1970年の日本シリーズ

NPB 1970年の日本シリーズ
ゲームデータ
日本一
読売ジャイアンツ
6年連続14回目
4勝1敗
試合日程 1970年10月27日-11月2日
最高殊勲選手 長嶋茂雄
敢闘賞選手 井石礼司
チームデータ
読売ジャイアンツ()
監督 川上哲治
シーズン成績 79勝47敗4分(シーズン1位) 
ロッテオリオンズ()
監督 濃人渉
シーズン成績 80勝47敗3分(シーズン1位)
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1970年の日本シリーズ(1970ねんのにっぽんシリーズ、1970ねんのにほんシリーズ)は、1970年10月27日から11月2日まで行われたセ・リーグ優勝チームの読売ジャイアンツパ・リーグ優勝チームのロッテオリオンズによる第21回プロ野球日本選手権シリーズである。

概要[編集]

川上哲治監督率いる読売ジャイアンツと濃人渉監督率いるロッテオリオンズの対決となった1970年の日本シリーズは、ジャイアンツ(giants)とオリオンズ(orions)の頭文字をとって「GOシリーズ」とマスコミから呼ばれた[1]。巨人が4勝1敗で勝利し、6年連続12度目の日本一。ジョージ・アルトマン山崎裕之池辺巌アルト・ロペス、有藤と本塁打20本以上が5人の強力打線だったロッテを巨人は封じた。第1戦では4番のアルトマンを徹底的にマーク。5打席中3度の敬遠(4四球)。そして5番の有藤通世と勝負して、強力打線を抑えた。

当時ロッテの主力投手だった村田兆治(このシリーズでは登板なし)は「小山さん、木樽さん、成田さんの三本柱のロッテが勝つと思ったが、やはりONがいる巨人は強かった」[2]と述べている。

両翼が90mしかなかった東京スタジアムでは、長嶋茂雄の4本の他両チーム3試合で合計9本の本塁打(特に第4戦は5本)が飛び出した。

関東地方のチーム同士の日本シリーズは1960年以来10年ぶり2回目となった。

この年は同じ東京都内の文京区後楽園球場荒川区東京スタジアムでの開催となり、日本シリーズが全試合とも同一の都道府県で開催される史上初の事例となった(上記のGOシリーズとは別に東京シリーズとも呼ばれていた[3])。また、東京スタジアムでの日本シリーズはこの年が唯一である。この年と同様、同一の都道府県での日本シリーズは1981年にもあり、同年は当時後楽園球場をいずれも本拠地としていた巨人と日本ハムの対戦だったため、全試合が同じ球場で開催された唯一の日本シリーズとなっている(後楽園シリーズ)[4][5]

この試合におけるロッテの宿舎は選手の自宅ではなく大田区池上本門寺であり、自動車で東京スタジアムまで約2時間かかっており[6]、宿舎と球場の距離が遠すぎたことも日本一を逃す要因となった。

ロッテはこれ以降、3回日本シリーズに出場しているが、いずれもプレーオフやクライマックスシリーズを勝ち抜いて出場している。従って、ロッテがポストシーズンを経ずに日本シリーズに出場したのはこの年が最後である[7]

試合結果[編集]

1970年 日本シリーズ
日付 試合 ビジター球団(先攻) スコア ホーム球団(後攻) 開催球場
10月27日(火) 第1戦 ロッテオリオンズ 0 - 1 読売ジャイアンツ 後楽園球場
10月28日(水) 第2戦 ロッテオリオンズ 3 - 6 読売ジャイアンツ
10月29日(木) 移動日
10月30日(金) 第3戦 読売ジャイアンツ 5 - 3 ロッテオリオンズ 東京スタジアム
11月1日(日) 第4戦 読売ジャイアンツ 5 - 6 ロッテオリオンズ
11月2日(月) 第5戦 読売ジャイアンツ 6 - 2 ロッテオリオンズ
優勝:読売ジャイアンツ(6年連続14回目)

第1戦[編集]

10月27日 後楽園 入場者33209人

ロッテ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
巨人 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1x 1

(ロ)●木樽(1敗)-醍醐
(巨)○堀内(1勝)-森
本塁打
(巨)黒江1号ソロ(11回木樽)

[審判]セ竹元(球)パ田川 セ谷村 パ斎田(塁)セ松橋 パ道仏(外)

ロッテ・木樽正明と巨人・堀内恒夫の投手戦となった。4回表、ロッテは2つの四球と山崎裕之のヒットで二死満塁のチャンスで、早くも千田啓介に代打の切り札・江藤慎一を送るが、三振に倒れた。ロッテは5回にも二死満塁のチャンスを迎えるが、有藤通世がショートゴロでチャンスを生かせなかった。11回裏、巨人の黒江透修が木樽の140球目をとらえサヨナラ本塁打。堀内は158球を投げ、延長11回を完封した。巨人の日本シリーズでのサヨナラ勝ちは1965年の対南海第5戦(土井のタイムリーで日本一決定)以来5年ぶり3度目(サヨナラ本塁打での決着は巨人では初。全体としても前年の対阪急第2戦の長池徳士のタイムリーに続いて史上13回目のサヨナラゲーム)。

公式記録関係(日本野球機構ページ)

第2戦[編集]

10月29日 後楽園 入場者31609人

ロッテ 0 0 0 0 1 0 0 2 0 3
巨人 0 0 1 4 0 0 1 0 X 6

(ロ)●成田(1敗)、小山、八木沢、平岡、佐藤元-醍醐
(巨)高橋一、○倉田(1勝)、渡辺秀-森
本塁打
(ロ)井石1号2ラン(8回倉田)
(巨)王1号ソロ(3回成田)

[審判]パ道仏(球)セ松橋 パ田川 セ谷村(塁)パ岡田豊 パ(外)

巨人は3回、王貞治のソロ本塁打で先制、4回には4安打1四球に相手のエラーも絡め、一挙4点を奪った。5回2死、そのエラーをした有藤のタイムリー安打で1点を返され、山崎を歩かせて満塁となったところで、川上哲治監督はあとアウト1つで勝利投手となる高橋一三を交代させるという投手リレーが結局功を奏し、最後は渡辺秀武を送って巨人が逃げ切った。

公式記録関係(日本野球機構ページ)

第3戦[編集]

10月31日 東京 入場者26542人

巨人 1 0 0 1 0 0 1 0 0 0 2 5
ロッテ 0 0 0 0 0 0 0 3 0 0 0 3

(巨)堀内、高橋一、渡辺秀、倉田、○山内新(1勝)-
(ロ)木樽、平岡、●小山(1敗)-醍醐大塚
本塁打
(巨)長嶋1号ソロ(4回木樽)、長嶋2号2ラン(11回小山)

[審判]パ岡田豊(球)パ沖 セ松橋 パ田川(塁)パ斎田 セ竹元(外)

長嶋茂雄の本塁打などで0-3とリードされたロッテは8回裏、代打・岩崎忠義が四球出塁、続く有藤が安打で続いたところで池辺巌のタイムリー二塁打で1点差に詰め寄った。さらに、三塁に進んでいた池辺が捕逸で生還し、同点に追いついた。ロッテは9回から小山正明をリリーフに送ったが、巨人は延長11回、長嶋が日本シリーズ史上初の通算20号となる2ラン本塁打を放ち、これが決勝点となった。巨人は3連勝でV6に王手をかけた。

浩宮(当時)とその学友が来場してこの試合を観戦している[8]

公式記録関係(日本野球機構ページ)

第4戦[編集]

11月1日 東京 入場者31515人

巨人 3 0 2 0 0 0 0 0 0 5
ロッテ 4 0 2 0 0 0 0 0 X 6

(巨)渡辺秀、●高橋一(1敗)、山内新、倉田-森、吉田孝
(ロ)成田、○佐藤元(1勝)、平岡、木樽-醍醐
本塁打
(巨)高田1号ソロ(1回成田)、長嶋3号2ラン(1回成田)、王2号ソロ(3回成田)、長嶋4号ソロ(3回成田)
(ロ)井石2号3ラン(1回渡辺秀)

[審判]パ斎田(球)セ竹元 パ沖 セ松橋(塁)セ谷村 パ道仏(外)

1回表、巨人は、高田繁が先頭打者本塁打で先制、さらに長嶋の2ラン本塁打も出て、3点リード。しかしロッテも二死一、二塁から榎本喜八のタイムリー安打で1点を返し、なおチャンスが続くところで、濃人渉監督は第1打席で広瀬宰の代打に送った井石礼司の3ラン本塁打で逆転した。3回、巨人が王、長嶋の連続本塁打で再逆転するが、ロッテもその裏ジョージ・アルトマン、ライトに入っていた井石のタイムリーで再逆転。先発の成田文男から佐藤元彦平岡一郎とつなぎ、7回一死一、二塁のピンチを迎えると最後はエース木樽を投入、1点のリードを守り切った。

公式記録関係(日本野球機構ページ)

第5戦[編集]

11月2日 東京 入場者31281人

巨人 0 0 0 2 0 0 2 2 0 6
ロッテ 2 0 0 0 0 0 0 0 0 2

(巨)○高橋一(1勝1敗)-森
(ロ)小山、●木樽(2敗)、平岡、佐藤元、前田康、八木沢-醍醐
本塁打
(巨)黒江2号2ラン(4回小山)
(ロ)江藤1号2ラン(1回高橋一)
[審判]セ谷村(球)パ道仏 セ竹元 パ沖(塁)パ田川 セ岡田功(外)

ロッテは1回、江藤慎一の2ラン本塁打でこのシリーズ初めての先取点。しかし巨人も4回、黒江の2号2ラン本塁打で同点。7回、二死一塁から森昌彦が左翼方向に打ち上げた打球を追った遊撃手・飯塚佳寛と左翼手・アルトマンが激突。その間に一塁走者の黒江が生還し、これが決勝点となった。このとき、アルトマンは打球を追うことなく動けない飯塚の元へ駆け寄った。日本一を引き寄せる勝ち越し点に狂喜乱舞する巨人ベンチの中で、川上監督はその様子をしっかり観察し「彼は我々とは違う、高いレベルでのプレーを見せてくれている」とアルトマンの行動を評価したと、当時巨人の現役選手で後年スポーツライターになった瀧安治が記している[9]。このあと巨人は高橋一のタイムリー安打で追加点を挙げ、8回にも2点を奪い、勝負を決めた。高橋一は2年連続で日本シリーズ胴上げ投手。最終打者は江藤で右翼フライだった。

公式記録関係(日本野球機構ページ)

表彰選手[編集]

テレビ・ラジオ中継[編集]

テレビ中継[編集]

第1戦:10月27日

  • 第2戦:10月29日
  • 第3戦:10月31日
  • 第4戦:11月1日
  • 第5戦:11月2日
  • 当時ネット局を持たなかった東京12チャンネルは放映権を獲得。開局以来初のシリーズ中継となった(詳細はこちらを参照)。巨人の9連覇の間に日本テレビ以外の在京民放局で放映権を獲得できたのは、この年の東京12チャンネルとTBSだけである。
  • なお、第6・7戦は日本テレビで中継される予定だった。

ラジオ中継[編集]

  • 第1戦:10月27日
  • 第2戦:10月29日
    • NHKラジオ第1 実況:鈴木文彌 解説:鶴岡一人、加藤進 
    • TBSラジオ(JRN) 解説:大和球士秋山登
    • 文化放送(NRN) 解説:堀本律雄 ゲスト解説:張本勲
    • ニッポン放送 解説:豊田泰光 ゲスト解説:平松政次(大洋)
    • ラジオ関東 解説:宮田征典 ゲスト:沼沢康一郎
  • 第3戦:10月31日
    • NHKラジオ第1 解説:小西得郎、加藤進 
    • TBSラジオ(JRN) 実況:新村尚久 解説:中西太、沼沢康一郎
    • 文化放送 解説:堀本律雄 ゲスト解説:張本勲
    • ニッポン放送(NRN) 解説:豊田泰光 ゲスト解説:関根潤三(広島コーチ)、毒島章一(東映)
    • ラジオ関東は中継なし(競馬中継を放送)。
  • 第4戦:11月1日
    • TBSラジオ(JRN) 実況:山田二郎 解説:中西太 ゲスト解説:野村克也
    • 文化放送(NRN) 解説:堀本律雄 ゲスト解説:張本勲
    • ニッポン放送 実況:枇杷阪明 解説:豊田泰光 ゲスト解説:近藤和彦(大洋)
    • NHKラジオ第1放送東京六大学野球中継)およびラジオ関東(競馬中継)は中継なし
  • 第5戦:11月2日
    • NHKラジオ第1 実況:岩本修 解説:鶴岡一人、加藤進
    • TBSラジオ(JRN) 実況:石井智 解説:大和球士 ゲスト解説:野村克也
    • 文化放送 解説:堀本律雄 ゲスト解説:張本勲
    • ニッポン放送(NRN) 解説:豊田泰光 ゲスト解説:関根潤三、毒島章一
    • ラジオ関東 実況:島碩弥 解説:宮田征典 ゲスト:沼沢康一郎 

脚注[編集]

  1. ^ 岡田実『白球列伝 マイク越しの戦後プロ野球史』晩聲社、1982年、p188
  2. ^ スポーツニッポン、村田兆治の我が道、2017年7月8日
  3. ^ 2019年5月29日にベースボール・マガジン社より発売された「ロッテ70年史 1950-2019」掲載の記事「SPECIAL CROSS TALK 有藤通世×山崎裕之『24年ぶり日本一の記憶』内pp.19で山崎裕之が「東京シリーズと呼ばれた」とコメントしている。
  4. ^ 当時は兵庫県もセ・リーグとパ・リーグが両方存在していたが、パ・リーグの阪急ブレーブスは後進のオリックスブルーウェーブ時代も含め阪神タイガースと対戦したことがなく、2005年大阪近鉄バファローズとの合併で大阪府へ移転後の2023年に初めて阪神との日本シリーズとなる。1953年1954年は大阪府も該当したが、当時大阪府が本拠地だったセ・リーグの大洋松竹ロビンスは両年とも優勝していない
  5. ^ その後ロッテは宮城県宮城球場)から神奈川県川崎球場)を経て千葉県ZOZOマリンスタジアム)に、日本ハムも東京ドームを経て北海道札幌ドームを経てエスコンフィールドHOKKAIDO)に本拠地を移転している。現在は東京都にセ・リーグの球団が2球団あるがパ・リーグの球団がなく、他の両リーグ10球団は10の道府県に各1球団ずつ本拠地を置いているため、何らかの事情により日本シリーズ出場球団が自球団の本拠地以外で主管試合をしない限り、全試合とも同一都道府県内で開催されることは基本的になくなっている。
  6. ^ 2019年5月29日にベースボール・マガジン社より発売された「ロッテ70年史 1950-2019」掲載の記事「SPECIAL CROSS TALK 有藤通世×山崎裕之『24年ぶり日本一の記憶』内pp.19で有藤通世がオーナーの永田雅一が池上本門寺を宿舎としていた件をコメントしている。
  7. ^ 1974年は優勝(前期優勝→プレーオフ優勝)。2005年は優勝(レギュラーシーズン2位、プレーオフ優勝)。2010年は3位(クライマックスシリーズ優勝)。
  8. ^ チームヒストリー”. 千葉ロッテマリーンズウェブサイト(1970年の箇所を参照). 2016年11月6日閲覧。
  9. ^ 文春ビジュアル文庫「助っ人列伝」アルトマンの項
  10. ^ テレビ東京 編『テレビ東京史:20世紀の歩み』2000年、53頁。 

外部リンク[編集]