第一次世界大戦の年表

第一次世界大戦の年表(だいいちじせかいたいせんのねんぴょう)では、大戦中に起きた主要な事件戦闘についてまとめた年表を下記に掲げる。

凡例
--- Theater 西部戦線 東部戦線 イタリア戦線
コーカサス戦線 中東戦線 バルカン戦線 植民地戦域
海上戦 外交と政治

1914年[編集]

日付 事件
6月28日 オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエヴォにおいて、セルビア人民族主義者に暗殺される(サラエボ事件[1] 詳細
7月5日 オーストリア=ハンガリー、ロシア帝国動員に備え、セルビア王国との戦争においてドイツ帝国の支援を依頼。ドイツ、支援を約束[2]
7月23日 オーストリア=ハンガリー、セルビアに対し最後通牒を通告(オーストリア最後通牒)。

セルビアの一部留保に不満を感じたオーストリア=ハンガリーは、7月25日にセルビアとの国交断絶を行う[3]

詳細
7月26日 イギリス外相エドワード・グレイ、英・仏・独・伊の大使会議を開くことを提案。
7月28日 オーストリア=ハンガリー、セルビアに宣戦布告。これに対し、ロシアは動員を開始[4]。イギリス外相グレイ、「ドイツ・フランスが戦争に加わる場合には、イギリスはフランスを援助する」旨を発言。
7月31日 ドイツ、ロシアに対し、動員中止を要請。ロシア側は「動員は対オーストリアに限定」と回答。30日にはロシア全土に動員令発動済み。ドイツ、ロシアに最後通牒。英外相グレイの「ベルギーの中立を尊重するか」の質問に対し、フランスは「中立を尊重す」と答えたのに対し、ドイツは回答を拒否。
8月1日 ドイツ、ロシアに宣戦布告[5]
イタリア王国、局外中立を宣言。
ドイツおよびオスマン帝国は同盟に関する密約を締結[6]
8月2日 ドイツ、ルクセンブルク侵攻 ドイツによるルクセンブルク占領 (第一次世界大戦)英語版
8月3日 ドイツ、フランスおよびベルギーに宣戦布告[7]、イギリス、ドイツに最後通牒。
8月4日 ドイツ、フランス軍を包囲するため、ベルギーに侵攻(シュリーフェン・プラン[8]
イギリスはベルギーの中立を保護するため条約(ロンドン条約 (1839年))によって担保
ドイツ宰相、条約を「紙切れ一枚」(chiffon de papier,a scrap of paper) と回答
イギリス、ドイツに宣戦布告[9]
第一次世界大戦下のイギリス英語版
8月5日 モンテネグロ王国、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告[10]
オスマン帝国、ダーダネルス海峡封鎖
8月5日から8月16日 ドイツ軍、ベルギー、リエージュ要塞を包囲の後、占領(リエージュの戦い 詳細
8月6日 オーストリア=ハンガリー、ロシアに宣戦布告
セルビア、ドイツに宣戦布告
8月7日 イギリス海外派遣軍、フランスに到着[11] 詳細
8月9日 モンテネグロ、ドイツに宣戦布告
8月11日 フランス、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告
8月12日 イギリス、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告
8月14日から8月24日 ドイツ軍、イギリス海外派遣軍およびフランス第1軍に対し勝利を収める(フロンティアの戦い英語版 詳細
8月16日から8月19日 チェルの戦い英語版において、セルビア軍、オーストリア=ハンガリー軍に敗北[12]
8月17日 ロシア軍、東プロイセンに侵攻(シュタルペーネンの戦い 詳細
8月20日 ドイツ軍、東プロイセンにおいて、ロシア軍を攻撃。攻撃は失敗し、シュリーフェン・プランが頓挫[13] グンビネンの戦い英語版
8月17日から9月2日 ロシア軍、タンネンベルクの戦いにおいて敗北[14] 詳細
8月20日 ドイツ、ベルギー首都ブリュッセルを占領
8月22日 オーストリア=ハンガリー、ベルギーに宣戦布告
8月23日 日本、ドイツに宣戦布告 詳細
8月23日から8月25日 オーストリア=ハンガリー第1軍、ロシア第4軍を撃破(クラシニクの戦い英語版[15]
8月24日から9月7日 ドイツ軍、フランス、モブージュ要塞を包囲後、占領 モブージュ包囲戦英語版
8月25日 日本、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告
8月26日 英仏軍、西アフリカにおけるドイツ領トーゴラントに侵攻[16]
8月26日から8月27日 ル・カトーの戦い英語版において連合国軍は退却 vulnerable
8月26日から9月11日 ガリシアの戦い英語版においてロシア軍、リヴィウを占領
8月27日から11月7日 青島の戦いにおいて、日本・イギリス連合軍が中国におけるドイツの拠点港の青島を占領 詳細
8月28日 イギリス海軍北海、ヘルゴラント湾における最初の海戦にて勝利 詳細
8月29日から8月30日 サン=カンタンの戦い英語版(ギーズの戦い)において、連合軍は秩序だった退却に成功
8月30日 ニュージーランド、ドイツ領サモア(現在のサモア)を占領 サモアの歴史英語版
9月3日から9月11日 ラヴァの戦い英語版において、オーストリア=ハンガリー軍、ロシア軍に敗北
9月5日から9月12日 マルヌ会戦においてドイツ軍のパリ侵攻が停止。シュリーフェン・プランの失敗[17]
9月7日から9月14日 第一次マズーリ湖攻勢において、東プロイセン、ネマンを支配していたロシア第1軍は戦死傷者約17万名の被害を受け、東プロイセンから撤退
9月8日から9月17日 オーストリア=ハンガリー軍による第二次セルビア侵攻作戦が失敗に終わる
9月9日 ドイツ帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークが今大戦における戦争目的を提示 9月計画英語版
9月11日 オーストラリア軍、ドイツ領ニューギニアを占領[18] オーストラリア海外派遣陸海軍英語版
9月13日 南アフリカから派遣された軍隊がドイツ領南西アフリカに侵攻を開始 南西アフリカ戦線英語版
9月13日から9月28日 第一次エーヌの戦い英語版が実質的な引き分けに終わる。独仏軍の戦線が大西洋に向かって伸びる、「海への競争」が始まる
9月14日 ヘルムート・フォン・モルトケに代わり、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインがドイツ帝国陸軍参謀総長に就任 詳細
9月17日 ロシア軍、オーストリア=ハンガリー軍が守備するプシェムィスル要塞に対する包囲戦(プシェムィシル包囲戦)を開始
9月28日から10月10日 ドイツ軍によって、ベルギー、アントワープが包囲、占領される アントワープ包囲英語版
9月29日から10月31日 ヴィスワ川の戦い英語版(ワルシャワの戦い)
10月16日から10月31日 イゼールの戦い英語版における連合国軍の勝利によって、フランスおよびベルギー軍はベルギーの海岸線地帯の安全を確保[19]
10月19日から11月22日 第一次イーペルの戦い英語版は「海への競争」に終わり、ドイツ軍によるカレーおよびダンケルクに対する侵攻が阻止される
11月1日 ロシア、オスマン帝国に宣戦布告
マクシミリアン・フォン・シュペーが指揮するドイツ海軍の巡洋艦戦隊がクリストファー・クラドック指揮下のイギリス海軍戦隊に勝利(コロネル沖海戦[20] 詳細
11月2日 イギリス、ドイツに対する海上封鎖を開始 大西洋におけるUボート作戦 (第一次世界大戦)英語版
11月3日 モンテネグロ、オスマン帝国に宣戦布告
11月3日から11月5日 パウル・フォン・レットウ=フォルベックが指揮するドイツ植民地軍が、ドイツ領東アフリカタンガへ上陸したイギリス軍に勝利。(タンガの戦い
11月5日 フランスおよびイギリス、オスマン帝国に宣戦布告
11月6日 オーストリア=ハンガリー軍、セルビアの首都ベオグラードに進軍 詳細
11月9日 オーストラリア海軍の軽巡洋艦「シドニー」がドイツ海軍の軽巡洋艦「エムデン」を撃沈(ココス諸島の戦い英語版[21] 詳細
11月11日から12月6日 ロシア軍とドイツ軍、ポーランド、ウッチ近郊において衝突(ウッチの戦い (第一次世界大戦)英語版
11月11日 オスマン帝国皇帝メフメト5世、連合国に対するジハードを宣言.[22]
12月8日 フォークランド沖海戦において、マクシミリアン・フォン・シュペーが指揮するドイツ海軍戦隊がイギリス海軍に敗北[23]
12月16日 ドイツ海軍、イングランドノース・ヨークシャーにあるスカーブラハートルプールを砲撃[24]
12月18日 スウェーデンノルウェーデンマーク三国の国王がスウェーデンのマルメで会合し、中立宣言を行う。
12月24日から12月25日 西部戦線のいくつかの戦闘区域において、イギリス軍およびドイツ軍との間で非公式な停戦が行われる(クリスマス休戦[25] 詳細
12月29日から翌1月2日 ロシア軍、コーカサス地方におけるオスマン軍との戦闘(サリカミッシュの戦い英語版)に勝利[26]

1915年[編集]

日付 事件
1月2日 カルパティア山脈におけるロシア軍の攻勢が開始。同年4月12日まで継続
1月19日 ドイツの硬式飛行船ツェッペリン」によるイギリスに対する空襲が初めて行われる 詳細
1月24日 北海、ドッガー・バンクにおいて、イギリス連合艦隊がドイツ太平洋艦隊に勝利(ドッガー・バンク海戦 詳細
1月28日から2月3日 オスマン軍、スエズ運河の攻略に失敗 第一次スエズ攻勢英語版
1月31日 ボリモフの戦いにおいて、初めてドイツ軍による化学兵器催涙剤)が使用される[27] 第一次世界大戦における科学兵器英語版
2月4日 ドイツ、商船に対する潜水艦戦を開始 Uボート作戦 (第一次世界大戦)英語版
2月7日から2月22日 第二次マズーリ湖の戦いにおいて、ロシア第10軍が敗北
2月19日 英仏軍、ダーダネルス海峡に海上攻撃を行う(ガリポリの戦い[28]
3月10日から3月13日 ヌーヴ=シャペルの戦い英語版において、イギリス軍は戦術的勝利を収めるも、攻勢が停滞
3月22日 プシェムィシル包囲戦が、ロシア軍による同要塞の攻略成功によって終了する
4月22日から5月25日 第二次イーペルの戦いは、ドイツ軍およびイギリス・フランス連合軍の戦線の膠着化に終わる
4月25日 連合軍、ガリポリ半島に上陸[29] 詳細
大戦終結後におけるイタリアの領土返還(未回収のイタリア)を対価として、イタリアが連合国に立ち対独参戦を行う秘密条約(ロンドン条約)が、イギリス・イタリア間で締結される。
4月28日 第一次クリチアの戦い英語版において、連合軍の進攻がオスマン軍によって撃退される[30]
5月1日から5月3日 ドイツ第11軍団司令官アウグスト・フォン・マッケンゼンが率いるドイツ軍が、ガリツィアにおけるロシア戦線の突破に成功(ゴルリッツ=タルヌフ攻勢
5月6日から5月8日 連合軍のガリポリ半島における侵攻作戦が再び頓挫(第二次クリチアの戦い英語版[31]
5月7日 イギリス船籍のルシタニア号がドイツ軍のUボートによって撃沈される(ルシタニア号事件)[32] 詳細
5月10日 ハンガリー方面から進軍したオーストリア=ハンガリー軍、ヤロスワフ英語版のロシア軍を放逐し、リヴィウが再びオーストリア=ハンガリーの支配下に置かれる
5月12日 ドイツ領南西アフリカの首都、ウィントフックが南アフリカ軍に占領される[33] 南西アフリカ戦線英語版
5月23日 イタリア、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告
6月4日 ガリポリ半島における連合軍の攻勢が失敗に終わる(第三次クリチアの戦い英語版[31]
ロシア軍、プシェムィシルから退却(ゴルリッツ=タルノフ攻勢)
6月22日 マッケンゼン指揮下のドイツ軍、リヴィウ地方のロシア戦線の再突破に成功(ゴルリッツ=タルヌフ攻勢
6月23日から7月7日 イタリア軍、オーストリア=ハンガリー軍の守備陣地に攻勢をかける(第一次イゾンツォの戦い
6月27日 オーストリア=ハンガリー軍、リヴィウに再進軍(ゴルリッツ=タルノフ攻勢)
6月28日から7月5日 イギリス軍、ガリー渓谷の戦い英語版において、オスマン軍に勝利
7月9日 ドイツ領南西アフリカのドイツ軍が降伏
7月18日から8月3日 第二次イゾンツォの戦い
8月5日 ドイツ軍、ワルシャワを占領(ゴルリッツ=タルノフ攻勢
8月6日から8月29日 ガリポリ半島攻略を目的としたイギリス軍による最後の攻勢作戦が失敗(サリ・ベアの戦い英語版[34]
9月1日 ドイツ、無制限潜水艦作戦を中止
9月8日 ロシア帝国皇帝ニコライ2世、ロシア陸軍最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチを解任し、自身が同職に就任する 詳細
9月19日 ドイツ軍、ロシア領ヴィリニュスを占領(ゴルリッツ=タルノフ攻勢が終了)
9月25日から9月28日 イギリス軍の大規模攻勢が失敗(ルーの戦い英語版
10月6日 ドイツ軍、オーストリア=ハンガリー軍、ブルガリア軍の3軍、セルビアに侵攻 セルビア戦線 (第一次世界大戦)英語版
10月14日 ブルガリア、セルビアに宣戦布告
10月15日 イギリス、ブルガリアに宣戦布告
10月16日 フランス、ブルガリアに宣戦布告
10月18日から11月4日 第三次イゾンツォの戦い
10月19日 イタリアおよびロシア、ブルガリアに宣戦布告
10月27日 フランス軍、オスマン帝国領サロニカ(現、ギリシャ領テッサロニキ)に上陸後、イギリス軍およびイタリア軍と協調してバルカン戦線を形成
11月10日から12月2日 第四次イゾンツォの戦い
11月2日から11月25日 クテシフォンの戦い (第一次世界大戦)英語版[35]
11月27日 セルビア軍が崩壊。アドリア海まで後退し、イタリア・フランス軍によって退避させられる
12月7日 オスマン軍、メソポタミアにあるクートに籠城するイギリス軍を包囲(クート包囲戦[36]
12月19日 ジョン・フレンチに代わり、ダグラス・ヘイグイギリス海外派遣軍司令官に就任

1916年[編集]

日付 事件
1月8日から1月16日 オーストリア=ハンガリー軍によるモンテネグロへの攻勢によって、同国が降伏
1月9日 ガリポリの戦いは連合軍の撤退とオスマン軍の勝利という結果に終わる[37]
1月11日 ケルキラが連合軍によって占領される 詳細
1月24日 ラインハルト・シェア、ドイツ大洋艦隊司令長官に就任[38]
1月27日 「兵役法」 (Military Service Act) により、イギリスに徴兵制が制定される[39]
2月13日から2月16日 オスマン軍に対し、ロシア軍による攻勢が始まる(エルズルム攻勢英語版
2月21日 ヴェルダンの戦いが始まる[40]
2月28日 ドイツ領カメルーンが降伏
3月1日 ドイツ、無制限潜水艦作戦を再開
3月1日から3月15日 第五次イゾンツォの戦い
3月8日 イギリス軍によるクート奪回が失敗(ドゥジャイラの戦い英語版
3月18日から4月ごろ ナロック湖の戦い英語版
4月24日から4月30日 アイルランドにおいて共和主義者による武装蜂起(イースター蜂起)が発生
4月29日 クートに籠城していたイギリス軍がオスマン軍に投降
5月10日 ドイツ、無制限潜水艦作戦を中止
5月15日から6月10日 第五次イゾンツォの戦いにおいて、オーストリア=ハンガリー軍はトレンティーノ地方における攻勢作戦を実行(アジアーゴの戦い
5月31日から6月1日 ユトランド沖海戦
6月4日 ブルシーロフ攻勢が始まる
6月5日 オスマン帝国ヒジャーズ地方においてアラブ人反乱が発生(アラブ反乱
ハンプシャー (装甲巡洋艦)オークニー諸島付近で機雷に触雷後、沈没。乗艦していたイギリス陸軍大臣ホレイショ・キッチナーが戦死
6月10日 対オーストリア軍事作戦の失敗の責任を取り、アントニオ・サランドライタリア王国首相が退陣。パオロ・ボセッリが新首相に就任
7月1日 ソンムの戦いが始まる
7月2日 エルズィンジャンの戦い英語版
7月14日 フランス、ソンム県、ロンギュヴァル、デルヴル・ウッド近郊において、ドイツ軍およびイギリス軍の戦闘(デルヴル・ウッドの戦い英語版)が起きる(ソンム戦初期の戦闘)
バゼンタン山稜の戦い英語版(ソンム戦初期の戦闘)
7月23日から8月7日 ポジエールの戦い英語版(ソンム戦初期の戦闘)
8月3日から8月5日 シナイ半島におけるイギリス軍に対するオスマン軍の攻撃が失敗に終わる(ロマニの戦い
8月3日から8月17日 第六次イゾンツォの戦い(8月9日、イタリア軍はゴリツィア攻略に成功)
8月18日から9月5日 ギーユモンの戦い英語版(ソンム戦中期の戦闘)
8月27日 イタリア、ドイツに宣戦布告
ルーマニア王国、協商国側に立ち中央同盟国との戦争に参戦
8月29日 エーリッヒ・フォン・ファルケンハインに代わり、パウル・フォン・ヒンデンブルクがドイツ軍参謀本部長に就任
9月6日 中央同盟国が統合軍を結成
9月9日 ジンシーの戦い英語版(ソンム戦中期の戦闘)
9月10日から11月19日 マケドニア戦線における連合軍の攻勢
9月14日から9月17日 第七次イゾンツォの戦い
9月15日 フレール=クレスレットの戦い英語版 (ソンム戦における最終攻勢)、イギリス軍はこの戦いでタンクを初投入した
9月20日 ブルシーロフ攻勢がロシア軍の決定的勝利という結果に終わる
9月25日 モルヴァルの戦い英語版(ソンム戦最終期における戦闘の一部)
9月26日から9月28日 ティプヴァル山稜の戦い英語版(ソンム戦最終期における戦闘の一部)
10月1日から11月5日 ル・トランスロワの戦い英語版(ソンム戦最終期における戦闘の一部)
10月9日から10月12日 第八次イゾンツォの戦い
10月24日 フランス軍、ヴェルダン近郊にあるデュオモン要塞の奪回に成功
11月1日から11月4日 第九次イゾンツォの戦い
11月13日から11月15日 アンクルの戦い英語版(ソンム戦の最終局面における戦闘)
11月18日 ソンムの戦いはドイツ軍とフランス、イギリス軍の双方に多くの犠牲を出し、膠着状態に終わる
11月21日 病院船としてイギリス軍に徴用されていたブリタニック号が機雷に触雷後、沈没
オーストリア=ハンガリー帝国のオーストリア皇帝およびハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世が死去。カール1世が皇帝に即位
11月25日 ジョン・ジェリコー (初代ジェリコー伯爵)に代わり、ジョージ・ジェリコー英語版がイギリス海軍大艦隊司令官に就任
12月5日から12月7日 イギリス:ハーバート・ヘンリー・アスキス挙国一致内閣が退陣し、デビッド・ロイド・ジョージが新首相に就任
12月6日 ドイツ軍、ルーマニアの首都ブカレストを占領。これに伴い、ルーマニアの首都がヤシに遷都
12月13日 ジョゼフ・ジョフルに代わり、ロバート・ニヴェルがフランス陸軍最高司令官に就任
12月23日 シナイ半島におけるイギリス軍の攻勢が成功(マグドババの戦い[41]
12月27日 トーゴランドが英仏に分割、管理区域下に置かれる
12月29日 グリゴリー・ラスプーチンが暗殺される

1917年[編集]

日付 事件
1月9日 イギリス軍、シナイ半島からオスマン軍の放逐に成功(ラファの戦い英語版
1月16日 ドイツ帝国外務大臣アルトゥール・ツィンメルマンが駐メキシコドイツ大使を通じ、メキシコ政府に対して、アメリカが参戦した場合に備え、対米共同戦線の提案、テキサス独立戦争によって失地となったメキシコ領テキサスの回復のための財政支援等の同盟案が伝えられる(ツィンメルマン電報事件
2月1日 ドイツ、無制限潜水艦作戦を再開
2月23日 イギリス軍、クートの奪回に成功(第二次クートの戦い英語版
2月23日から4月5日 ドイツ軍、ヒンデンブルク線英語版まで戦線を後退
3月1日 コンラート・フォン・ヘッツェンドルフに代わり、アルトゥール・フォン・シュトラウセンブルク英語版がオーストリア=ハンガリー軍参謀本部長に就任
3月8日から3月11日 イギリス軍、バグダートを占領(バグダート陥落 (1917年)英語版
3月15日 二月革命によりロシア帝国皇帝ニコライ2世退位。ブルジョワ臨時政府の成立
3月26日 イギリス軍によるガザ攻略作戦が失敗(第一次ガザの戦い英語版[42]
4月6日 アメリカ合衆国、ドイツに宣戦布告[43]
4月9日から4月12日 ヴィミー山稜の戦い英語版[44]
4月16日から5月9日 第二次エーヌの戦い英語版ニヴェル攻勢)は、フランス軍における大量の犠牲者、フランス陸軍総司令官ロベール・ニヴェルの更迭という結果に終わる[45]
4月19日 オスマン軍が守備するガザベエルシェバ戦線に対するイギリス軍の攻勢が失敗(第二次ガザの戦い英語版
4月29日から5月20日 ニヴェル攻勢の失敗に伴い、フランス軍内部において、兵士による抗命軍規違反が相次いで発生する[46] 詳細
3月5日から3月15日 サロニカ戦線における連合国軍による攻勢が行われる
4月9日から5月16日 イギリス軍、ドイツ軍が防備を強固にした陣地に対する攻勢を実行するも、失敗(アラスの戦い (1917年)英語版[47]
5月12日から6月6日 第十次イゾンツォの戦い
5月15日 ロベール・ニヴェルに代わり、フィリップ・ペタンがフランス軍最高司令官に就任[48]
5月23日 イタリア北東部からスロベニア南西部にかけてのクラス地方において、オーストリア=ハンガリー軍の反攻によりイタリア軍が同地から撤退(エルマダ山イタリア語版
6月7日から6月8日 イギリス軍、メセン山稜の奪回に成功(メセンの戦い (1917年)英語版
6月10日から6月29日 オルティガーラ山の戦い
6月12日 ギリシャ王国の国王コンスタンティノス1世が退位[49]
6月25日 アメリカ派遣軍の第一陣がフランスに上陸(アメリカ海外派遣軍
7月1日から7月19日 本大戦におけるロシア軍による最後の攻勢作戦(ケレンスキー攻勢)が失敗に終わる[50]
7月6日 トーマス・エドワード・ロレンスが支援したアラブ人の反乱勢力が港湾都市アカバを占領(アカバの戦い英語版[51]
7月20日 ユーゴスラビア王国の建国を謳ったコルフ宣言英語版がセルビアにおいて発表される[52] 詳細
7月31日 パッシェンデールの戦い(第三次イープルの戦い)が始まる
8月6日から8月20日 マラシェスティの戦い英語版
8月18日から8月28日 第十一次イゾンツォの戦い
9月8日 ラーヴル・コルニーロフによるロシアソビエトの打倒を目的としたクーデターが失敗
9月27日から9月28日 ラマーディーの戦い (1917年)英語版
10月24日から11月4日 オーストリア=ハンガリー、ドイツ連合軍によるイタリア軍が守備する戦線の突破に成功。イタリア軍は敗走し、ピアーヴェ川まで後退(カポレットの戦い
10月30日 カポレットの戦いにおけるイタリア軍敗北の責任をとり、イタリア王国首相パオロ・ボセッリが辞任。後継首班としてヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドが首相に指名
10月31日から11月7日 イギリス軍、オスマン軍の戦線の突破に成功第三次ガザの戦い英語版
11月2日 イギリス外務大臣アーサー・ジェームス・バルフォアがユダヤ人コミュニティーの指導者であるウォルター・ロスチャイルドに対し、書簡によって、パレスチナにおけるユダヤ人居住地(ナショナルホーム)の建設を支持する旨を表明(バルフォア宣言
11月7日 ロシアにおいて十月革命が発生。連合国はラパッロにおいて、最高戦争会議の設置について同意[53]
11月8日 ルイージ・カドルナに代わり、アルマンド・ディアズがイタリア軍最高司令官に就任
11月9日から12月28日 オーストリア=ハンガリー、ドイツ連合軍によるピアーヴェ川の渡河作戦が失敗(第一次ピアーヴェの戦い)
11月10日 パッシェンデールの戦い(第三次イープルの戦い)は、ドイツ軍死傷者約26万名、連合軍死傷者約44万名の犠牲を生じ、戦線の膠着化に終わる
11月13日 ポール・パンルヴェに代わり、ジョルジュ・クレマンソーがフランス共和国首相に就任
11月17日 北海において英独海軍の戦闘艦が交戦(第二次ヘルゴランド・バイトの戦い)
11月20日から12月3日 イギリス軍の攻勢は失敗し、戦線の膠着化に終わる(カンブレーの戦い[54]
12月7日 アメリカ、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告
12月8日から12月26日 イェルサレムの戦い (1917年)英語版、12月11日、イギリス軍はイェルサレムに入城
12月23日 ロシア、ドイツと休戦協定を締結

1918年[編集]

日付 事件
1月8日 アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンが合衆国議会における演説において、十四か条の平和原則を発表
2月9日 中央同盟国ウクライナ人民共和国との間に、ウクライナによる穀物供給、ドイツの軍事力の提供についてまとめたブレスト=リトフスク条約を締結
2月18日 東部戦線における戦闘が再開
2月21日 イギリス軍、エリコを占領
2月25日 ドイツ軍、エストニアを占領
3月3日 ロシア共和国(ボリシェヴィキ政府)外務人民委員レフ・トロツキーと中央同盟国間において、講和条約が締結される。これにより、ロシアが第一次世界大戦から離脱[55]
3月21日から3月25日 ドイツ軍による最後の攻勢作戦(春季攻勢)が始まる。英仏軍の分断を意図した初期の攻勢作戦(ミヒャエル作戦)はドイツ軍に約27万名の死傷者を出す結果に終わる
3月23日から8月7日 ドイツ軍の列車砲パリ砲)によるパリに対する砲撃が行われる
3月26日 フランス陸軍軍人フェルディナン・フォッシュが連合国軍最高司令官に就任
4月1日 陸軍航空隊海軍航空隊が統合され、イギリス空軍が設立される
4月4日 春季攻勢の中盤戦(ジョルジェット作戦)が始まる
5月7日 ルーマニア王国と中央同盟国間の講和条約が批准されるも、同盟国の敗戦に伴い、事実上無効化される(ブカレスト条約 (1918年)
5月27日から6月6日 第三次エーヌの戦い英語版春季攻勢におけるブリュッヒャー=ヨルク作戦)において、ドイツ軍の攻勢が頓挫する
6月9日から6月12日 春季攻勢における最終局面(グナイゼナウ作戦)において、ドイツ軍は約14kmの前進に成功するも、フランス軍の反攻に伴い、攻勢が停滞する
6月13日から6月23日 オーストリア=ハンガリー軍の攻勢がイタリア軍によって撃退される(第二次ピアーヴェの戦い)
7月15日から8月5日 第二次マルヌの戦い英語版および西部戦線におけるドイツ軍の最終攻勢はフランス軍の反攻作戦によって撃退される
8月8日から8月11日 アミアンの戦い (1918年)英語版百日攻勢英語版の序盤戦)
9月12日 アヴランクールの戦い英語版(百日攻勢における一局面)
9月15日 フランス・セルビア連合軍、ドブロ・ポリェ英語版におけるブルガリア軍戦線の突破に成功(ドブロ・ポリェの戦い英語版
9月18日から9月19日 ブルガリア軍、イギリス・ギリシャ連合軍の進軍の阻止に成功(ドイランの戦い英語版
9月18日から10月10日 サン=カンタン=カナルの戦い英語版において、連合軍はドイツ軍の戦線の突破に成功(百日攻勢の一局面)
9月19日から9月21日 メギドの戦い (1918年)において、イギリス軍はパレスチナを占領
9月26日から11月11日 百日攻勢および第一次世界大戦における最終攻勢が始まる(ムーズ=アルゴンヌ攻勢
9月30日 ブルガリア、連合国との間に休戦条約を調印[56]
10月1日 イギリス軍、ダマスカス入城
10月20日 ドイツ、潜水艦戦を中止
10月24日から11月4日 ヴィットリオ・ヴェネトの戦いにおいて、オーストリア=ハンガリー軍はイタリア軍に大敗。イタリア軍はトレントの奪回とトリエステの占領に成功
10月29日 エーリッヒ・ルーデンドルフに代わり、ヴィルヘルム・グレーナーがドイツ参謀本部次長に就任
10月29日 ドイツ、ウィルヘルムスハーフェン近郊において、ドイツ海軍大洋艦隊所属の船員による一連の反乱が発生(キール反乱英語版[57]
10月30日 オスマン帝国と連合国の間に休戦協定が調印される(ムドロス休戦協定
11月3日 オーストリア=ハンガリー帝国とイタリア王国の間に休戦協定が調印される(ヴィラ・ジュスティ休戦協定)。発効は翌4日[58]
11月9日 ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世退位。ドイツ社会民主党共同党首フィリップ・シャイデマンによる共和国宣言が発表される[59]
11月10日 オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世、国事不関与声明。事実上の退位
11月11日 中央ヨーロッパ時間 (CET) 午前6時、フランスのコンピエーニュの森において、ドイツは連合国との休戦協定に調印。同日午前11時、発効[60]
11月12日 オーストリア、共和制に移行
11月14日 チェコスロバキアにおいて、トーマス・マサリクが暫定政府大統領に就任
ドイツ海軍Uボートが抑留される
休戦協定発効の3日後、パウル・フォン・レットウ=フォルベックの停戦合意によって、東アフリカ戦域における戦闘が停止 Details
11月21日 ドイツ海軍大洋艦隊、イギリスに降伏[57]
11月22日 ドイツ、ルクセンブルクから撤退
11月23日 戦闘停止から9日後、パウル・フォン・レットウ=フォルベックがアバコーン(現、ザンビア)において公式に投降 Details
11月27日 ドイツ、ベルギーから撤退
12月1日 トランシルヴァニアのルーマニア人がルーマニア王国への帰属を宣言、トランシルヴァニア全域へのルーマニア軍の侵攻が開始
12月4日 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国 (ユーゴスラビア王国)の成立が宣言される[52]

1919年[編集]

日付 事件
1月18日 連合国と中央同盟国との講和条約を制定するためのパリ講和会議がフランス、パリで始まる[61]
1月25日 講和会議において、国際連盟の設立提案が承認される
4月16日 ルーマニア軍がハンガリー評議会共和国に侵攻(ハンガリー・ルーマニア戦争
5月15日 ギリシャ王国軍がトルコに侵攻を開始(希土戦争 (1919年-1922年)
6月21日 終戦処理のためスカパ・フローに回航されたドイツ帝国海軍艦船が自沈(スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈[57]
6月28日 連合国とドイツの講和条約、ヴェルサイユ条約が調印される[62]
7月8日 ドイツ、ヴェルサイユ条約を批准[63]
7月21日 イギリス、ヴェルサイユ条約を批准[64]
8月6日 ハンガリー評議会共和国政府崩壊、ルーマニアと連合国軍によるハンガリー占領開始(~1920年3月28日)
9月10日 オーストリア第一共和国と連合国間の講和条約、サン=ジェルマン条約が調印される。
11月27日 ブルガリア王国と連合国間の講和条約、ヌイイ条約が調印される。

1920年代[編集]

日付 事件
1920年
1月10日 国際連盟の初会合がロンドンで開催される。(第一次世界大戦の公式な終戦 詳細
自由都市ダンツィヒが建国[65] 詳細
1月21日 パリ講和会議が終会 詳細
2月10日 住民投票により北シュレースヴィヒ(現、デンマーク、スナユラン県)がデンマークに帰属[66] 詳細
4月19日から4月26日 中東におけるオスマン帝国の領土の帰属先を決定する会議(サンレーモ会議英語版)が、イタリア、サンレーモにて開催
6月4日 連合国とハンガリーの間における講和条約(トリアノン条約)が締結 詳細
8月10日 連合国とオスマン帝国の間における講和条約(セーヴル条約)が締結される。メフメト6世を首班とするイスタンブール政府が本条約を締結したが、条約内容に不満を有する勢力によって否認される[67] 詳細
9月8日 イタリア人運動家ガブリエーレ・ダンヌンツィオ、パリ講和会議における未回収のイタリア問題が解決されないことに不満を抱き、支持勢力らと共にフィウーメを占拠し、カルナーロ=イタリア執政府を建国 詳細
11月1日 国際連盟本部がスイス、ジュネーヴに移動 詳細
11月12日 イタリア王国、ユーゴスラビア王国の間において、ラパッロ条約が締結される。ザダルがイタリアに譲渡され、自由都市フィウーメが建国される 詳細
11月15日 国際連盟第1回総会が開会される 詳細
1921年
10月13日 ロシア・ボルシェヴィキ政府とオスマン帝国との間に講和条約(カルス条約)が締結される
1922年
2月6日 軍艦の保有制限について定めたワシントン海軍軍縮条約がアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの5か国によって調印される 詳細
4月10日から5月19日 世界34か国の代表が出席し、ヨーロッパの経済復興を主題とするジェノア会議が開催される。 詳細
4月16日 ドイツ国(ヴァイマル共和政)とソヴィエト・ロシアの間において、外交関係の正常化を目的とするラパッロ条約が締結される 詳細
9月11日 カルス条約がアルメニアエレバンにおいて批准される
1923年
7月24日 連合国とトルコ共和国の間において、セーヴル条約に代わる新たな講和条約(ローザンヌ条約)が締結される。[68] 詳細
1924年
1月27日 イタリア王国とユーゴスラビア王国の間で締結された条約(ローマ条約 (1924年))において、フィウーメのイタリアへの帰属とスシャク (Sušak) のユーゴスラビアへの譲渡が確認される

2000年代[編集]

  • 2008年1月1日 - 元ドイツ陸軍に所属し第一次世界大戦に従軍したエーリッヒ・ケストナーが107歳で死去。これにより第一次世界大戦に従軍したドイツ軍関係者が全て故人となった。
  • 2008年3月12日 - 元フランス外人部隊及び元イタリア陸軍兵として第一次世界大戦に従軍したラザール・ポンティセリが110歳で死去。[69]。これにより第一次世界大戦に従軍したフランス軍関係者が全て故人となった。
  • 2009年7月25日 - 元イギリス陸軍兵のハリー・パッチが111歳で死去。これにより第一次世界大戦に従軍した両陣営の陸軍軍人すべてが故人となった[70]

2010年代[編集]

  • 2010年10月3日 - ドイツが賠償金の支払いを完了[71]
  • 2011年3月1日 - 元アメリカ陸軍運転手(軍属)のフランク・バックルズが110歳で死去[72]。これにより第一次世界大戦に従軍したアメリカ軍関係者がすべて故人となった。
  • 2011年5月5日 - 元イギリス海軍所属のクロード・チョールズが110歳で亡くなった。15歳で軍に志願、戦後はオーストラリアに渡った後、1926年にオーストラリア海軍勤務となった。後に第二次世界大戦にも海軍として参加していた。[73]。これにより第一次世界大戦で戦闘経験を持つ連合国側退役軍人がすべて故人となった。
  • 2012年2月4日 - 元イギリス空軍女性部隊所属で、基地食堂の接客係(軍属)だったフローレンス・グリーンが110歳で死去[74]。これにより第一次世界大戦に従軍したイギリス軍関係者のすべて且つ、連合国及び中央同盟国両陣営の軍人・軍属のすべてが故人となった[注釈 1]
  • 2014年 - 第一次世界大戦100周年英語版(2018年まで欧米を中心とした世界各地で式典予定)
  • 2014年6月26日 - ベルギーウェスト=フランデレン州イーペル(大戦中同地で初使用されたマスタードガスの通称イペリットの名称由来の地)で欧州連合首脳による第一次世界大戦100周年記念式典[75]
  • 2014年6月28日 - サラエボ事件100周年[76]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 但し、ポーランド・ソビエト戦争を第一次世界大戦の範疇に含める場合、オーストリア=ハンガリー帝国領ウクライナ出身でポーランド第二共和国軍人として同戦争への従軍経歴を持つ、ユゼフ・コワルスキー両陣営従軍者で史上最後の生存者であったと見做される事となる。

出典[編集]

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  2. ^ Keegan 1998, p. 53
  3. ^ Lowe 1994, p.202.
  4. ^ Evans 2004, p. 12
  5. ^ Willmott 2003, p. 29
  6. ^ The Treaty of Alliance Between Germany and Turkey 2 August 1914, Yale University
  7. ^ Keegan 1998, p. 69
  8. ^ http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/FWWbelgiumIN.htm
  9. ^ Daily Mirror Headlines: The Declaration of War, Published 4 August 1914”. bbc.co.uk. 2010年2月9日閲覧。
  10. ^ Neiberg 2005, pp. 54–55
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  13. ^ Tucker 2005, p. 374
  14. ^ Tucker 2005, p. 445
  15. ^ Tucker 2005, p. 459
  16. ^ Farwell 1989, p. 353
  17. ^ Creveld 1977, p.121.
  18. ^ Odgers 1994, p.42.
  19. ^ Tucker 2005, p. xviii
  20. ^ Tucker 2005, p. 316
  21. ^ Tucker 2005, p. 151
  22. ^ Tucker 2005, p. 943
  23. ^ Tucker 2005, p. 407
  24. ^ Tucker 2005, p. 578
  25. ^ Tucker 2005, p. 299
  26. ^ Tucker 2005, p. 1052
  27. ^ The Battle of Bolimov, 1915
  28. ^ Tucker 2005, p.337.
  29. ^ Tucker 2005, p.564.
  30. ^ Tucker 2005, p.652.
  31. ^ a b Tucker 2005, p.653.
  32. ^ Tucker 2005, p. 721
  33. ^ Tucker 2005, p. 42
  34. ^ Tucker 2005, p.1139.
  35. ^ Tucker 2005, p.323.
  36. ^ Tucker 2005, p.660.
  37. ^ Tucker 2005, p. 464
  38. ^ Tucker 2005, p. 1061
  39. ^ Tucker 2005, p. 1431
  40. ^ Tucker 2005, p. 366
  41. ^ Tucker 2005, p. 1092
  42. ^ Tucker 2005, p. 467
  43. ^ Tucker 2005, p. 1252
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  46. ^ Tucker 2005, p. 855
  47. ^ Tucker 2005, p. 344
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  49. ^ Tucker 2005, p. 174
  50. ^ Tucker 2005, p. 632
  51. ^ Tucker 2005, p. 115
  52. ^ a b Tucker 2005, p. 1286
  53. ^ National Archives, CAB 23-4, pgs. 298-300 of 579
  54. ^ Tucker 2005, p. 1283
  55. ^ Tucker 2005, p. 225
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  57. ^ a b c Gottschall 2003, p.265.
  58. ^ Tucker 2005, p. 563
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  60. ^ Boemeke 1998, p.84.
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  62. ^ Boemeke 1998, p.246.
  63. ^ Boemeke 1998, p.414.
  64. ^ Boemeke 1998, p.566.
  65. ^ Tucker 2005, p. 1223
  66. ^ Tucker 2005, p. 349
  67. ^ Tucker 2005, p. 126
  68. ^ Tucker 2005, p. 674
  69. ^ [1]
  70. ^ 地上戦最後の生き残り死去 第1次大戦の元英兵 - 47NEWS”. 2011年2月9日閲覧。
  71. ^ 独、第1次大戦の賠償金完済 終結から92年後に - 47NEWS”. 2012年2月10日閲覧。
  72. ^ 第1次大戦参加最後の米兵死去 フランク・バックルズ氏 - 47NEWS”. 2012年2月10日閲覧。
  73. ^ クロード・チョールズ氏死去、第1次世界大戦で戦闘に参加した最後の生存者 110歳 - AFPBB News”. 2012年2月10日閲覧。
  74. ^ F・グリーンさん死去=第1次大戦最後の従軍者 - 時事ドットコム”. 2012年2月10日閲覧。
  75. ^ “EU首脳、ベルギーで第一次大戦100年記念式典”. MSN産経ニュース (The Sankei Shimbun & Sankei Digital). (2014年6月27日). https://web.archive.org/web/20140627154612/http://sankei.jp.msn.com/world/news/140627/erp14062709580004-n1.htm 2014年6月29日閲覧。 
  76. ^ “人類平和と共存へ誓い 第1次大戦の教訓胸に サラエボ事件100年で式典”. MSN産経ニュース (The Sankei Shimbun & Sankei Digital). (2014年6月29日). https://web.archive.org/web/20140628200017/http://sankei.jp.msn.com/world/news/140629/erp14062901550003-n1.htm 2014年6月29日閲覧。 

参考文献[編集]

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  • Lowe, John (1994). The great powers, imperialism, and the German problem, 1865-1925. Routledge. ISBN 0-415-10444-0 
  • Evans, David (2004), The First World War, Teach yourself, London: Hodder Arnold, ISBN 0-340-88489-4, OCLC 224332259 
  • Neiberg, Michael S (2005), Fighting the Great War: A Global History, Cambridge, Mass: Harvard University Press, ISBN 0-674-01696-3, OCLC 56592292 
  • Willmott, H.P. (2003), World War I, New York: Dorling Kindersley, ISBN 0-7894-9627-5, OCLC 52541937 
  • Halpern, Paul G. (1994). A naval history of World War I. Routledge. ISBN 1-85728-498-4 
  • Farwell, Byron (1989), The Great War in Africa, 1914–1918, W.W. Norton, ISBN 978-0-393-30564-7 
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  • Odgers, George (1994). 100 Years of Australians at War. Lansdowne. ISBN 1-86302-669-X 
  • Gottschall, Terrell D. (2003). By order of the Kaiser: Otto von Diederichs and the rise of the Imperial German Navy, 1865-1902. Naval Institute Press. ISBN 1-55750-309-5 
  • Boemeke, Manfred Franz (1998). The Treaty of Versailles: a reassessment after 75 years. Cambridge University Press. ISBN 0-521-62132-1 
  • Tucker, Spencer (2005). World War I: encyclopedia. ABC-CLIO. ISBN 1-85109-420-2 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]