エルウッド・ブラウン

エルウッド・スタンリー・ブラウン (Elwood Stanley Brown, 1883年4月9日 - 1924年3月24日)は、アメリカ合衆国バスケットボール指導者。極東選手権競技大会の生みの親。

1883年4月9日、アイオワ州チェロキー郡にて生まれた。1905年1906年にかけてイリノイ大学のバスケットボールチームの監督になった。監督しての成績は、6勝8敗(ビッグ・テン・カンファレンスに限ると3勝6敗)。

エルウッド・ブラウンは、フィリピンの(当時はアメリカ合衆国植民地のフィリピン群島政府英語版)の体育連盟会長として、極東選手権競技大会と第一次世界大戦連合国間競技大会英語版の開催・発展に努めたのが彼の功績とされる[1]。アメリカのYMCAからフィリピン(マニラ)に体育指導者として派遣されていた[2]彼は、1910年にフィリピンにバレーボールとバスケットボールを伝える事にも貢献した[3][4]

フィリピンにおけるボーイスカウト運動のパイオニアとしても活動した。

1924年3月24日に合併症による心臓発作のため、40歳で死去した。

脚注[編集]

参考文献[編集]