1995年の日本ハムファイターズ(1995ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1995年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。
この年の日本ハムファイターズは、上田利治監督の1年目のシーズンである。
前年最下位からの巻き返しを図るチームは、1990年までオリックスの監督を務めていた上田利治が招聘した。しかし、前半戦は開幕の4月から3ヶ月連続で負け越すなど苦戦した。後半戦に巻き返し、一時は3位西武とのゲーム差を詰めるも捕らえることはできず、上田監督の1年目は4位でシーズンを終えた。打撃陣は片岡篤史、井出竜也、白井一幸など、主力打者が軒並み不振ながらも、この年から遊撃手に再転向した田中幸雄が打点王を獲得。投手陣では来日2年目のキップ・グロスがリーグトップの16勝を挙げて最多勝を獲得、抑えの金石昭人もキャリアハイとなる25セーブを挙げた。しかし、7月5日の西武戦でノーヒットノーランを達成した西崎幸広(7勝)や、ベテランの河野博文(6勝)も本調子とはいかず、更に白井康勝は不振で未勝利に終わる。また、首脳陣と対立しわずか2試合の登板に終わった武田一浩がオフにダイエーへトレードされた。1993年の躍進を支えた投手陣は崩壊したが、若手の岩本勉が前半ロングリリーフで好投し、後半から先発ローテーションに加わって規定投球回数をクリアした。リリーフでも島崎毅が入団から3年間でわずか15試合の登板だったのが、この年だけで51試合に登板し、チーム2位の9勝を挙げるなど、新戦力の台頭もあった。シーズンオフに入ると白井一幸が秋季キャンプ中に戦力外通知されオリックスへ移籍、長年正捕手を務めていた田村藤夫もロッテへトレードされた。河野は巨人へFA移籍し、河野の人的補償として川邉忠義の獲得に成功した[2][3]。
チーム成績[編集]
レギュラーシーズン[編集]
1995年パシフィック・リーグ順位変動 順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 |
1位 | 西武 | -- | 西武 | -- | オリックス | -- | オリックス | -- | オリックス | -- | オリックス | -- |
2位 | ダイエー | 1.0 | オリックス | 2.0 | 西武 | 4.5 | 西武 | 8.5 | ロッテ | 14.0 | ロッテ | 12.0 |
3位 | オリックス | 3.5 | ダイエー | 4.0 | ロッテ | 12.5 | ロッテ | 10.5 | 西武 | 14.5 | 西武 | 12.5 |
4位 | 日本ハム | 4.0 | ロッテ | 6.5 | ダイエー | 13.5 | 日本ハム | 15.5 | 日本ハム | 17.5 | 日本ハム | 22.0 |
5位 | 近鉄 | 6.0 | 近鉄 | 7.0 | 近鉄 | 14.5 | ダイエー | 17.5 | ダイエー | 22.0 | ダイエー | 26.5 |
6位 | ロッテ | 6.5 | 日本ハム | 7.5 | 日本ハム | 16.0 | 近鉄 | 20.0 | 近鉄 | 31.0 | 近鉄 | 32.0 |
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オールスターゲーム1995[編集]
- 田中幸雄
- 西崎幸広
できごと[編集]
選手・スタッフ[編集]
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監督 | |
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一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
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投手 | |
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捕手 | |
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内野手 | |
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外野手 | |
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表彰選手[編集]
ベストナイン |
選手名 | ポジション | 回数 |
田中幸雄 | 遊撃手 | 5年ぶり3度目 |
ゴールデングラブ賞 |
選手名 | ポジション | 回数 |
田中幸雄 | 遊撃手 | 4年ぶり4度目 |
ドラフト[編集]
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。 |