新井亀太郎

新井 亀太郎
新井 亀太郎
生誕 1875年12月8日
日本の旗 日本 群馬県桐生市
死没 1932年11月7日(56歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1895 - 1931
最終階級 陸軍中将
墓所 多磨霊園
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新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年明治8年〉12月8日 - 1932年昭和7年〉11月7日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴[編集]

群馬県出身。新井沢次郎の四男として生まれる。群馬県境野小学校、同山田第一高等小学校、錦城商業学校を経て、1896年明治29年)11月陸軍士官学校(8期)を卒業。翌年6月、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵第16、9、35の各連隊付を経て、1903年明治36年)陸軍大学校に入学。

日露戦争の勃発に伴い修学を中退、原隊復帰、第一回旅順攻撃歩兵第35連隊第12中隊長)、第二回攻撃(歩兵第6旅団副官代理)、第三回攻撃及び奉天の会戦(同副官)に参加。 

1907年陸軍大学校(第19期)を卒業。第二師団第九師団第十一師団の参謀、留守第十二師団第六師団の参謀長、浦監派遣軍第四兵站司令官、台湾歩兵第一連隊長などを歴任。1922年8月(大正11年)陸軍少将に進級し、歩兵第十七旅団長、陸軍戸山学校長などを経て、1927年7月陸軍中将に進級。支那駐屯軍司令官の後、第七師団長となる。1931年8月(昭和6年)予備役編入。

1932年昭和7年)11月、群馬県立伊勢崎高等女学校(現・群馬県立伊勢崎清明高等学校)にて講演中に倒れ、死去(56歳)。

年譜[編集]

1875年(明治8年)12月8日群馬県山田郡境野村60番地に生まれる。1888年(明治21年)3月、群馬県山田郡山田第一高等小学校高等科卒業。1890年(明治23年)9月、上京し錦城商業入学。

1894年(明治27年)12月1日歩兵第15連隊補充隊に入隊。(士官候補生)1896年(明治29年)11月26日陸軍士官学校を卒業。(第8期)1897年(明治30年)6月28日、陸軍歩兵少尉、歩兵第16連隊附に所属。

1903年(明治36年)11月30日陸軍大学校に入校。1904年(明治37年)5月9日、修学を中絶し原隊復帰、歩兵第35連隊中隊長。

1904年(明治37年)8月20日、第一回旅順要塞総攻撃(磐龍山付近の戦闘)に参加し負傷。1904年(明治37年)10月30日、第二回旅順要塞総攻撃に参加。(歩兵第6旅団副官代理)1904年(明治37年)12月26日、第三回旅順要塞総攻撃に参加。(歩兵第6旅団副官)1905年(明治38年)2月28日奉天会戦に参加。1907年(明治40年)11月30日 、陸軍大学校(第19期)卒業。

1908年(明治41年)7月15日第二師団参謀。1910年(明治43年)10月1日歩兵第26連隊大隊長。1912年(明治45年)3月16日第九師団参謀。1916年大正5年)11月15日第十一師団参謀。1918年(大正7年)8月2日、留守第十二師団参謀長。1919年(大正8年)3月24日、浦監派遣軍第四兵站司令官。

1920年(大正9年)1月30日、台湾第一歩兵連隊長。1921年(大正10年)7月20日、第六師団参謀長。1922年(大正11年)8月15日、陸軍少将、歩兵第十七旅団長。1926年(大正15年)3月2日、陸軍戸山学校長。1927年(昭和2年)7月26日、陸軍中将、支那駐屯軍司令官。1929年(昭和4年)3月16日、第七師団長。1931年(昭和6年)8月29日、予備役。

1932年(昭和7年)11月7日、群馬県立伊勢崎高等女学校講堂にて講演中倒れ死去。

栄典[編集]

参考文献[編集]

  • 石井唯一『新井亀太郎小伝』帝国在郷軍人会桐生市境野分会、1934年(国立国会図書館蔵書)
  • 桐生タイムズ「陸軍中将・新井亀太郎」 1991年11月7日付
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1897年10月16日。
  2. ^ 『官報』第4948号「叙任及辞令」1899年12月27日。
  3. ^ 『官報』第3035号「叙任及辞令」1922年9月12日。