総督

総督(そうとく)は、集団や領域の統率者(特に軍権を持つ者)を指す。日本語での原義は中国史における代の地方長官の職名に由来するが、ローマ帝国の "rector provinciae" や 大英帝国の "governor" など、占領地や植民地における最高指揮官の定訳として用いられることが多い。以下、日本語で総督とされるものを挙げる。

  1. 中国代の地方長官直隷総督四川総督など)。
  2. 日本において幕末から明治初期にかけての軍司令官の役職名(禁裏御守衛総督東征大総督など)。
  3. 日本において植民地行政官の役職名(台湾総督朝鮮総督など)。
  4. イタリアの都市国家(ベネチア共和国ジェノバ共和国)における国家元首を指すドージェDoge)の訳語の一つ。
  5. オランダのネーデルラント連邦共和国時代における各州の首長(stadhouder)の訳語の一つ。オランダ総督
  6. イギリスのロード・レフテナント(Lord Lieutenant)の訳の1つ。通常の訳は統監だが、アイルランド総督の例がある。
  7. 諸国における地方および海外領土属州植民地長官に対する訳語の一つ(上記の日本におけるものも含まれる)。
  8. 上記、大英帝国時代の総督の意味であったが宗主国から独立した後でも形式上、継続して用いられているもの。ガバナー・ジェネラル(Governor-General)。カナダ総督やオーストラリア総督など。
  9. フランス軍において首都パリの防衛を担う最高指揮官職。パリ軍事総督

中国[編集]

中国の「総督」とは、国内の地方長官のことである。同時期の地方長官である巡撫が一程度を管轄したのに対し、総督は複数省の軍民両政を執りしきった。には国難があった時に柔軟に対応するための臨時官(宣大総督・陝西三辺総督など)であったが、この官職名を継承したは常設官として大権を与えた。また、清ではこれら通常の総督の他に、特命大臣的な総督(河道総督・漕運総督など)も配置した。清朝末期になると地方行政を一手に担う総督の中には中央朝廷より実力を持つ者も出始めた(曽国藩李鴻章袁世凱 等)。

清の総督(uheri kadalara amban)[編集]

日本[編集]

日本でも歴史的には、下関条約調印後、1895年から1945年の間台湾総督府を、日韓併合条約調印後、1910年から1945年の間朝鮮総督府を、それぞれ設置したことがある。香港を占領した日本軍は、イギリスの香港政庁に代わる香港占領地総督部1942年から1945年の間設置した。

また明治初期の地方裁判所の長官にあたる職位に総督という呼称を用いたこともある。

古代ローマ帝国[編集]

東ローマ帝国[編集]

ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青色部分)。青色と緑色部分はトラヤヌス時代のローマ帝国。赤線は東西ローマの分割線。

[1] 東ローマ帝国では、6世紀末に総督職(ギリシア語: ἔξαρχος, 英語: Exarchates, 古典ギリシャ語再建音:エクサルコス現代ギリシャ語エグザルホス)が設けられた。総督は「地方大守」と訳される事もある。

476年西ローマ帝国の滅亡後も、東ローマ帝国古代末期には安定した状態を維持し、領土拡張を行う能力を保持していた。ユスティニアヌス1世の再征服の間に、北アフリカイタリアダルマチアスペインが、東ローマ帝国の版図に入った。この領土拡張は帝国の限られた資源にとり途方も無い重圧となり、征服事業にかかった軍事費は東ローマ帝国の国家財政の破綻の要因ともなった。しかしながらユスティニアヌス帝の後継者である東ローマ皇帝たちは、再征服された領土を放棄して重圧を免れる方策を採らなかった。この経緯により、地方の変化に恒常的に対処する総督府英語: Exarchates)が設置される事になる。

ローマは早々に見放されたが、6世紀末の皇帝マウリキウスによってラヴェンナと北アフリカカルタゴに総督府が設けられ、東ローマ帝国は版図の維持に努めた。

ディオクレティアヌスによる専制君主制の強化により、属州の行政権と軍事権は別々の系統に属しており、総督も当初は軍の最高指揮官として置かれた。しかし徐々に臨戦体制強化のために行政権も握るようになった。軍事指揮官に行政権も与えて権限を集中させる傾向は、後のテマ制(軍管区制)へとつながっていく。総督は皇帝の代理だけでなくコンスタンティノープル総主教の代理としての役割も果たした。カルタゴ総督府は7世紀にウマイヤ朝によって、ラヴェンナ総督府は8世紀にランゴバルド王国によって陥落し、東ローマ帝国からは失われていった。

オランダ[編集]

16世紀~18世紀のネーデルラント連邦共和国オランダ)では、各州の議会あるいは連邦議会により、州の首長として総督(Stadtholder;「統領」とも訳される)が任命された。事実上、君主に近い地位であり、後のオランダ王家であるオラニエ=ナッサウ家の一族がほとんど世襲していた。

大英帝国とイギリス連邦[編集]

イギリスも植民地に総督をおいており、例えばインドの総督1773年から1950年まで存在した。植民地独立後もイギリス連邦(Commonwealth)に属する国々の中には、現在でも元首である国王の名代として総督が任命されている国がある。例えばカナダオーストラリアニュージーランドには現在でも職位としての総督が存在する。

「総督」と訳される役職にはGovernorとGovernor-Generalがあるが、前者は「知事」とも訳される。いずれにせよ、その地域において国王の代官としての役割を果たしているが、イギリス領である地域ではイギリス政府によってイギリス本国から総督が派遣されており、場合によってはかなりの統治権限を有する(返還前の香港が一例。現在ではジブラルタルセントヘレナイギリス領ヴァージン諸島フォークランド諸島などがこれに該当する)。それに対しカナダやオーストラリア、ニュージーランドなど独立した英連邦王国の場合、総督はあくまでもカナダやオーストラリア、ニュージーランドには通常は滞在していない各国の国王(イギリス国王が兼任)の代理として、儀礼的な職務を行う存在であり、当該国の事実上の国家元首と言える(オリンピックの開会宣言は通常その国の元首が行うが、カルガリーオリンピックシドニーオリンピックバンクーバーオリンピックでは、当時のカナダ総督オーストラリア総督が開会宣言を行った。なお、1976年モントリオールオリンピックではエリザベス2世自身が、カナダ女王として開会宣言を行っている)。そのため、現在ではそれらの国における総督はイギリス政府とは無関係であり(各国の王室=イギリス王室とは関係があるが)、実際には各国の首相の推薦により、各国の市民権を持つ人が総督に選ばれるのが通例である(象徴大統領制に近い)。

ドイツ[編集]

ドイツ帝国時代、海外のドイツ植民地ヘルゴランド島の統治者として「ドイツ語: Reichskommissar」が派遣された。この役職は海外統治だけではなく、特定の政治問題担当者にも任じられるが、植民地や占領地の統治者であるReichskommissarは「総督」と訳されることも多い。

ナチス・ドイツ時代には占領地の統治に当たるReichskommissarが、東部占領地域ウクライナ、バルト三国)や西ヨーロッパに設置された。またポーランドのうち、ドイツに併合されなかった部分には「ドイツ語: Generalgouverneur」であるハンス・フランクポーランド総督府が支配に当たった。また形式上ドイツの保護領となったチェコベーメン・メーレン保護領)においては、「ドイツ語: Reichsprotektor」が行政のトップとされた。これらの役職もそれぞれ総督と訳されることが多い。

各国の総督一覧[編集]

アメリカ合衆国[編集]

イギリス[編集]

オランダ[編集]

ポルトガル [編集]

スペイン[編集]

大日本帝国[編集]

フランス[編集]

脚注[編集]

  1. ^ この節の主要参考文献:ポール・ルメルル著『ビザンツ帝国史』白水社文庫クセジュ(2005年)、ISBN 4560058709 および 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度』東海大学出版会〈東海大学文学部叢書〉(2005年)、ISBN 978-4-486-01667-0

参考文献[編集]

関連項目[編集]