ブロワ伯

ブロワ伯

ブロワ家の紋章
創設時期832年
創設者ルートヴィヒ1世
貴族フランス貴族
初代ギヨーム
最終保有者オルレアン公ガストン
付随称号
  • シャトーダン伯
  • シャルトル伯(1286年まで)
  • デュノワ伯(1241年より)
  • アヴェーヌ領主(1241年より)
現況消滅
断絶時期1660年
邸宅ブロワ城

ブロワ伯フランス語:Comte de Blois)は、中世のフランス貴族。フランス王の最も権力のある臣下であった。

この称号は832年に、オルレアン伯アドリアンの息子ギヨームのためにルートヴィヒ1世が創設したとみられる。9世紀末までの数十年間、ブロワ伯領はフランス王家の領地となり、その後、子爵位が創設された。

956年の2度目の創設から1397年オルレアン公領への併合までの間、ブロワ伯領は最後の子爵ティボー1世の子孫が保持した。ティボー1世の男系子孫であるブロワ家は多くのヨーロッパの貴族の家系と関係を持つに至った。

1397年、ブロワ伯位はギー2世からオルレアン公ルイ1世に譲られた。ルイ1世はフランス王シャルル5世の次男であった。ブロワ伯は最終的にルイ1世の孫オルレアン公ルイ2世に継承されたが、ルイ2世が1498年にルイ12世としてフランス王くらいに即いたときブロワ伯領はフランス王領に併合された。

ブロワ伯位は1626年オルレアン公ガストンが新たにブロワ伯領をオルレアン公領から独立させた時に再び成立した。1660年フィリップアパナージュを与えられた時にブロワ伯領も希望したが、兄ルイ14世は弟の希望を拒否した。

最初の創設(832年 - 900年頃)[編集]

ロベール家が保持

ブロワ伯領はクローヴィス1世がブロワ王国を征服した後に成立したが、ブロワ伯については伝わっていない。したがって、ブロワ伯の称号については832年以前に与えられていたとみられる。

肖像 名前 在位 他の称号 説明
ギヨーム
(834年没)
832年 - 834年 なし オルレアン伯アドリアン英語版の息子。ルートヴィヒ1世により「初代ブロワ伯」に任ぜられた[1]。834年まで、アクィタニア王ピピン1世シャルル2世に与えられた自身の王国を取り戻すためギヨームと同盟を結んだ[2]。ピピン1世は王国を取り戻すことができたものの、ギヨームは嗣子なく死去した。兄ウードがギヨームの継承者とされていたが、同日に戦死した。
ロベール豪胆公
(815年頃 - 866年9月)
834年 - 866年 ネウストリア辺境伯
オルレアン伯
トゥール伯
アンジュー伯
オセール伯
ヌヴェール伯
ヴォルムスガウ伯ロベール3世とオルレアン伯アドリアンの娘ワルトラーダの息子。母ワルトラーダは2人の兄弟と夫がシャルル2世との戦いで死去した後、寡婦財産としてブロワ伯領を継承した。ロベール豪胆公は、ブロワ伯ギヨームの甥オルレアン伯ギヨームが失脚した後、860年頃にオルレアン伯領も継承した[1]
ユーグ英語版
(886年没)
866年 - 886年 ネウストリア辺境伯
パリ伯
オルレアン伯
トゥール伯
アンジュー伯
オセール伯
ヌヴェール伯
ヴェルフ家のオセール伯コンラート1世とアデライード・ド・トゥールの息子。ユーグはロベール豪胆公の不倶戴天の敵であったが、ロベールの死後領地を継承し、ロベールの2人の息子ウードロベール1世を育てた[3]
ウード
(898年没)
886年 - 888年 フランク王
ネウストリア辺境伯
パリ伯
オルレアン伯
トゥール伯
アンジュー伯
ロベール豪胆公の長男。888年に西フランク王に選出され、すべての称号を弟ロベール1世に譲った。
ロベール1世
(923年没)
888年 – 900年頃 ネウストリア辺境伯
パリ伯
オルレアン伯
トゥール伯
ユーグの弟。兄が898年に死去した時西フランク王に選ばれなかった。ロベール1世はパリ伯領とオルレアン伯領の統治に専念し、次第にブロワ、トゥレーヌおよびアンジューを子爵に任せるようになった[4]

子爵の創設[編集]

最初の創設(900年頃 - 906年)[編集]

ブロワ家が保持

肖像 名前 在位 他の称号 説明
ガルネゴー
または
ウード・ド・シャルトル
(906年没)
900年頃 - 906年 シャルトル伯 失脚したオルレアン伯ギヨームの孫とも考えられる。兄ティボー2世は886年にシャルトル伯領を買い戻したといわれ、死去した後にウードが継承した。ロチルド・ド・トゥールと結婚し、ウードは西フランク王ロベール1世により子爵とされた。子爵となった数年後に死去し、ロベール1世はブロワ伯領を取り戻した。ガルネゴーとウードが同一人物かどうかは不明である。

王領(906年 - 940年)[編集]

ロベール家が保持

肖像 名前 在位 他の称号 説明
ロベール1世
(923年没)
906年 - 923年 西フランク王
(922年より)
ネウストリア辺境伯
パリ伯
オルレアン伯
子爵ウードが死去した時、ロベールはその死までブロワ伯領を統治した。922年に西フランク王に選出された。
ユーグ大公
(898年頃 - 956年)
923年 - 940年 フランス公
ネウストリア辺境伯
パリ伯
オルレアン伯
トゥール伯
アンジュー伯
ロベール1世の息子。936年にフランス公となった後、ブロワ伯領を909年にトゥール子爵となったティボー・ランシェンに与えた。

2度目の創設(940年 - 956年)[編集]

ブロワ家が保持

肖像 名前 在位 他の称号 説明
ティボー・ランシェン
(890年頃 - 943年)
940年 - 943年 トゥール子爵 シャルトル子爵ウード(またはガルネゴー)の息子とも考えられる。909年にトゥール子爵となり、940年にブロワ子爵となった。シャルル2世の孫リチルド・ドゥ・メーヌと結婚した。
ティボー1世
詐欺師
(910年頃 - 977年)
943年 - 956年 トゥール子爵 ティボー・ランシェンとリチルドの息子。リューガル・ド・ヴェルマンドワと結婚した。ユーグ大公の側近として、ブロワ子爵、トゥール子爵となった。ティボー1世は領内に多くの要塞の建設を開始した。ユーグが956年に死去した後、ティボーはカロリング家の西フランク王ロタール2世側につき、「ブロワ伯およびトゥール伯」となった。

2度目の創設(956年 - 1230年)[編集]

ブロワ家が保持

肖像 名前 在位 他の称号 説明
ティボー1世
詐欺師
(910年頃 - 977年)
956年 - 977年 トゥール伯
シャルトル伯
シャトーダン伯
プロヴァン
シノン領主
ソミュール領主
956年以降、ティボーはヴィエルゾンサンセールシノンソミュール、ボージョンシーおよびプロヴァンなどの周辺の領域を征服した。
ウード1世
(950年頃 - 996年)
977年 - 996年 トゥール伯
シャルトル伯
シャトーダン伯
プロヴァン伯
ランス伯
ボーヴェ
ドルー伯
ティボー1世とリューガルの次男。兄がノルマンディーで先に死去したため、父より伯位を継承した。ユーグ・カペーの同盟者であったヴァンドーム伯ブシャール1世を攻撃し、ムランを征服した。ドルー伯領を与えられ、王と同盟を結んだ。ウード1世はカロリング家の血を引くベルト・ド・ブルゴーニュと結婚した。
ティボー2世
(983年頃 - 1004年7月11日)
996年 - 1004年 トゥール伯
シャルトル伯
シャトーダン伯
プロヴァン伯
ランス伯
ボーヴェ伯
ウード1世の息子。ティボー2世の統治の大半は、フランス王ロベール2世と再婚した母ベルト・ド・ブルゴーニュが摂政となった。ロベール2世はトゥールアンジュー伯フルク3世から取り戻したが、ティボー2世は1004年にローマからの帰路で過労のため19歳で死去した。
ウード2世
(985年頃 - 1037年11月15日)
1004年 - 1037年 トゥール伯
シャルトル伯
シャトーダン伯
プロヴァン伯
ランス伯
ボーヴェ伯
サンセール伯
モー伯
トロワ伯
ティボー2世の弟。近隣の領主全てに戦いを宣言し、ノルマンディー公リシャール2世に持参金(ドルー伯領の半分)を返却するのを拒否した。ウード2世はアンジュー伯フルク3世との戦いを継続し、最終的に勝利をおさめたが、ポンルボイにおいてメーヌ伯エルベール1世英語版に敗北した。1022年までに、トロワ伯領およびモー伯領をはとこトロワ伯エティエンヌ1世英語版から継承し、ブロワ伯領とシャンパーニュ伯領を統合した。ウード2世はベルト・ド・ブルゴーニュの息子であり、アルル王国の継承権を1032年以降主張したが、5年後にバル=ル=デュックの戦いで戦死した。
ティボー3世
(1019年頃 - 1089年9月)
1037年 - 1089年 トゥール伯
シャルトル伯
シャトーダン伯
プロヴァン伯
ランス伯
ボーヴェ伯
サンセール伯
モー伯
トロワ伯
シャトー=ティエリ領主
ウード2世の息子で伯領を継承したが、ティボーはアンリ1世の嫡出性を認めることを拒否した。結果として、1044年のヌイの戦いのあと、アンリ2世はトゥールを取り上げ、同盟を結んでいたジョフロワ・ダンジュー英語版に与えた。ティボー3世は甥ウード3世から領地を奪うことでブロワとシャンパーニュを再び統一し、シャンパーニュを独立した伯領とした。ティボー3世は父の敵の娘ガルサンド・ドゥ・メーヌと結婚した[5]
エティエンヌ2世
(1045年頃 - 1102年)
1089年 - 1102年 シャルトル伯
シャトーダン伯
プロヴァン伯
サンセール伯
モー伯
ランス伯
ティボー3世の長男。イングランド王ウィリアム1世の娘アデル・ド・ノルマンディーと結婚した。妻の影響により、エティエンヌ2世は教皇ウルバヌス2世が提唱した第1回十字軍に呼応した最初の貴族の一人となった。他の貴族と同様、アンティオキア攻囲戦を去ったとき、エティエンヌ2世は支持を失った。しかし、エティエンヌ2世は1102年にラムラの戦いで名誉ある死を遂げた。次男はイングランド王スティーブン(在位:1135年 - 1154年)である。
ティボー4世
ティボー大伯
(1090/1095年 - 1152年1月10日)
1102年 - 1152年 シャルトル伯
シャトーダン伯
トロワ伯
シャンパーニュ伯
サンセール領主
エティエンヌ2世アデル・ド・ノルマンディーの長男。成人するまで母アデルが摂政となった。ティボー4世は家臣ユーグ3世・ル・ピュイゼの反乱に直面した。叔父シャンパーニュ伯ユーグ聖地へ向かった時に、ティボー4世がシャンパーニュ伯領を継承した。ノルマン貴族がティボー4世にイングランド王およびノルマンディー公となるよう打診してきたが、最終的に弟エティエンヌは1135年にイングランド王となった。代わりに、ティボー4世はシャンパーニュを力のある伯領に成長させ、シャンパーニュの大市を始めた。
ティボー5世
(1130年 - 1191年)
1152年 - 1191年 シャルトル伯
シャトーダン伯
ティボー4世が死去した時、父の領地は息子たちの間で分割され、ティボー5世はブロワ伯領を、兄アンリ1世がシャンパーニュ伯領を継承した。ティボー5世はヴァンドームを獲得し、トゥール獲得のための若ヘンリー王の反乱に参加した。ティボー5世はアリックス・ド・フランスと結婚し、フランス王室の一員となった。甥アンリ2世とともに、ティボー5世は第3回十字軍に参加したが、1191年にアッコ包囲戦で戦死した。
ルイ1世
(1171年 - 1205年4月14日)
1191年 - 1205年 シャルトル伯
シャトーダン伯
ニカイア
ティボー5世の息子で、父より伯領を継承した。クレルモン伯領の女相続人であったカトリーヌと結婚した。ルイ1世も第4回十字軍に参加し、1204年にニカイア公とされた。ルイ1世は翌年4月14日にアドリアノープルの戦いで戦死した。
ティボー6世
(1190年 - 1218年)
1205年 - 1218年 シャルトル伯
シャトーダン伯
クレルモン伯
ルイ1世の唯一の息子。ブロワ伯領およびクレルモン伯領を継承した。スペインへの旅行の途中でハンセン病にかかり、隠遁中の1218年に嗣子なく死去した。ブロワ伯領、シャルトル伯領およびシャトーダン伯領は叔母マルグリットイザベル英語版の間で分割された。
マルグリット
(1170年 - 1230年9月)
1218年 - 1230年 シャトーダン女伯 ティボー5世アリックス・ド・フランスの三女。甥ティボー6世が死去した後、ブロワ伯領とシャトーダン伯領を継承した。夫ゴーティエ2世・ダヴェーヌは妻の権利によりブロワ伯となった。

3度目の創設(1230年 - 1241年)[編集]

アヴェーヌ家が保持

肖像 名前 在位 他の称号 説明
マリー
(1200年頃 - 1241年)
1230年 - 1241年 シャトーダン女伯
アヴェーヌ女領主
ボアン女領主
ギーズ女領主
マルグリットとゴーティエ2世・ダヴェーヌの娘。両親のすべての領地を相続し、ブロワ女伯およびシャトーダン女伯、アヴェーヌ、ボアンおよびギーズ女領主となった。サン=ポル伯ユーグ5世と結婚し、ユーグ5世は妻の権利によりブロワ伯となった。

4度目の創設(1241年 - 1397年)[編集]

シャティヨン家が保持

肖像 名前 在位 他の称号 説明
ジャン1世・ド・シャティヨン
(1279年没)
1241年 - 1279年 シャルトル伯
シャトーダン伯
アヴェーヌ領主
ギーズ領主
マリーとユーグ5世の息子。ブロワ伯、デュノワ伯およびシャルトル伯、アヴェーヌおよびギーズ領主となった。
ジャンヌ・ド・シャティヨン
(1253年頃 - 1292年1月29日)
1279年 - 1292年 シャルトル女伯
シャトーダン女伯
ギーズ領主
ジャン1世とアリックス・ド・ブルターニュの娘。ジャンヌはシャルトル伯領をフランス王フィリップ4世に売却し、その数年後に死去した。ジャンヌの領地は従兄弟ユーグ2世が継承した。
ユーグ2世・ド・シャティヨン
(1258年4月9日 - 1307年)
1292年 - 1307年 シャトーダン伯 ブロワ女伯マリーの息子サン=ポル伯ギー3世の息子。1292年にブロワ伯領を手に入れるまでに、サン=ポル伯領を放棄した。
ギー1世・ド・シャティヨン
(1298年 - 1342年)
1307年 - 1342年 シャトーダン伯
フレトゥヴァル領主
シャトー=ルノー領主
ユーグ2世とベアトリス・ド・ダンピエールの息子。1337年に勃発した百年戦争の始まりに義兄フィリップ6世とともに重要な役割を果たした。
ルイ2世・ド・シャティヨン
(1320年 - 1346年)
1342年 - 1346年 シャトーダン伯
フレトゥヴァル領主
ギー1世とマルグリット・ド・ヴァロワの息子。ブロワ伯領およびデュノワ伯領を継承したが、クレシーの戦いで戦死した。
ルイ3世・ド・シャティヨン英語版
(1340年以前 - 1372年)
1346年 - 1372年 シャトーダン伯
ソワソン伯
フレトゥヴァル領主
ルイ2世の息子。幼少で父の跡を継ぎ、母親が始めの数年間、摂政となった。嗣子なく死去し、遺言に従いブロワとアヴェーヌは弟ジャンが継承した。
ジャン2世・ド・シャティヨン英語版
(1340年 - 1381年)
1372年 - 1381年 シャトーダン伯
ソワソン伯
フレトゥヴァル領主
ルイ2世の弟。第1次ゲルデルン継承戦争に敗北した後、嗣子なく死去した。
ギー2世・ド・シャティヨン英語版
(1346年 - 1397年12月22日)
1381年 - 1397年 シャトーダン伯
フレトゥヴァル領主
ルイ2世およびジャン2世の弟。父の死から2ヵ月後に生まれた。兄ジャン2世および他のすべての親族からブロワ、シャトーダン、ソワソンおよびダヴェーヌの伯領を相続した。1360年まで、ブレティニー条約の結果としてイングランドに囚われており、解放のためにソワソン伯領を手放した。1374年、マリー・ド・ナミュールと結婚し、1男ルイ3世をもうけたが、ルイ3世は1391年に早世した。そこで、ブロワ=シャティヨン家には近親の継承者がいたにもかかわらず、ギー2世は自身の持つ称号をルイ1世・ドルレアンに譲る決心をした。

1391年から死まで、用益権をもつブロワ伯であり続けた。

5度目の創設(1397年 - 1498年)[編集]

オルレアン家が保持

ブロワ伯領の権利はルイ1世・ドルレアンに与えられたものの、ブロワはすぐに王領には併合されなかった。結果として、オルレアン公が1498年にルイ2世がフランス王ルイ12世となるまでブロワ伯位も保持した。

肖像 名前 在位 他の称号 説明
ルイ1世・ドルレアン
(1372年3月13日 - 1407年11月23日)
1397年 - 1407年 オルレアン公
トゥレーヌ公
ヴァロワ伯
ソワソン伯
アングレーム伯
ヴェルテュ伯
シャルル5世の次男。1392年にアパナージュとしてオルレアンを与えられ、1397年にブロワ伯ギー2世が死去した後、ブロワに対する全ての権利を手に入れた。ブルゴーニュ公ジャン1世の命で暗殺された。
シャルル・ドルレアン
(1394年11月24日 - 1465年1月5日)
1407年 - 1465年 オルレアン公
ヴァロワ伯
ソワソン伯
ルイ1世・ドルレアンの息子。イングランドへの旅の後、マリー・ド・クレーヴと結婚しブロワ城に住み、1444年にトゥールで停戦交渉を行い百年戦争を終わらせることとなった。
ルイ2世・ドルレアン
フランス王ルイ12世
(1462年6月27日 - 1515年1月1日)
1465年 - 1498年 オルレアン公
ヴァロワ伯
フランス王
(1498年より)
シャルル・ドルレアンの息子。ブロワ城で生まれ、1498年にシャルル8世が死去した時、アンボワーズに向かい、すぐにルイ12世として即位した。結果として、オルレアン伯領は王領となり、王の宮廷はブロワに移った。

6度目の創設(1626年 - 1660年)[編集]

オルレアン家が保持

1626年8月6日、ナントが陰謀に失敗した後、王弟ガストンは、リシュリューが提案した裕福なモンパンシエ女公マリー・ド・ブルボンとの結婚をしぶしぶ承知した。結婚祝いとして、ガストンにはオルレアン公領、シャルトル公領およびブロワ伯領が与えられた。

肖像 名前 在位 他の称号 説明
ガストン・ドルレアン
(1608年4月24日 - 1660年2月2日)
1626年 - 1660年 オルレアン公
ヴァロワ公
アンジュー公
シャルトル公
モンタルジ領主
アンリ4世の次男。1626年にモンパンシエ女公マリー・ド・ブルボンと結婚した際にアパナージュとして与えられた。

ガストンが死去した後、オルレアン公に付随するアパナージュは王家に戻された。フランス王ルイ14世は、弟フィリップにブロワ(ブロワ城およびシャンボール城を含む)およびラングドックを望む地をアパナージュとして与えることとした。これにより、ブロワ伯領は完全にフランス王国の一部となった。

脚注[編集]

  1. ^ a b Merlet 1900, p. 14.
  2. ^ Michel-Jean-François Ozeray (1834) (フランス語). Histoire générale, civile et religieuse de la cité des Carnutes et du pays Chartrain, vulgairement appelé la Beauce, depuis la premiere migration des Gaulois jusqu'à l'année de Jésus-Christ 1697, époque de la dernière scission de notre territoire par l'établissement du diocese de Blois - Volume 2. p. 111. ISBN 978-1271144358. https://www.digitale-sammlungen.de/en/view/bsb10427169? 
  3. ^ Michel-Jean-François Ozeray (1834) (フランス語). ibid. p. 114. ISBN 978-1271144358. https://www.digitale-sammlungen.de/en/view/bsb10427169? 
  4. ^ Hélène Noizet (2007) (フランス語). La fabrique de la ville : espaces et sociétés à Tours (ixe – xiiie siècle). p. 101. ISBN 978-2-85944-572-0. https://books.google.com/books?id=QQADhtXLkvcC 
  5. ^ Evergates 1999, p. 11.

参考文献[編集]