クローヴィス1世 (フランク王)

クローヴィス1世
Clovis I
フランク国王
クローヴィス1世(Dejuinne作)
在位 481年-511年

出生 466年
トゥルネー(現ベルギー
死去 511年11月27日
フランスパリ
埋葬 511年
サント=ジュヌヴィエーヴ修道院から
サン=ドニ大聖堂に改葬
配偶者 クロティルダ
子女 一覧参照
王朝 メロヴィング朝
父親 キルデリク1世
母親 バシナ[注釈 1]
宗教 カトリック
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クローヴィス1世[注釈 2](クローヴィス1せい、: Clovis Premier, フランス語発音: [klɔ.vis] 発音例 :Chlodwig I. ,466年頃 - 511年11月27日)は、メロヴィング朝フランク王国の初代国王(在位481年 - 511年)である。日本では大半の書籍[注釈 3]クローヴィス1世の表記が用いられる。

クローヴィスは一夫多妻制の生活を送っていたが、妻の1人であった王妃クロティルドの影響で、キリスト教アタナシウス派カトリック教会)に改宗して、これを保護したのでガリアでの布教活動に大きな貢献があった。

生涯[編集]

サリー・フランク族キルデリク1世を父、その妻バシナ英語版[注釈 1]を母としてトゥルネー(現ベルギー領)で生まれた。当時は現代のフランスベルギー国境付近のトゥルネー、カンブレーを中心とするライン川低地西部を占めていたに過ぎなかった。

クローヴィスは481年頃に父の地位を継承した[2]486年までの5年間については何も分かっていない[3]486年にはガリア北部を支配していたソワソン管区シアグリウスソワソンの戦いで破り[4]、版図を一挙にロワール川北部に拡大[4]、ローマ属州ベルギカ・セクンダを支配下に治めた[5]。さらにクローヴィスは妹のアウドフレドを東ゴート王国テオドリックに嫁がせて同盟を固め、493年にはブルグント王国の王女クロティルドとソワソンで結婚した。

496年から497年にかけて、トルビアックの戦い英語版アラマンニ人に勝利した後、王妃クロティルドの薦めでカトリックに改宗した。ニカイア派キリスト教徒たるクローヴィスは、受洗によりカトリック信仰に依拠する権力保持者の一人となった[6]。この改宗はゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であった。一方、西ゴート族ヴァンダル族はすでにキリスト教に改宗していたが、その宗派はアリウス派であった。当時のガリア住民は大部分カトリックであったため、クローヴィスのカトリック改宗はガリア領内のローマ市民との絆を強化するものであった。クローヴィスは496年から502年までの間に改宗の洗礼を受けたとされるが、史料ではその場所は明らかになっていない。しかし、9世紀にランス大司教のヒンクマールが受洗場所はランスだと強く主張したため、レミギウスがクローヴィスに洗礼を授けたとされるノートルダム大聖堂で歴代フランス王たちの戴冠式が執り行われるところとなった。

500年にはディジョンでブルグント王国と戦い、507年にはアルモリカ人の支援を得てヴイエの戦い西ゴートアラリック2世を破った。この勝利で勢いをつけたクローヴィスはそのまま西ゴート王国の首都トゥールーズまで進軍し、アキテーヌの大部分を獲得した[7]。フランク王国の領土は北海からピレネー山脈まで大きく拡張され、南フランスを支配していた西ゴート王国はイベリア半島に押し込められた。

この遠征の後の508年、クローヴィスには東ローマ皇帝アナスタシウス1世から「アウグストゥス」の称号が贈られ[8]、西ローマ帝国の執政官に就任した[9][10][注釈 4]。その儀式の日、クローヴィスはトゥール郊外にある聖マルティヌス教会堂で、皇帝から送られた紫衣をまとい、皇帝から送られた冠を戴いた[10][11][8]。教会堂を出たクローヴィスは馬にまたがり、前庭の門から市の中央教会へと続く道を、住民の「コンスル(執政官)万歳、アウグストゥス万歳」という歓呼に迎えられながら行進した[8][11][12][13]。そして、この日から彼は、コンスルまたはアウグストゥスと称されるようになった[12]。この、まったくローマ的な儀式により、武力で獲得したガリア支配がローマ帝国の最高官職という当時のヨーロッパ最高の権威によって承認された[14]。この承認はクローヴィスの死後、彼の子と皇帝ユスティニアヌスとの条約という形で、より正式に宣言されることになる[11]。これらの出来事は、西ローマ帝国がゲルマン人の統治下にあっても依然として法制上でも当時の人々の意識においても存続していたことを示している[15][9]。もっとも、クローヴィスに与えられた栄誉は、皇帝と養子縁組を行いローマ帝国から「カエサル」の称号[注釈 5]が与えられていた東ゴート族の王テオドリックと比べれば、ごくわずかなものでもあった[18][19]

508年セーヌ川左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院(のちのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院)を築いた。その遺構は今もパンテオン近くにクローヴィス塔として残る。

クローヴィスは晩年フランク人の小王を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺した。それによりメロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったと言われている。

クローヴィスは511年11月27日に死去し、パリの北方4キロほどの街、サン=ドニにあるサン=ドニ大聖堂に埋葬された。その遺領はフランク人特有の財産均等分割相続の習慣に従い、4人の息子テウデリククロドメールキルデベルトクロタールに分割された。フランス人の伝統によれば、パリに都したクローヴィス1世はフランス王国の基礎を築いた最初のフランス王であった。クローヴィスの生涯はトゥール司教グレゴリウスが詳細な年代記を残している。

子女[編集]

名前未詳の女性との間に、長男をもうけた。

王妃クロティルドとの間には4男1女が生まれたが、1男は早世した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b バシナについては、トゥールのグレゴリウステューリンゲン族ドイツ語版英語版の王妃とし、王と離縁した後にキルデリク1世と再婚したとしている。フランスルネ・ミュソ=グラールフランス語版は『偽フレデガリウス年代記』の記述をもとに、キルデリク1世がコンスタンティノープルに滞在していた時期に娶ったビザンツ宮廷に近い女性であったと推測している[1]
  2. ^ 古代ラテン語表記のクロウィスClovis)、ラテン語ではクロドウェクスラテン語: Chlodovechus)、フランス語のクロヴィス、または古高ドイツ語および中高ドイツ語表記のクロードヴェヒクロートヴィヒChlodowech, Chlodwig)と長音される表記もみられる。現代フランス語ルイLouis)、現代ドイツ語ルートヴィヒLudwig)に当たる。
  3. ^ 各社の高校世界史関連の教科書・参考書、一般書など
  4. ^ アウグストゥスは執政官経験者から選ばれるか、アウグストゥスになると同時に執政官に就任するのが伝統だった。
  5. ^ クローヴィスに与えられた「アウグストゥス」の称号は、一般にはテオドリックに与えられていた「カエサル」の称号よりも上位の称号と認識されているものである。ただしテオドリックの称号についてはクローヴィスと同じく「アウグストゥス」であったと記す同時代のラテン語碑文も見つかっている[16][17]

出典[編集]

  1. ^ R.ミュソ=グラール、pp.26-32。
  2. ^ フランス史、p.136-137。
  3. ^ ジャン2009、p.18。
  4. ^ a b フランス史、p.137。
  5. ^ R.ミュソ=グラール、p.42。
  6. ^ R.ミュソ=グラール、p.81。
  7. ^ フランス史、p.137-138。
  8. ^ a b c 五十嵐2003、pp.328-329。
  9. ^ a b フランス史、p.138。
  10. ^ a b R.ミュソ=グラール、p.112。
  11. ^ a b c エドワード・ギボンローマ帝国衰亡史』5巻、岩波書店、村山勇三(訳)、1954年、p.357。
  12. ^ a b R.ミュソ=グラール、pp.112-114。
  13. ^ ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典Ⅱ 皇帝と帝国』 ミネルヴァ書房、2005年、p.39。
  14. ^ Von Mathias Lohre “Die Erbens des Imperiums”, P.M. History, 09/2018, p. 32.
  15. ^ 『ブリタニカ国際大百科事典』第2版、TBSブリタニカ、1993年、フランス史。
  16. ^ アンリ・ピレンヌ 著、佐々木克巳中村宏 訳『ヨーロッパ世界の誕生』創文社、1960年、49頁。ISBN 9784423492017 
  17. ^ 松谷健二『東ゴート興亡史 東西ローマのはざまにて』白水社、1994年、92頁。ISBN 4560028761 
  18. ^ R.ミュソ=グラール、p.77。
  19. ^ R.ミュソ=グラール、p.113。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代
キルデリク1世
サリ・フランク族の王
481年 – 509年
次代
フランキアの征服
先代
-
フランク王
初代
481年 - 511年
次代
クロタール1世ソワソン
キルデベルト1世パリ
クロドメールオルレアン
テウデリク1世ランス
先代
フラウィウス・エンノディウス・メッサラアレオビンドゥス・ダガライフス・アレオビンドゥス
ローマ帝国執政官
507年
同僚はアナスタシウス1世ウェナンティウス
次代
バシリウス・ウェナンティウスケレル