本多政重

 
本多政重
本多政重画像(加賀本多博物館蔵)。上部の賛は政重本人の筆による(文面は辞世の句と同じ)。
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正8年(1580年
死没 正保4年6月3日1647年7月5日
改名 倉橋長五郎 → 正木左兵衛 → 直江勝吉 → 本多政重 → 大夢(号)
墓所 大乗寺石川県金沢市
官位 山城守大和守従五位下安房守
主君 徳川家康大谷吉継宇喜多秀家福島正則前田利長上杉景勝 → 前田利長 → 利常光高綱紀
加賀藩家老
氏族 本多氏倉橋氏正木氏直江氏 → 本多氏
父母 父:本多正信
養父:倉橋長右衛門直江兼続
兄弟 正純政重忠純
正室:直江兼続娘・於松
継室:大国実頼娘(直江兼続養女)・阿虎西洞院時直
政次政遂政朝戸田政勝政長、女(前田孝貞室)
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本多 政重(ほんだ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将本多正信の次男。子に榎本藩第2代藩主・本多政遂など。

生涯[編集]

天正8年(1580年)、徳川家の家臣・本多正信の次男として生まれる。

天正19年(1591年)、徳川家の家臣・倉橋長右衛門の養子となる。しかし慶長2年(1597年)に徳川秀忠の乳母大姥局の息子・川村荘八(岡部荘八)を諍いの末、斬り殺して出奔した。この一件では、朋友の戸田為春が加担していたという。出奔後は大谷吉継の家臣となり、その後、宇喜多秀家の家臣となって2万石を与えられ正木左兵衛と称した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは宇喜多軍の一翼を担って西軍側として奮戦したが、西軍が敗れたために逃走、近江堅田へ隠棲した。西軍ではあったが罪には問われなかった。その後、福島正則に仕えたがすぐに辞去し、次に前田利長に3万石もの高禄で召し抱えられた。しかし慶長8年(1603年)前田家を離れた。

この頃、父・正信への接近を図っていた上杉景勝の重臣・直江兼続は、慶長9年(1604年)閏8月政重を婿養子に迎え、兼続の娘・於松を娶り、景勝の偏諱を受け直江大和守勝吉と称した[1]。兼続は勝吉に幕府権力と結びついて上杉家を取り仕切る役割、実子の平八景明には江戸における対幕府交渉の役割を期待し「直江体制」の維持・強化を図ろうとしていた[2]。慶長10年(1605年)8月17日に於松が病死したが[3]、養子縁組は継続され、慶長14年(1609年)に兼続は弟・大国実頼の娘・阿虎を更に養女にして嫁がせた(実頼は兼続が政重を養子に迎えることに反対し、阿虎を迎えに来た兼続の家臣を斬殺して出奔していた)。しかし、慶長14年5月末から7月初旬までの間に本多安房守政重と改名[4]、慶長16年(1611年)に上杉家を出奔し、武蔵国岩槻に潜伏した[5]。慶長17年(1612年)に藤堂高虎の取りなしで前田家に「帰参」して3万石を拝領し、家老としてまだ年若い前田利常(利長の弟)の補佐にあたった。妻の阿虎は加賀にいる政重の許へ呼び寄せられたが、この時に本庄長房(政重以前の兼続の養子、後上杉家へ帰参)、篠井重則ら20〜30名がこれに従って政重に仕えた[6]。加賀本多家中の一部に越後、出羽出身者が存在するのはこのためである[7]

その後、慶長18年(1613年)、前田家が江戸幕府から越中国の返上を迫られるとこれを撤回させ、その功により更に2万石を加増され5万石となった。加賀藩が幕府に反逆の疑いをかけられた際には、江戸に赴いて懸命に釈明することで懲罰を回避し、この功績を賞されてさらに2万石を加増された。慶長19年(1614年)冬からの大坂の陣にも従軍したが、真田信繁真田丸に誘い込まれた末に敗れ、信繁に名を成さしめた。この敗戦の後に兄・本多正純の命を受け、真田信尹徳川家康旗本・信繁の叔父)と連携して信繁調略に当たるが成功しなかった。慶長20年(1615年6月3日、従五位下安房守に叙任された。

寛永4年(1627年)4月20日、嫡男の政次が18歳で死去し、6月10日には正室の阿虎も死去した。同年、西洞院時直の娘と再婚する。その後、前田光高前田綱紀に至るまで家老として補佐にあたった。正保4年(1647年)3月、病を理由に隠居して大夢と号し、五男の政長に家督を譲り、同年6月3日に死去した。享年68。辞世の句は「ひとたつと うちつくる下に 何も無し おもへばおもふ 夢もまた夢」。

本多政重、直江氏関連系図

長男の政次の子、樋口朝政は叔父の政長[注釈 1]に仕え、その子定政は加賀藩馬廻役、青地家(1000石)に養子入りした。定政の子の青地礼幹室鳩巣の門弟でもある儒学者として知られ、著作として『可観小説』を残した。次男政遂は叔父の下野榎本藩本多忠純(本多大隅守家)に養子入りしたが早世し、政遂の子(犬千代)もまた夭折したため、政遂の弟の政朝が直参旗本に取り立てられ、本多大隅守家の家名を継いだ[注釈 2]。また、他の息子に戸田家侍女との間に生まれたという戸田政勝がいる[注釈 3]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 朝政は政長より5歳年上である。
  2. ^ 政遂、政朝の母親は不詳
  3. ^ 戸田家に仕えたと伝わる。加賀本多家の系図には無く、戸田家との関係から、徳川家出奔前の庶子の可能性がある。[独自研究?]

出典[編集]

  1. ^ 木村徳衛『直江兼続伝』、391頁
  2. ^ 阿部哲人「江戸幕府と直江兼続―二人の息子と―」、矢田俊文編『直江兼続』
  3. ^ 木村徳衛『直江兼続伝』、393頁
  4. ^ 木村徳衛『直江兼続伝』、397頁
  5. ^ 木村徳衛『直江兼続伝』、405頁
  6. ^ 渡邊三省『直江兼続とその時代』
  7. ^ 本多俊彦「本多政重家臣団の基礎的考察 —その家臣団構成について-」

関連作品[編集]

小説

参考論文[編集]

  • 木村徳衛『直江兼続伝』(私家版)、1944年
  • 渡邊三省『直江兼とその時代』野島出版、1980年
  • 大野充「前田利常政権の成立」、『海南史学』20号、1982年
  • 清水聡[要曖昧さ回避]「慶長期加賀藩の政治体制と幕藩体制への編成 ― 『三ヶ条条書』と本多政重登用を中心に ―」、『立正大学大学院年報』20号、2003年
  • 清水聡「慶長期加賀藩における幕藩制的秩序への編成過程 ― 『取次』本多政重の創出とその政治的役割 ―」、『立正史学』95号、2004年
  • 清水聡「元和期加賀藩における幕藩制的秩序への編成と藩政の成立 ― 出頭人政治の創出とその政治的意義 ―」、『加能史料研究』17号、2005年
  • 阿部哲人「江戸幕府と直江兼続 ― 二人の息子と ―」、矢田俊文編『直江兼続』高志書院、2009年
  • 本多俊彦「本多政重家臣団の基礎的考察 ― その家臣団構成について ―」、『高岡法科大学紀要』20号、2009年
  • 本多俊彦「「直江勝吉」に関する一考察」、花ケ前盛明監修『直江兼続の新研究』宮帯出版社、2009年

関連項目[編集]