東尾修

東尾 修
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県有田郡有田川町
生年月日 (1950-05-18) 1950年5月18日(73歳)
身長
体重
177 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1968年 ドラフト1位
初出場 1969年4月13日
最終出場 1988年10月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 西武ライオンズ (1995 - 2001)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2010年
選出方法 競技者表彰

東尾 修(ひがしお おさむ、1950年5月18日 - )は、和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町)出身の元プロ野球選手投手)、監督野球解説者タレント日本プロ野球名球会理事を務める。

1968年に西鉄ライオンズに入団し、以降は太平洋・クラウン・西武と球団名が変わってもライオンズ一筋でプレーした。

1995年から2001年までは西武ライオンズの監督を務めた。通算165与死球はNPB記録[1]

長女はプロゴルファー東尾理子。理子と結婚したタレント俳優石田純一は娘婿にあたり、従姉に歌手青山和子がいる。

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

京都平安高校に合格し、すでに下宿先の手配など京都での生活準備が進んでいたが、その評判を聞いた和歌山県立箕島高等学校野球部監督の尾藤公が直々に口説き、一転して同校に入学した。箕島高ではエースで4番として活躍し、1967年の秋季近畿大会では1回戦で東山高、準々決勝で甲賀高をそれぞれノーヒットノーランで抑え、注目を集める。決勝では因縁のある平安高の池田信夫と投げ合うが敗退し、準優勝にとどまったが、1968年春の選抜への出場を決めた。箕島高は甲子園初出場であった。

甲子園では準決勝まで進み、この大会に優勝した大宮工と対戦した。試合は1、2回に3点を先制するが、その後は相手エース吉沢敏雄に抑えられ、8回に逆転されて3-5で敗退[2]。同年夏の甲子園県予選では2回戦で星林高に敗れた。尾藤は後に甲子園で4回優勝(春3回、夏1回)という実績を残したが、「この年(1968年)のチームが最強であり、優勝できなかったのは自分自身の経験不足のため」と語っている。

1968年のドラフト会議西鉄ライオンズから1位指名を受けた。ドラフト前には他の球団から何らかの接触があり、中には1位指名をほのめかした球団もあったというが、西鉄からの指名は事前に何の接触も無い唐突なものだったため、東尾の両親は「東京や大阪のチームならともかく、離れ小島みたいな(当時の本拠地の)九州のチームに息子を入れるわけにはいかない」として西鉄への入団に猛反対し、指名を拒否して大学へ進学することを勧めた。東尾自身も西鉄の一方的な指名に腹を立て、一時は法政大学への進学がほぼ決まり、以前にも慶應義塾大学のセレクションを受けていたことがあり、この時は打者として受け、もし慶應に入学していたら野手に転向していたと話している[3]。しかし、「西鉄もプロのチーム。そのプロが1位指名してくれた」と思い直し、両親を説得して西鉄に入団した。東尾は後に、「1位指名だったからこそ入団した。西鉄は1位指名によって僕のプライドを守ってくれた。1位指名でなければ西鉄に入団しなかった」と語っているが、自身の著書『ケンカ投法』では「2位でも入っていたし、3位でも入っていたかもしれない」と語っている[4]。契約金1000万円、年俸180万円[5]

現役時代[編集]

プロ入り当初は周囲のレベルの高さについていけず、1年目の夏には「このままではいつまでたってもプロでは通用しない」と考えるほどだったという。二軍でも打ち込まれて自信を無くし、首脳陣に野手転向を申し出たこともある[6][7]。だが、1969年に「黒い霧事件」が発生し、エースの池永正明ら主力投手が軒並み永久追放されて投手不足に陥ったことから、一軍の投手として起用されることになり、投手コーチだった河村英文にシュートを習い[8]加藤初と共に連日350球から400球という投げ込みを課せられた。東尾は黒い霧事件により自分にチャンスが巡って来ると感じ、内心喜んだと言い、後に「自分の野球人生における最大のチャンス到来、ターニングポイントだった」と語っている[9]

黒い霧事件の余波を受けての戦力低下、観客動員数の激減などで西鉄は1972年オフに球団を手放し、福岡野球が運営する太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズとチーム名が変わるなど不安定な経営状態となったが、東尾はこの低迷時代をエースとして支えた。1975年には23勝15敗で最多勝(開幕時点で高卒7年目24歳の阪急ブレーブスの即戦力新人山口高志と並ぶ4完封)となり、1977年オフには巨人から東尾の獲得申し出があったが、球団は「東尾の放出は球団の死を意味し、それは我々が経営の当事者である限りありえない」との声明を発表した[注 1]

球団は1978年オフに親会社が福岡野球から国土計画に代わり、1979年から西武ライオンズとして埼玉県所沢市に移転した。前年から引き続き指揮を執った根本陸夫監督は、編成の要職も兼任し、トレードなどにより選手を大幅に入れ替え、西鉄時代からの生き残りは東尾と大田卓司の2人だけになった。東尾と大田は、共に西鉄が西武になるまでの全てのライオンズ球団に所属した選手である。

1982年、球団管理部長専任となった根本の後任監督に広岡達朗が就任した。広岡はチームプレーを重視した守りの野球を展開し、東尾の一塁ベースカバーが遅れたと感じた広岡は、東尾を先発ローテーションから外す姿勢を打ち出した[10]。翌1983年には東尾の投球に関して、広岡が試合後に「八百長をやっているのではないか」とコメントしたことがスポーツ紙に報じられたことから、東尾が激怒したこともあった[11]

広岡率いる西武は、1982年、1983年と2年連続リーグ優勝・日本一を達成し、1985年にもリーグ優勝した。東尾はこれら3度の日本シリーズでは全てリリーフに回り、1982年には日本シリーズMVPに輝き、胴上げ投手にもなっている(中日戦、大島康徳から三振)。投手が救援登板のみでMVPを獲得したのは日本シリーズ史上初で、2017年の日本シリーズデニス・サファテソフトバンク)がMVPを獲得するまでは唯一の記録だった。1983年には2度目の最多勝、最優秀防御率、ベストナイン、パ・リーグMVPなど数々のタイトルを獲得している。

1984年には通算200勝を達成した。1985年はタイトルこそ獲得出来なかったが17勝3敗の好成績で、21勝を挙げた佐藤義則阪急)を差し置いてベストナインに選ばれた。

1986年、6月13日の近鉄戦(西武球場)で、6回一死にリチャード・デービスに投じたインコースのシュートが、踏み込んだ近鉄のデービスの左肘に当たり、これに激高したデービスがマウンドの東尾に駆け寄り右ストレートを放ち、その後蹴りや4、5発のパンチを浴びせるなどの乱闘事件となった。デービスはこの時「コントロールのいい投手が、ああいうところに投げるのは故意としか考えられない。狙って当てたんだ」と怒鳴り散らしている。デービスは退場となり、東尾は「ここで降りたら恰好悪い」として続投し完投勝利している[12]。なお、デービスはこれにより10日間の出場停止、罰金10万円の処分を受けている。日本ハムの監督だった高田繁は「今回だけは東尾に同情しない、今までやりたい放題だった」と述べている[13]。一方で、阪急監督の上田利治も「ウチだってやられたらいくで」とコメントしたが、これに東尾は「頭に来た」としており、「当時の阪急は乱数表を使って死球のサインがあったし、そんなチームの監督が何を言うか」と後に述べている。直後の阪急戦では内角を攻めることを一切せず外角一本で完投勝利を収めている[14]

1986年の日本シリーズ広島との対戦)では、史上初めて8戦目までもつれた。東尾は第1戦に先発し、9回裏一死まで0点に抑えながら小早川毅彦山本浩二に連続本塁打を打たれて同点とされ引き分けたが、西武は3連敗し広島に王手をかけられ、東尾は続く5戦目でも9回を投げ、自責点0のまま降板した。後を受けた工藤公康がサヨナラヒットを打って西武はやっと1勝目を挙げ、東尾に勝ち星は付かなかったものの、この1勝がきっかけでシリーズ逆転劇へと繋がった。8戦目は東尾が先発登板するが、投手の金石昭人に2点本塁打を打たれて3回で降板。試合後、東尾は「もう握力がなくなっていた」と語っている。西武はこの後逆転し日本一となるが、当時36歳の東尾はこのシリーズで0勝ながら3試合、21イニングを投げている。

12月29日に球団と契約更改交渉を行い、前年より900万円アップの年俸1億円でサインした。ロッテから中日へトレードで移籍した落合博満が年俸1億3000万円でサインしており、落合に次いで日本人選手として2番目、投手として初の1億円プレーヤーとなった[15]

1987年は工藤と最終登板まで繰り広げられた熾烈な最優秀防御率争いもあり、15勝9敗、防御率2.59(リーグニ位)の成績を挙げ、チームの2年連続日本一に貢献し、1983年以来自身2度目のパ・リーグMVPに選出される。12月12日、球団との契約更改交渉に臨んだが、球団が提示した年俸1億1000万円を保留。更改後に会見し、「あれだけやってこれだけかとショックですよ」と不満を見せたが、一方で「大きな数字なので、単に僕の年俸というより、球界、チーム全体に影響がある。僕自身妥当な妥当な金額がよくわからない。一度周囲の反響を聞いてみたい」とも述べた[16]

ところが14日、この年のシーズン中に麻雀賭博に加わった件で、警察から事情聴取を受けていたことが明らかになる[17][18]。東尾は午後、球団事務所にて記者会見し、「私の未熟さ、軽率さが引き起こしたこと。OB、チームメイトの事を思うと言葉がありません」[19]「事の重大さに深く反省している。いろんな方に大変迷惑をかけた。球団には包み隠さずお話しした。どんな処分も甘んじて受ける」と謝罪した[20]。15日、西武球団の坂井保之代表が東尾を事情聴取した大崎警察署、東京地検を訪問し説明を受け、東尾がこの件で直接暴力団との関わりがなかったとの認識を示した[21]。21日、球団は東尾に対し6か月の謹慎処分、減俸2500万円の処分を課したと発表。オープン戦、公式戦の出場は禁じるが、合同自主トレ、キャンプの参加は認めた[22]

1988年6月に謹慎から復帰し、近鉄戦で完封勝ちを収めるなど、健在ぶりをアピールするも、ローテーションから主軸から外されてしまった[23]。同年は6勝を挙げ通算251勝を達成した。中日との日本シリーズ第1戦(ナゴヤ球場)で、4−1で迎えた8回無死一・二塁、中日の打者・彦野利勝の場面で先発の渡辺久信をリリーフした[24]。東尾は当然、最後まで投げ切るつもりでマウンドに上がった[24]。しかし、森祇晶監督の言葉は「この1人を抑えてくれ」だった[24]。次打者には左打者の立浪和義がおり、ブルペンでも左投手が準備していた[24]。森からすれば、単純に勝つための最善手として、1人を確実に抑えてほしいとの思いから出た言葉だったが[24]、東尾の受け止め方は違い、彦野を初球、内角シュートで三ゴロ併殺、二死三塁となって、立浪は3球三振に仕留め、わずか4球でピンチを切り抜けた[24]。9回も投げ切ったが、森の言葉は東尾の心に強く残り、その日の夜、知人に引退の意思を口にした[24]。9回表には上原晃から犠牲フライを打ち打点を挙げている[25]。第5戦も登板し、3年連続日本一に貢献[23]

同年オフの11月1日、チーム名が南海ホークスから変わったばかりの福岡ダイエーホークスとの間で山内孝徳との交換トレードが内定との一報が出る(これが実現すれば、在籍チームがクラウンライターライオンズだった1978年以来10年ぶりの「福岡Uターン」とも報じられた)[26]。しかし当時の堤義明オーナーが「MVPも獲った功労者、東尾以上の要員でなければトレードはあり得ない、金銭トレードも認めない」と発言(これが事実上の引退勧告とも報じられる)[27]。そして当時のダイエー・中内㓛オーナーも東尾獲りに自ら出馬[28]、更には大洋が獲得を表明し[29]巨人も獲得に前向き[29]と騒ぎになる中で、東尾自身は「西武で燃え尽きたい」といったことを発言[30]、最後には自ら引退の結論を出して[31]11月22日に会見を開き[32]、同年限りで引退した。

引退後はテレビ朝日文化放送日刊スポーツの野球解説者・野球評論家を務めた。

西武ライオンズ監督時代[編集]

石毛宏典が引退勧告からの監督就任要請を固辞し、FAダイエーに移籍した為[33]、東尾は球団からの要請を受け1995年に西武の監督に就任した。バッテリーコーチに大石友好、二軍投手コーチに加藤初を招聘した[34]。大石は中日の1軍バッテリーコーチに決まっていた11月の秋季キャンプも参加していたが、東尾は大石に「中日をやめて、西武に帰って来い』って。」と言い、大石が『もう来年が決まっているからいけないです』と言ったら、『まだ契約はしていないんだろ』ってね」と言われ、12月に球団同士の話し合いで西武のコーチに就任した[35]。また、ドラフトでは西口文也高木浩之小関竜也などを獲得し、メジャーリーグに復帰していたオレステス・デストラーデを西武に復帰させ、現役メジャーリーガーのダリン・ジャクソンを獲得するなどの補強を行った監督スタートだったが、優勝のオリックスに15連敗を含む5勝21敗と大きく負け越し、1年目は3位に終わった[注 2]

1996年には清原和博復活の為、清原の恩師である土井正博を一軍打撃コーチに復帰させ[36]広島から河田雄祐中日から清水雅治前原博之をトレードで獲得し、ドラフトでも髙木大成大友進原井和也を獲得して戦力を整えて2年ぶりの優勝を目指したが、この年も3位に終わった。

同年シーズンは、レギュラー捕手の伊東勤は92試合の出場にとどまり、「東尾修さんが監督になった95年のドラフトで西武は1位で髙木大成を指名した。私が劣っているところは何もないと思っていたが、96年のシーズンに入るとよく先発から外された。コーチからは何の説明もない。こちらから聞くといつもお前を推してるんだけどと言われた。また怒りに火が付いた」と当時を振り返っている[37]

1997年、一軍ヘッドコーチに元大洋監督の須藤豊を招聘し、巨人にFA移籍した清原の後釜としてドミンゴ・マルティネスを、ドラフトで森慎二和田一浩玉野宏昌などを獲得した。清原の後任として4番に起用した鈴木健を主軸に、松井稼頭央や大友・髙木大成をはじめとする新鋭が台頭し、また潮崎哲也杉山賢人佐々木誠らベテラン、移籍加入したデニー友利などの活躍や、伊東も前年の屈辱をバネに奮起した結果、3年ぶりにリーグ制覇を成し遂げた。日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れた。

7月10日の近鉄戦、9回表無死一・二塁の西武攻撃の場面で、奈良原浩が牽制でタッチアウトになり、そのジャッジに怒った奈良原は丹波幸一塁審に対して胸を突いたため退場となった[38]。東尾が抗議し、丹波塁審が抗議を受けなかったことから、東尾が丹波の胸を突き退場を宣告されたことで、丹波を蹴るなどの暴力行為を行い[38]、パ・リーグ関係者が仲裁に入る騒動になった[38]。翌日に3試合の出場停止、罰金10万円の処分を受けた[38]。丹波塁審は左下腿挫傷と診断され[38]、出場停止期間中の監督代行は、須藤一軍ヘッドコーチが務めた。

1998年日本ハムからトレードで西崎幸広を、またオリックスからFAで中嶋聡を獲得するなど戦力を補強し、前年の1997年まで森繁和1名体制だった一軍投手コーチを森・杉本正の2名体制にしたが、6月15日の時点でチーム防御率4.26と低迷し、同日二軍投手コーチの加藤初が一軍投手コーチに昇格し、森を二軍投手コーチに降格させた[39]。この年大混戦となったパ・リーグの中で、リーグ2連覇を果たした。日本シリーズでは下馬評は西武が有利と予想されたが[40]、横浜に2勝4敗で敗れ2年連続日本シリーズ敗退となった。

同年オフ、守備・走塁面に大きな難があったものの、2年連続で30本塁打を記録するなどチームの主砲として活躍していたマルティネスを「日本シリーズで勝つチームを目指すため」として解雇した。これは1997年と1998年の日本シリーズにおいて、DH制のないセ・リーグ本拠地では、守備に難があったマルティネスを起用できないことが影響して、いずれも日本一を逃していたためである。しかし、翌1999年に入団したアーキー・シアンフロッコグレッグ・ブロッサーらは全く打てず、結果的にリーグ優勝を逃した[注 3]。また、4番として起用していた鈴木健も、後続の打者が打てないこともあってマルティネス退団以降は成績が下降し、2000年以降は4番を外れるケースが増えた。

1999年は、黄金ルーキーとして入団した松坂大輔の活躍でダイエーと優勝争いを繰り広げ、9月中一度は0.5ゲーム差まで迫るも、追い越すまでには至らず、マルティネス退団により低下した攻撃力もあって結局2位に終わり、リーグ3連覇は成らなかった。翌2000年もダイエーとの優勝争いに敗れて2位に終わり、2001年近鉄、ダイエーとの優勝争いに敗れ、同年限りで監督を勇退した。

西武ライオンズ監督勇退後[編集]

西武ライオンズ監督勇退後はテレビ朝日(2010年まで)、文化放送、スポーツニッポンの野球解説者に復帰。また、2006年9月から2009年8月までバスケットボールプロリーグ・bjリーグ東京アパッチで球団社長を務めた。

2010年野球殿堂入りした。

2012年10月10日に野球日本代表の投手総合コーチに就任したことが発表された[41]。11月13日に背番号が「78」となったことが発表された[42]

2016年からは文化放送と並行して、福岡放送の解説者を務める。

2019年、女子硬式野球クラブチーム「和歌山Regina」の名誉顧問に就任した[43]

選手としての特徴[編集]

ロッテの木樽正明成田文男らの投球フォームを参考に切れ味鋭いシュートやスライダーを軸にした内外角の横の揺さぶりと、打者の内角を突く強気の投球スタイル[注 4]を確立した。与死球数が多く、通算165個という日本記録を持っている[44](右打者に132個当てており、これは82%の割合である)。死球を与えても全く動じないふてぶてしい性格から「ケンカ投法」の異名も取った。

東尾はこの攻撃的なスタイルについて、得意とするスライダーとシュートを最大限に活かすため、試行錯誤の末に編み出したとし、「僕だって本当はストレートで、格好良く真っ向勝負をしたかった。しかしプロで生き残るためには、ああいうスタイルでなければいけなかった」と語っている。西鉄のエースだった池永正明を目標としており、師匠だとも話している[45]。東尾は右打者にはぶつけるが左打者にはぶつけないというプライドがあったため、栗橋茂にぶつけた際には謝ったという[46]

全力で投じるストレートがプロでは二軍ですら通用しないことに愕然とし、「このままでは来年にはクビになると思い、秋のキャンプで変化球主体のスタイルの習得に取り組んだ」という。「高校時代は速球投手なんて呼ばれていたが、全盛期でも142、3キロくらいしか出ていない。通用しないことに早いうちに気付くことが出来て幸運だった」とも述懐している[47]

与死球が非常に多いことで知られたが、現役時代から本人は一貫して「故意に当てたことは1回も無い」と述べている。ただし「例外的なケース」と前置きを置いて、チームプレーの上での報復死球は与えたことがあると認めたことがある[48]。チームメイトだった山本隆造がルーキーだった1978年のある試合で、山本が2本ヒットを打った後に死球を受けた時に「俺が仕返ししてやる」と思ってやったということをその例として挙げているが、当てる時は次の打者がデータ的に打力が無いとした時のみであると話している[49]

他方で先述の選手時代の「味方がボールをぶつけられたら、こっちもやり返す」と述べていたことからもわかるように他のチームからの死球には厳しく、自身が監督時には、内藤尚行清原和博に死球を与えた翌日には、報復死球であったとしてロッテの尾花コーチを呼んで「いいかげんにしろ、承知せんぞ」と詰め寄り、内藤からの謝罪を無視した[50]

福本豊とは相性が悪く、特に球速の遅い変化球から多くの盗塁を許していた。当の福本に東尾の癖を直接教えてもらい一時は克服したが、またすぐに別の癖を福本に見抜かれた。福本は東尾の癖を「本塁へ早く投げたい気持ちが左肩に出ていた」と表現していた[51]

西鉄時代はチーム事情により、実力の伴わない若手時代から主戦投手としてシーズンを通して登板したため負けが多く、1年目である1969年から4年連続で負け越しており、実働20年の現役生活のうち9シーズンで負け越し、半分以上の14シーズンで2桁敗戦を喫した。リーグ最多敗戦投手となったシーズンが5回ある(最も多く負けたのは1972年の25敗[注 5]。)。また、通算200勝より先に通算200敗を達成しており(梶本隆夫に次いで史上2人目。)、200勝を達成した1984年のシーズン終了時点で通算201勝215敗と大きく負け越していた(ちなみに150勝した時点では170敗しており負け越し20)。しかし、翌1985年に17勝3敗という好成績で14の負け越しを一気に帳消し、その後の3シーズンを33勝29敗と勝ち越しで終えた結果、引退時には通算251勝247敗と無事勝ち越しを記録することとなり、現在200勝投手で通算成績が負け越しているのは梶本のみである。

東尾は2018年現在、シーズン300イニング登板・20敗戦を記録した最後の投手でもある。

人物[編集]

選手時代[編集]

愛称は「トンビ」(東尾の音読み)である。若いころから夜遊び好きであり、毎晩のように夜の街に繰り出していた。文化放送ライオンズナイターでベンチレポートを長年務めたプロ野球コメンテーターの中川充四郎は、東尾は登板前日は絶対にアルコールを口にしなかったと振り返っているが[52]、女優の中尾ミエは登板前日も一緒に飲んだことがあると話している[53]。球団が福岡から所沢に移転した際は、福岡に家を買ったばかりだったため単身赴任し、阪神から移籍した田淵幸一と意気投合しよく飲み歩いていたという[54]

太平洋クラブ時代の1974年8月27日、日本ハムとのダブルヘッダー戦(神宮)は、加藤初とともに先発が決まっていた(どちらが第1試合に投げるかは決まっていなかった)が、前夜その加藤とトランプに興じて完徹になってしまい、一睡もできないまま球場入りし、加藤に第1試合の先発を譲ったところ、2安打1失点で完投勝利を挙げてしまった。これに触発された東尾も、省エネ投法で4安打2失点の完投勝ちを収め、「素晴らしい投球術だ」と当時の稲尾和久監督から絶賛された[55]

広瀬哲朗は著書『プロ野球オレだけが知ってるナイショ話』の中で、試合中に広瀬が東尾と対戦した際、カットしてファウルにし続けたところ、激高した東尾がマウンドから降りてきて「小僧、いつまでファウルにしとるんや。早く凡退せぇ、コノヤロー!!」と怒鳴られたというエピソードを紹介している。東尾本人もこのことを認めており、「だって客が飽きているんですよ。『お前のファウルなんか見せられて誰が喜ぶんだ』と頭にきて、つい怒鳴ってしまった」と述懐している。

清原和博は新人時代門限を破り、高額の罰金を球団から請求された時、東尾が球団と話し合い、罰金が減額されたことがあった[56]

打者の内角を攻める「ケンカ投法」はそれゆえに乱闘に発展することも何度かあり「子どもの教育によくない」という声もあったが東尾はこれに対して「これはプロ野球だ。教育じゃない」と口にしていた[57]

広岡達朗との確執[編集]

東尾はスポーツニッポンに連載されたコラムで、現役時代に対戦相手の打者9人に続く10人目の敵として当時西武の監督だった広岡の名前を挙げており、東尾は広岡にプライドをズタズタにされたと述べている。キャンプ時にアルコールが禁止された時は、チーム最年長の田淵幸一と共に、知人の医者が差し入れた小型冷蔵庫にビールを冷やして、やかんに入れたビールを湯のみに移して飲んだという[58]。1982年にはベースカバーの落球をめぐって先発を外され、1983年の広岡の八百長発言を後まで「今でも許せない」と述べている。

1985年に広岡の監督辞任を知った際には万歳三唱したとしているが、一方で「広岡さんの厳しい指導の下で若手が成長し、チームが強くなったのは事実」と述べており[59]、 『西武ライオンズ30年史』(ベースボール・マガジン社)のインタビューでは東尾・田淵共に「創成期の西武ライオンズにおいて、広岡という監督は必要不可欠なものだった」と語っている。

西武監督時代[編集]

西武監督としての手腕[編集]

東尾が監督に就任した当時の西武は黄金期の主力選手が移籍したり、衰えが顕著になるなど戦力の低下が著しかったが、東尾は投手陣に関しては松坂、西口、石井貴豊田清の「先発4本柱」や、中継ぎ・抑えの森などを育成し世代交代に成功した。また、西武黄金時代にはリリーフだった潮崎を先発に転向させたり、日本ハムから戦力外となりトレード加入した西崎を抑えとして再生するなど、ベテランの起用にも手腕を発揮した。

野手に関しては、俊足巧打で守備力もある選手は多かったが長打力に欠けるところがあり、特に清原の巨人移籍以降は外国人の出来によって打線の力が大きく左右されるようになった。このことから、典型的な1番タイプだった松井を早くからクリーンアップ、時には4番として起用した。また、鈴木健髙木大成小関竜也大友進高木浩之など主力が左打者に偏っており、相手先発が左投手の時には特に苦労していた[注 6]

1999年まで投手コーチを務めた森繁和は著書の中で「同じピッチャー出身の東尾監督のもとでのピッチングコーチはやりにくい面もあった」と著書に記している[60]

また、2000年には獲得した大物メジャーリーガー・レジー・ジェファーソンが8月25日の試合で9回に守備でミスをし、直後に交代させた。メジャーでは、ミス直後に選手を交代する行為は選手への侮辱とされており、アメリカでは有り得ない采配に対して怒ったジェファーソンは異議を唱えたが、東尾は采配批判とみなして、二軍落ちを命じた。ジェファーソンは直後に帰国している。

監督時代においても、選手と一緒にバラエティ番組に出演してゲームに興じるなど、良くも悪くも「上司」だった広岡、森祇晶両監督とは正反対の兄貴分・親分的な存在としてチームをまとめていた反面、1997年に日本シリーズで対戦し、かつて西武にも在籍した当時ヤクルト監督の野村克也は、シリーズで試合前の君が代斉唱時に西武の先発投手や捕手が整列していなかったこと、野村が主審に抗議に行った時に汚い野次が西武ベンチから飛んだこと、西武に茶髪などの選手がいたことなどに対し、「昔の西武はこんなチームではなかった」「こんなチームに負けていてはいけない」と嘆いており、また野村は日本シリーズ終了後の森との対談で「今まで森監督が率いる西武、仰木監督が率いるオリックスと日本シリーズで対戦したが特別な意識はなかった。1997年の日本シリーズはこのチームには負けられないと思った」と述べ、森も「その気持ちわかります」と同調し、また野村は「自由奔放という言葉を履き違えている。個性という意味を間違えて理解しているように思える」と述べている[61]

プロ野球解説者として[編集]

東尾の解説は、「居酒屋中継」、「1杯引っかけてから解説に来てるんじゃないか」などと揶揄されることがある。これは独特の口調と活舌の悪さが酔っぱらってしゃべっているように聞こえるためである[注 7]

思ったことをストレートに表現する解説が特徴で、中継で東尾とコンビを組む文化放送アナウンサーの斉藤一美は「配慮はあるが遠慮がない」を東尾のキャッチフレーズに使用している。またテレビ朝日の野球解説者だった時代のキャッチフレーズは「東尾のズバリ解説」であった[注 8]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1969 西鉄
太平洋
クラウン
西武
8 4 0 0 0 0 2 -- -- .000 73 15.0 16 2 14 0 1 11 1 0 14 14 8.40 2.00
1970 40 31 3 0 0 11 18 -- -- .379 786 173.1 183 22 90 2 7 94 4 0 107 99 5.14 1.58
1971 51 31 3 0 0 8 16 -- -- .333 964 221.1 198 20 118 3 15 109 5 0 110 92 3.74 1.43
1972 55 41 13 2 0 18 25 -- -- .419 1313 309.2 313 37 110 6 12 171 4 0 152 126 3.66 1.37
1973 48 37 14 5 2 15 14 -- -- .517 1088 257.1 250 22 91 8 13 104 6 0 107 94 3.29 1.32
1974 27 19 7 1 1 6 9 0 -- .400 513 123.0 116 12 46 2 7 58 1 0 55 47 3.44 1.32
1975 54 31 25 4 1 23 15 7 -- .605 1281 317.2 287 14 63 8 7 154 3 0 101 84 2.38 1.10
1976 43 22 15 2 1 13 11 5 -- .542 1013 243.1 256 14 52 8 7 93 2 0 97 86 3.18 1.27
1977 42 31 17 1 3 11 20 4 -- .355 1018 241.2 259 30 56 4 14 108 1 0 119 104 3.87 1.30
1978 45 35 28 1 1 23 14 1 -- .622 1225 303.1 299 25 53 8 16 126 1 0 110 99 2.94 1.16
1979 23 22 10 1 3 6 13 0 -- .316 666 155.0 181 19 32 3 7 61 0 1 90 78 4.53 1.37
1980 33 33 18 1 4 17 13 0 -- .567 988 235.1 258 28 41 1 12 84 0 1 117 99 3.79 1.27
1981 27 27 11 1 2 8 11 0 -- .421 768 181.0 192 24 51 6 7 55 1 1 83 77 3.83 1.34
1982 28 25 11 2 0 10 11 1 -- .476 763 183.2 179 20 49 3 3 59 1 1 76 67 3.28 1.24
1983 32 29 11 3 2 18 9 2 -- .667 873 213.0 198 14 51 4 6 72 0 1 76 69 2.92 1.17
1984 32 32 20 3 3 14 14 0 -- .500 986 241.1 227 24 53 5 8 84 2 0 103 89 3.32 1.16
1985 31 23 11 3 2 17 3 1 -- .850 721 174.1 164 19 46 0 7 74 1 0 71 64 3.30 1.20
1986 31 22 8 0 2 12 11 2 -- .522 703 168.1 183 29 27 6 7 52 1 0 85 79 4.22 1.25
1987 28 27 17 3 6 15 9 0 -- .625 904 222.2 215 16 29 6 6 85 3 0 81 64 2.59 1.10
1988 19 15 5 1 0 6 9 0 -- .400 463 105.2 121 21 30 2 3 30 2 0 63 57 4.85 1.43
通算:20年 697 537 247 34 33 251 247 23 -- .504 17109 4086.0 4095 412 1102 85 165 1684 39 5 1817 1588 3.50 1.27
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB歴代最高
  • 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更

年度別監督成績[編集]




























1995 西武 3位 130 67 57 6 .540 12.5 .246 117 2.98 45歳
1996 3位 130 62 64 4 .492 13.0 .258 141 3.58 46歳
1997 1位 135 76 56 3 .576 - .281 110 3.63 47歳
1998 1位 135 70 61 4 .534 - .270 115 3.66 48歳
1999 2位 135 75 59 1 .560 4.0 .258 89 3.58 49歳
2000 2位 135 69 61 5 .531 2.5 .255 97 3.68 50歳
2001 3位 140 73 67 0 .521 6.0 .256 184 3.88 51歳
通算:7年 937 489 425 23 .535 Aクラス7回
  • 1995年から1996年までは130試合制
  • 1997年から2000年までは135試合制
  • 2001年から2003年までは140試合制
  • 通算成績は1997年の出場停止の3試合を含めない

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
投手記録
  • 初登板:1969年4月13日、対近鉄バファローズ3回戦(平和台球場)、8回表に3番手で救援登板、1回1失点
  • 初先発登板:1969年8月15日、対南海ホークス15回戦(平和台球場)、6回0/3を2失点
  • 初奪三振:同上、3回表に西岡三四郎から
  • 初勝利・初先発勝利:1970年5月16日、対東映フライヤーズ8回戦(平和台球場)、7回1/3を2失点
  • 初完投勝利:1970年5月24日、対阪急ブレーブス8回戦(小倉球場)、9回1失点(自責点0)
  • 初完封勝利:1972年4月22日、対阪急ブレーブス2回戦(阪急西宮球場
  • 初セーブ:1975年5月10日、対近鉄バファローズ前期5回戦(平和台球場)、8回表に2番手で救援登板・完了、2回無失点
打撃記録
  • 初本塁打:1971年10月2日、対阪急ブレーブス22回戦(阪急西宮球場)、戸田善紀から
節目の記録
  • 100勝:1977年7月20日、対阪急ブレーブス後期2回戦(阪急西宮球場)、6回裏一死に3番手で救援登板・完了、3回2/3を無失点 ※史上70人目
  • 1000奪三振:1978年8月24日、対日本ハムファイターズ後期8回戦(後楽園球場)、8回裏に大宮龍男から ※史上55人目
  • 150勝:1980年10月3日 対日本ハムファイターズ後期13回戦(後楽園球場)、9回完封勝利 ※史上33人目
  • 500試合登板:1982年4月24日、対阪急ブレーブス前期5回戦(阪急西宮球場)、先発登板で6回3失点 ※史上46人目
  • 200勝:1984年9月15日、対南海ホークス25回戦(西武ライオンズ球場)、9回完封勝利 ※史上20人目
  • 600試合登板:1985年6月12日、対近鉄バファローズ7回戦(西武ライオンズ球場)、先発登板で7回2失点で勝利投手 ※史上23人目
  • 1500奪三振:1985年8月6日、対近鉄バファローズ13回戦(西武ライオンズ球場)、1回表に羽田耕一から ※史上29人目
  • 250勝:1988年9月4日、対南海ホークス18回戦(西武ライオンズ球場)、9回3失点完投勝利 ※史上10人目
  • 4000投球回:1988年 ※史上8人目、2022年終了時点最後の達成者
その他の記録
  • 通算165与死球 ※NPB記録
  • シーズン25敗:1972年 ※パ・リーグ記録
  • オールスターゲーム出場:10回(1972年、1973年、1975年、1976年、1978年、1982年、1984年 - 1987年)

背番号[編集]

  • 21(1969年 - 1988年)
  • 78(1995年 - 2001年)

関連情報[編集]

出演[編集]

野球解説
CM

ゲーム[編集]

著書[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1975年オフにも同様の申し出があったが反対され、当時チームで球速の速かった加藤初投手を獲得した。ベースボールマガジン社『プロ野球トレード図鑑1936-2001』より
  2. ^ オリックス戦以外の成績は62勝36敗6分で、西武との直接対決を除いたオリックスの61勝42敗1分を上回っていた。
  3. ^ ちなみに、1998年のマルティネスは1人で30本塁打を打っていたが、1999年の外国人野手4人は合計で25本塁打であった。
  4. ^ なお東尾を指導した河村も、現役時代には内角攻めを得意としていた。
  5. ^ これは2016年現在のパリーグ記録である。
  6. ^ ダイエーは2001年、既に外国人投手枠が埋まっていたのにもかかわらず、西武対策として左投手のクリス・ヘイニーを獲得した。
  7. ^ 文化放送「くにまるジャパン」のワンコーナー「おきらく野村係長」には、これに因んだ『ヒガシオ・オサムさん』というキャラクターが存在する(「オヨヨ、オヨヨヨヨ」としか喋っていないが、高橋将市アナにはその意味が通じているというキャラ)。
  8. ^ 当時のテレビ朝日は専属解説者にキャッチフレーズを付けることが慣例になっており、ほかにも「ノムさんのクール解説」、「四郎のホット解説」、「若松のジャスト解説」、「大下のワイド解説」「ミスター三冠王・オレ流解説」などがあった。

出典[編集]

  1. ^ 日本野球機構 |歴代最高記録 与死球 【通算記録】
  2. ^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2003年2月17日、153頁。 
  3. ^ 「私の真実―わが悔いなき野球人生」p.29 - 33
  4. ^ 『江川になれなかった男たち』p.115-116
  5. ^ 野村克也さんについてどう思いますか?と東尾さんに聞いてみたら…… - YouTube
  6. ^ 黒い霧事件と東尾修 -元・名物番記者が語るプロ野球ちょっと裏話-
  7. ^ 東尾修(野球解説者)<後編>「運命のように切り開かれた大投手への道」
  8. ^ 「あの時、君は若かった」ルーキー秘話『Sports Graphic Number』2011年3月24日号、文藝春秋、2011年、雑誌26854・3・24、51頁。
  9. ^ 『江川になれなかった男たち』p.116-117
  10. ^ No.19 首脳陣に反発 選手が団結”. 野球人 東尾修のスポニチ連載コラム 我が道. RS INTERNATIONAL. 2013年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月20日閲覧。
  11. ^ No.20 今でも許せない八百長よばわり”. 野球人 東尾修のスポニチ連載コラム 我が道. RS INTERNATIONAL. 2013年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月20日閲覧。
  12. ^ デービス激怒!死球受け東尾に右ストレート 与死球王は意地の完投勝利”. デイリースポーツ online (2017年6月20日). 2022年10月16日閲覧。
  13. ^ “【6月13日】1986年(昭61) 気短デービス 東尾修の死球に激高!「狙って当てた!」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2012年6月13日). オリジナルの2013年6月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130609090241/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1206/kiji/K20120613003458010.html 
  14. ^ No.23 デービス事件~死球が多い理由”. 野球人 東尾修のスポニチ連載コラム 我が道. RS INTERNATIONAL. 2013年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月20日閲覧。
  15. ^ 読売新聞1986年12月30日16面「東尾"1億"の春」読売新聞縮刷版1986年12月p1135
  16. ^ 読売新聞1987年12月13日17面「東尾、1億1000万保留 『球界のため妥当な金額を』」読売新聞縮刷版1988年12月p579
  17. ^ 読売新聞1987年12月14日夕刊15面「東尾投手がとばく 書類送検」読売新聞縮刷版1988年12月p647
  18. ^ 読売新聞1987年12月15日17面「東尾、処分待ち謹慎 西武『事実関係確認して』」読売新聞縮刷版1987年12月p665
  19. ^ 読売新聞1987年12月15日27面「通ったのは22回 とばくの東尾投手」読売新聞縮刷版1987年12月p675
  20. ^ 読売新聞1987年12月15日17面「『どんな処分も受ける』東尾会見」読売新聞縮刷版1987年12月p665
  21. ^ 読売新聞1987年12月16日17面「『暴力団と接触なし』東尾 西武、調査の末"判断"」読売新聞縮刷版1987年12月p713
  22. ^ 読売新聞1987年12月22日17面「東尾"セーフ!"キャンプ・自主トレOK 西武『マージャンとばく』温情処分 年明けにも山ごもりへ」読売新聞縮刷版1987年12月p957
  23. ^ a b プロ野球最期の言葉、村瀬秀信著、イースト・プレス、2010年、P233
  24. ^ a b c d e f g 日ハム稲葉引退 東尾修「優勝争いの裏で戦力外選手の見極めを行っている」ときどきビーンボール - 週刊朝日
  25. ^ 「わかっていたのに」投げた変化球 高卒1年目で流した涙…35年後も悔やむ痛恨被弾”. Full-Count (2023年9月14日). 2023年10月7日閲覧。
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  33. ^ スポーツニッポン2018年4月21日伊東勤の我が道、11版
  34. ^ 東尾氏 盟友・加藤初氏を悼む…忘れられない「鉄仮面」雄姿・スポーツニッポン
  35. ^ 中日を「離れたくない」 予感通りに“恩人”から直電…勃発した西武との争奪戦
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  44. ^ 東尾修がインハイへの投球を語る インハイレジェンド
  45. ^ 「ケンカ投法」p.27 - 29
  46. ^ 【近鉄黄金伝説】第三弾 Part3 栗橋茂×佐野慈紀 頭部死球5回!? 栗橋茂伝説続編!
  47. ^ 私の真実―わが悔いなき野球人生「初先発にたどりつくまでの日々」の章(p.44 -47)、「ケンカ投法」p.15 - 18
  48. ^ 東尾氏と「デッドボール対談」の清原氏 一番痛かった死球は「ダルビッシュ」
  49. ^ 週刊現代 2015年6月27日号「週現熱討スタジアム 第156回 東尾修の「ケンカ投法」を語ろう」(p.150 - 153)
  50. ^ 朝日新聞1995年5月26日25面
  51. ^ 私の真実―わが悔いなき野球人生「天才・福本豊との“数ミリの勝負”」の章
  52. ^ 【一番近くで見た 西武ライオンズ40年】鋼の精神力!東尾修、若手に慕われた「男っぷり」と「飲みっぷり」
  53. ^ 東尾修伝説を中尾ミエが暴露 銀座でハシゴ酒「何軒回ったか」から六本木…翌日登板
  54. ^ “東尾修【前編】栄光にあっても波風が立ち続ける右腕の宿命/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE (ベースボール・マガジン社). (2018年8月30日). https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180830-11 2021年11月18日閲覧。 
  55. ^ 東尾修『ケンカ投法』ベースボール・マガジン社、2010年。
  56. ^ 清原和博著、告白、文藝春秋、2018年、96頁、
  57. ^ 長谷川晶一 プロ野球にまつわる言葉をイラストと豆知識でズバァ━━ンと読み解く プロ野球語辞典 令和の怪物現る!編 株式会社誠文堂新光社.2020年.P78
  58. ^ No.18 落球から始まった危険な関係”. 野球人 東尾修のスポニチ連載コラム 我が道. RS INTERNATIONAL. 2013年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月20日閲覧。
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  60. ^ 森繁和『参謀―落合監督を支えた右腕の「見守る力」』講談社、2012年、p207。
  61. ^ 週刊ベースボール2020年3月2日号、特集:追悼・野村克也 ―みんなノムさんが好きだった―、25頁
  62. ^ イクメン オブ ザイヤー 2014”. フロンティアインターナショナル. 2017年9月6日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]