る者あらん。請(こ)ふ遂に之(これ)を陳(ちん)ぜん。(『民撰議院設立建白書』冒頭)
そのため、地方から足場を固めるため、高知に戻り立志社を設立。さらに、全国組織に展開を図り大阪を地盤として愛国社の設立に奔走。その最中、明治8年(1875年)、「『国会創設』の活動を行うならば、下野して民間で活動するより、参議に戻って活動した方が早い」との意見もあり、2月に開催された大阪会議により、3月に参議に復帰した。
板垣退助の参議復帰と立憲政体樹立の詔
[編集]参議復帰後の板垣退助は、明治8年(1875年)4月14日、明治天皇より「立憲政体樹立の詔」を得るなど、一定の成果を見た。
また板垣は『讒謗律』の制定に肯定的で、幾つか俎上にある中で最も過酷な法案を支持しており、自己の行っている自由民権運動に関して不利となりかねない法案であったが「誹謗中傷合戦のような低俗な争いではなく、正々堂々と行うべき」という決意を示した。
これは板垣退助が政権に就いても己に有利となる法案を通すような、政権を私物化するような人物ではなかった実例として今日では高く評価されている[16]。しかし一方で当時は「板垣は政府に取り込まれたのだ」と批判する意見もあり、参議と各省の卿を分離する主張が退けられたのをきっかけに、同年10月官を辞して再び野に下り、国会開設の請願を拡大する活動を行った。
詔書写
朕、即位の初首として群臣を会し、五事を以て神明に誓ひ、国是を定め、万民保全の道を求む。幸に祖宗の霊と群臣の力とに頼り、以て今日の小康を得たり。顧に中興日浅く、内治の事当に振作更張すべき者少しとせず。朕、今誓文の意を拡充し、茲に元老院を設け以て立法の源を広め、大審院を置き以て審判の権を鞏くし、又地方官を召集し以て民情を通し公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に其慶に頼んと欲す。汝衆庶或は旧に泥み故に慣るること莫く、又或は進むに軽く為すに急なること莫く、其れ能朕が旨を体して翼賛する所あれ。
明治八年四月十四日
御璽
現代語訳:
私は即位の初めに群臣を集めて五箇条の誓文を神々に誓い、国是を定め万民保全の道を求めた。幸いに先祖の霊と群臣の力とによって今日の落ち着きを得た。かえりみるに、再建の日は浅く、内政の事業には振興したり引締めたりすべき点が少なくない。私は今、五箇条の誓文の主意を拡充し、ここに元老院を設けて立法の源泉を広め、大審院を置いて審判権を確立し、また地方官を召集して民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、皆とともに喜びを分かちたい。皆も、守旧することもなく、また急進することもなく、よくよく私の主旨に従って補佐しなさい。
- 頭山満の来高
明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。福岡の頭山満は西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、来高。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、「最早その時代(武力で政権を覆す)にあらず」と、言論による戦いを主張する。これを契機として頭山は自由民権運動に参加し、板垣が興した立志社集会で初めて演説を行う。福岡に戻った頭山は、12月に自由民権結社・向陽社を結成した[118]。
自由党の結成
[編集]明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。以後、全国を遊説して回り、党勢拡大に努める。(自由民権運動)
- 私擬憲法
国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと、翌明治14年 (1881年)までに私案を持ち寄ることを決議した。板垣退助は私擬憲法の作成意図について『我國憲政ノ由來』で次のように述べている。
自由党の尊王論
[編集]板垣退助は、明治15年(1882年)3月、『自由党の尊王論』を著し、自由主義は尊皇主義と同一であることを力説し自由民権の意義を説いた。
世に尊王家多しと雖(いえど)も吾(わが)自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。世に忠臣少からずと雖も、吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。(中略)吾党は我 皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也。(中略)吾党は深く我 皇帝陛下を信じ奉る者也。又堅く我国の千歳に垂るるを信ずる者也。吾党は最も我 皇帝陛下の明治元年三月十四日の御誓文(五箇条の御誓文)、同八年四月十四日立憲の詔勅、及客年十月十二日の勅諭を信じ奉る者也。既に我 皇帝陛下には「広く会議を興し万機公論に決すべし」と宣(のたま)ひ、又「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」と宣(のたま)ひたり。吾党、固(もと)より我 皇帝陛下の之(これ)を履行し、之(これ)を拡充し給ふを信ずる也。又、立憲の政体を立て汝衆庶と俱(とも)に其慶幸に頼(たよ)らんと欲す。(中略)既に立憲政体を立てさせ給ひ、其慶幸に頼らんと宣ふ以上は、亦吾党に自由を与へ吾党をして自由の民たらしめんと欲するの叡慮なることを信ずる也。(中略)況や客年十月の聖諭の如きあり。断然二十三年を以て代議士を召し国会を開設せんと叡断あるに於ておや。(中略)故に吾党が平生自由を唱え権利を主張する者は悉く仁慈 皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、一点(の)私心を(も)其間に挟まざる者也。(中略)斯(かく)の如くにして吾党は 皇帝陛下を信じ、我 皇帝陛下の意の在る所に随ふて、此立憲政体の慶幸に頼らんと欲する者也。(中略)方今、支那、魯西亜(ロシア)、土耳古(トルコ)諸邦の形状を察すれば、其帝王は驕傲無礼にして人民を軽侮し土芥之を視、人民は其帝王を畏懼し、或は怨望し雷霆の如く、讎敵の如くし、故に君民上下の間に於て曾(かつ)て其親睦愛情の行はるる事なし。(中略)今、吾党の我日本 皇帝陛下を尊崇する所以(ゆえん)は、固(もと)より支那、土耳古(トルコ)の如きを欲せざる也。又、大(おおい)に魯西亜(ロシア)の如きを好まざる也。吾党は我人民をして自由の民たらしめ、我邦をして文明の国に位し、(皇帝陛下を)自由貴重の民上に君臨せしめ、無上の光栄を保ち、無比の尊崇を受けしめんと企図する者也。(中略)是吾党が平生堅く聖旨を奉じ、自由の主義を執り、政党を組織し、国事に奔走する所以(ゆえん)也。乃(すなわ)ち皇国を千載に伝へ、皇統を無窮に垂れんと欲する所以(ゆえん)なり。世の真理を解せず、時情を悟らず、固陋自ら省みず、妄(みだ)りに尊王愛国を唱へ、却(かえっ)て聖旨に違(たが)ひ、立憲政体の準備計画を防遏(ぼうあつ)し、皇家を率ゐて危難の深淵に臨まんと欲する者と同一視すべからざる也。是れ吾党が古今尊王家多しと雖(いえど)も我自由党の如くは無し、古今忠臣義士尠(すくな)からずと雖も我自由党諸氏が忠愛真実なるに如(し)かずと為(な)す所以(ゆえん)なり。(『自由党の尊王論』板垣退助著)
板垣退助岐阜遭難事件
[編集]明治15年(1882年)4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い [注釈 34]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている[120]。
「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣が襲撃を受け犯人を捕縛直後に「なぜ凶行に及んだのか」問い糺した際に、犯人に対して発したものである[121]
板垣自身は、当時の様子を下記のように記している。
4月6日の事件後すぐに出された4月11日付の『大阪朝日新聞』は、事件現場にいあわせた小室信介が書いたものであるが「板垣は『板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ』と叫んだ」と記されており[注釈 35]、他紙の報道も同様で、東京の『有喜世新聞』では「兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ[注釈 36]」等と当時に於いてこれを否定する報道は一つも無く、事件現場の目撃者らを初め相原尚褧自身も板垣の言説を否定していない。また、この時同行していた、竹内綱、安藝喜代香、宮地茂春らも板垣の言葉を聞いている[125]。
さらに、近年、政府側の密偵で自由民権運動を監視していた立場の目撃者・岡本都與吉(岐阜県御嵩警察署御用掛)の報告書においても、板垣自身が同様の言葉を襲撃された際に叫んだという記録が発見され今日に至っている[23]。
- 「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党の臨時報より)
- 「吾死スルトモ自由ハ死セン」(岐阜県御嵩警察御用掛(政府密偵)・岡本都與吉)の上申書より)
- 「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキゾ」(岐阜県警部長の報告書より)
- 「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」(『大阪朝日新聞』明治15年(1882年)4月11日号)- 事件現場にいた小室信介の筆記
- 「板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ」(『有喜世新聞』明治15年(1882年)4月11日号)
- 「たとい退助は死すとも自由は死せず[注釈 37]」 - 事件現場にいた岩田徳義の筆記
- 咄嗟にあの発言が出来たのか
令和2年(2020年)に出された、中元崇智の研究によると、岐阜遭難事件の約1年半前の明治13年(1880年)11月、板垣が甲府瑞泉寺で政党演説を行い、主催者の峡中新報社の好意に対し、
唯、余(板垣)は死を以て自由を得るの一事を諸君に誓うべき也。板垣退助
(『朝野新聞』明治13年12月2日号)
と礼を述べ、さらに事件より半年前の明治14年(1881年)9月11日には、大阪中之島「自由亭」の懇親会で、
而(しこう)して苟(いやしく)も事の権利自由の伸縮に関することあるに遇(あ)う毎(ごと)には、亦(ま)た死を以て之(これ)を守り、之を張ることを勉めんのみ。板垣退助
『東北周遊の趣意及び将来の目的』明治14年9月11日)
と発言しており、平素から自由主義に命をかける決意があったから、咄嗟の場であの発言が出来たというのが真相であろう[127][128]。
竹内流捕手腰廻小具足術相伝系図
[編集]板垣が咄嗟に身を交わし反撃することが出来たのは、若い頃に会得していた竹内流捕手腰廻小具足術のおかげであると語っている。相伝系図は以下のとおり。