長屋忠明

長屋 忠明(ながや ただあき[1][2] / ただあきら[3]1843年10月20日(天保14年9月27日[1][2])‐ 1920年大正9年)1月2日[1][2][3]) は、幕末伊予松山藩士、明治期政治家衆議院議員。旧姓・高木[1][4]

経歴[編集]

伊予国温泉郡松山(現愛媛県松山市) で、松山藩士・高木四郎右衛門(明徳)の二男として生まれ、14歳で同藩士・長屋雄八郎(忠賢)の養嗣子となる[1][2][4][5][6]。18歳で藩校明教館に入校して文武を修めたが、武芸を好んだ[3]慶応3年(1867年)禁裏御所守衛を命ぜられ上京し、同年中に帰郷して監察となり、以後、代官、徒士隊長などを務めた[5][6]。明治2年(1869年)少参事に就任した[1][2][3][5][6]

廃藩置県後、明治政府に出仕し、大蔵省出仕、東京府権中属などを歴任[3][4][5][6]愛国公党に加盟し1875年(明治8年)に退官して帰郷後、政社の結成に尽力[1][2][5][6]1877年(明治10年)西南戦争勃発などの政治状況を受けて、高知県の板垣退助林有造らと懇談して帰郷し、同年7月、井手正光らと公共社を組織し自由民権運動を進めた[1][2][5][6]愛媛県令岩村高俊の信頼を受けて1878年(明治11年)12月に風早野間郡長に就任[1][2][5][6]。岩村の後任県令関新平とは意見が異なったため1880年(明治13年)8月郡長を辞任した[1][2][5][6]。その後、国会期成同盟の活動、自由党の結成、海南協同会の結成、松山女学校(現松山東雲学園)の設立、私立伊予尋常中学校(現愛媛県立松山東高等学校)の設立などに尽力[1][5][6]。この間、1883年(明治16年)8月、松山で今治教会牧師・伊勢時雄(横井時雄)から受洗(洗礼)した[7][注 1]

一時、病のため政治活動から遠ざかったが、1888年(明治21年)3月、愛媛県会議員に当選して政界に復帰した[1][2]1890年(明治23年)5月、市ノ川鉱山事務長に就任[5][6]。同年7月の第1回衆議院議員総選挙愛媛県第1区に愛国公党推薦で出馬して当選[1][3]。その後、自由倶楽部に所属して、第2回総選挙では落選し、衆議院議員を1期務めた[1][2][3]。その後、病が再発して政界の第一線を退いた[1]

その他、松山市会議員、同参事会員、伊予教育義会幹事、伊予尋常中学校商議員、旧9番学区連合会議員、久松家諮問員、松山同郷会副会長、海南新聞社常議員、愛媛県教育協会副会長などを務めた[3][4][5][6]

また、日本組合基督教会松山教会の信徒として、私立松山女学校評議員を務め、教会の土地・建物の提供などを行って教会の活動に貢献した[1][7]

親族[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『愛媛県史 人物』457頁では、衆議院議員退任後に受洗としているが誤りである。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『愛媛県史 人物』456-457頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『愛媛県百科大事典』下、246頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』469-470頁。
  4. ^ a b c d 『衆議院議員略歴』221頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『愛媛県紳士列伝 第1編』74-77頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『明治新立志編』388-391頁。
  7. ^ a b c 「初期の同志社と松山の人びと」67-68頁。

参考文献[編集]

  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『愛媛県史 人物』愛媛県史編纂委員会、1989年。
  • 『愛媛県百科大事典』下、愛媛新聞社、1985年。
  • 『第一回乃至第十九回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1936年。
  • 奥村次郎編『愛媛県紳士列伝 第1編』奥村次郎、1900年。
  • 篠田正作編『明治新立志編』鍾美堂、1891年。
  • 竹中正夫「初期の同志社と松山の人びと」『キリスト教社会問題研究』36、同志社大学人文科学研究所、1988年。