山内孝徳

山内 孝徳
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県上天草市
生年月日 (1956-08-05) 1956年8月5日(68歳)
身長
体重
175 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1979年 ドラフト3位
初出場 1981年4月8日
最終出場 1992年7月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

山内 孝徳(やまうち たかのり、1956年8月5日 - )は、熊本県天草郡大矢野町(現・上天草市出身)[1]の元プロ野球選手投手)。

経歴

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最初は、小学生の頃にマゼランの伝記を読んで船乗りに憧れ、中学卒業後に船乗りになろうと思っていたが[1]、兄から当人の肩が強いと聞かされていた中学の野球部の先生に誘われ、中学生時代に本人曰く「無理矢理」野球部に入部させられて野球を始める[1]。最初は外野手だったが、その肩の強さを買われて投手に転向[1]。中学卒業前には、鎮西高校と東海大学付属第二高校(現・東海大学付属熊本星翔高校)から誘われていたが、東海大二高からは「他に投手が入ることになった」などの事情の変化から断られ、鎮西高校に進学する[1]

鎮西高校では、1974年夏の全国高校野球選手権熊本大会を勝ち抜き、中九州大会準決勝に進出するが佐伯鶴城高に敗退、甲子園には届かなかった。卒業後は電電九州に進む。1979年のドラフト会議南海ホークスの3位指名を受けるが、これを保留し、1980年都市対抗にエースとして出場する。1回戦で優勝候補の東芝に完投勝利するなど活躍。同年の日本選手権では準決勝に進出するが、エース長谷部優を擁する松下電器に0-1で惜敗。シーズン終了後に南海に入団した。電電九州のチームメートに村岡耕一がいる。

入団時に躊躇なく背番号19をつける。南海の功労者である野村克也元監督が1977年に解任されて以来、解任時の経緯から空き番となっていたが、これは球団が18番の山内和宏(実質同期入団)、20番の山内新一(当時のエース格)と番号を揃えることで「山内トリオ」として売り出すためと[2]、2位指名の事前約束を反故にする形での3位指名だったこと[3]で拒否を考えていた山内自身も、空き番を事前に調べて「南海といえば19番だから」という理由で入団条件として要求したこともあり[1]、つけることになった。以後、2020年に甲斐拓也捕手が着用するまで、外国人を含めて投手の着用が続くことになる[4]

この経緯について、野村は「あれは正直、ショックだった。仮に球団から『19』番を提示されたとしても、『そんな背番号、恐れ多くて着けられません』くらいのことを言って、断るだろう。ところが山内孝は、『南海といえば19番』と、自ら「19」を希望したとさえ聞く。その要求に応え、南海球団があっさり『19』を受け渡したのだから、私はそれほど大した選手ではなかったのだということだ。(中略)以降、“ホークス”の『19』番といえば、すっかりピッチャーの背番号になってしまった」という複雑な心境を、前述の南海球団による『山内トリオ』の目論見もあったことにも触れた上で、複雑な心境だったことを吐露していた[5]

スライダーシュートを武器にする強気なスタイルと制球力を持ち味とし[6]、山内和宏らとともに弱小期南海のエース格として7年連続2桁勝利を上げる活躍をした。ただチームが低迷期ゆえ[7]、9年連続2桁敗戦も記録。先発登板の際は、香川伸行がスタメン捕手を務める事が多かった。

1988年オフに西武東尾修と交換トレード内定との一報が出た[8]が、東尾の引退で立ち消えとなる。更に巨人中畑清とトレードの話が持ち上がるが、それを拒否して福岡移転が決まっているホークス残留を選んだ[9]。自身の地元である福岡(平和台野球場)ホーム開幕戦(1989年4月15日)で勝利して以降成績が低迷、翌1990年には開幕から2ヶ月先発登板するも6試合で1勝4敗防御率10.9と打ち込まれ、リリーフに転向後6勝3敗5セーブ防御率3.77と新たな活路が見出だせたかに見えたが、翌年以降はリリーフでも低迷。

1992年に通算100勝をマークし現役引退[10]

RKB毎日放送東京メトロポリタンテレビジョン野球解説者、また福岡でタレント、パーソナリティーとして活躍し、その傍らNPO法人ホークスジュニアアカデミーで野球教室のコーチを務めている[6]

1997年から2003年までスポーツニッポン評論家も務めた。

2014年からは福岡ソフトバンクホークスのファーム投手チーフコーチに就任し[11]、背番号「91」[12]をつけたが、1年限りで退団[13]

2015年から社会人野球のKMGホールディングス硬式野球部で投手チーフコーチに就任し、[14]2年間務めた。現在は野球解説者としての活動に専念している。

現役時代からの口ひげは今も健在[注釈 1]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1981 南海
ダイエー
25 24 10 2 5 7 13 0 -- .350 680 162.2 188 13 24 1 3 50 0 0 77 63 3.48 1.30
1982 30 30 14 2 5 13 12 0 -- .520 879 216.0 212 26 25 1 4 79 2 0 88 73 3.04 1.10
1983 31 31 16 2 3 10 14 0 -- .417 1002 242.0 264 30 35 3 11 88 1 0 120 110 4.09 1.24
1984 31 31 13 2 1 16 11 0 -- .593 880 204.2 248 32 34 1 6 89 1 0 125 111 4.88 1.38
1985 32 31 14 2 4 10 12 0 -- .455 862 202.1 228 31 37 1 4 85 1 0 123 107 4.76 1.31
1986 33 29 13 1 4 11 18 0 -- .379 901 211.1 251 39 32 6 5 117 0 1 112 105 4.47 1.34
1987 30 28 10 2 4 10 14 0 -- .417 836 195.2 240 20 33 5 0 75 0 4 99 91 4.19 1.40
1988 26 25 10 1 1 11 11 0 -- .500 796 186.1 208 22 43 8 4 68 1 0 95 87 4.20 1.35
1989 21 18 6 0 1 3 13 0 -- .188 501 110.0 154 21 21 1 7 39 2 0 85 82 6.71 1.59
1990 39 6 0 0 0 7 7 5 -- .500 318 70.2 89 15 23 4 2 39 0 0 51 48 6.11 1.58
1991 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 42 9.2 11 2 3 0 0 3 0 0 8 8 7.45 1.45
1992 16 1 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 137 31.0 40 7 6 1 2 17 0 0 22 22 6.39 1.48
通算:12年 319 254 106 14 28 100 125 5 -- .444 7834 1842.1 2133 258 316 32 48 749 8 5 1005 907 4.43 1.33
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

記録

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初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1985年9月15日、対日本ハムファイターズ19回戦(後楽園球場)、3回裏3死目に達成
  • 1500投球回:1988年6月15日、対日本ハムファイターズ10回戦(大阪スタヂアム)、1回表3死目に達成
  • 100勝:1992年6月28日、対日本ハムファイターズ12回戦(平和台球場)、先発登板で7回1/3を3失点 ※史上104人目
その他の記録
  • シーズン5無四球試合(1981年)※パ・リーグ新人記録
  • オールスターゲーム出場:3回 (1982年、1983年、1985年)

背番号

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  • 19 (1981年 - 1992年)
  • 91 (2014年)

関連情報

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出演番組

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脚注

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注釈

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  1. ^ 勝ち星が自身の背番号19を上回ることができたら髭を剃るつもりだったが、1984年の16勝を上回ることができず、結局ひげを生やしたままにしていた。逆に1990年には「10勝出来なかったら髭を剃る」と公約(このシーズン途中からリリーフに配置転換されたため、「勝利数とセーブ数合わせて10出来なかったら」に公約を変更)、結果この年は7勝5セーブ(足して12)を挙げたため、髭を剃らずに済んだ[15]

出典

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  1. ^ a b c d e f 週刊ベースボール 2024年7月29日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 山内孝徳・1』(64頁 - 66頁)
  2. ^ 『ベースボールマガジン 1998年夏季号 背番号&ユニフォーム大特集』ベースボールマガジン社、1998年7月1日。 
  3. ^ 2位として高校野球で有名になった香川伸行捕手を急遽指名することになったため。
  4. ^ 山内の引退直後に受け継いだ大越基は、外野手に転向後「51」→「0」に変更した。
  5. ^ 野村克也が語る“背番号19”「ホークスの19番といえば甲斐という存在になってほしい」 - 週刊ベースボールONLINE、2020年2月4日、10:00配信。ベースボール・マガジン社
  6. ^ a b NPO法人ホークスジュニアアカデミー > 山内 孝徳”. HAWKS JUNIOR ACADEMY. 2011年10月8日閲覧。
  7. ^ ホークス75年史―南海、ダイエー、ソフトバンクー継承される栄光の歴史、ベースボール・マガジン社、2013年、P74
  8. ^ スポーツニッポン 1988年11月1日 1面
  9. ^ ホークス九州移転30周年 今こそ思い出したい“ヒゲのエース“山内孝徳の熱投
  10. ^ 実家で百姓の手伝いをしていた事もあり、「百姓が100勝して200勝」とネタにする。
  11. ^ 新入団コーチのお知らせ福岡ソフトバンクホークス公式サイト2013年10月17日配信
  12. ^ 新入団の山内コーチが会見「先発完投型を育てたい」福岡ソフトバンクホークス公式サイト2013年10月21日配信
  13. ^ コーチの退団について福岡ソフトバンクホークス公式サイト2014年11月5日配信
  14. ^ 昨年ホークスコーチの山内孝徳氏が社会人野球のコーチに就任 田尻耕太郎(スポーツライター)。Yahooニュース、2015年2月16日。
  15. ^ 別冊ベースボール『よみがえる1990年代のプロ野球 PART7』(2021年7月刊)68頁

関連項目

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外部リンク

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