1959年の近鉄バファロー

1959年の近鉄バファロー
成績
パシフィック・リーグ6位
39勝91敗3分 勝率.300[1]
本拠地
都市 大阪府大阪市
球場 日本生命球場
球団組織
オーナー 佐伯勇
経営母体 近畿日本鉄道
監督 千葉茂
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1959年の近鉄バファローでは、1959年の近鉄バファローの動向をまとめる。

この年の近鉄バファローは、千葉茂監督の1年目のシーズンである。

概要[編集]

チーム創設からチーム成績が低迷を続けていた近鉄は、前年まで巨人の2軍監督を務めていた千葉茂を監督に迎え入れて、チーム改革を図った。さらに弱小球団のイメージがついた「近鉄パールス」という球団名についても変更することになり、チーム名を公募した。公募の結果、千葉監督の現役時代の愛称「猛牛」を英語にした「バファロー」が最多となりこの年から球団名を「近鉄バファロー」に改称した。千葉新監督は巨人からコーチの平井三郎内藤博文などの選手を多数入団させたが、鈴木武など生え抜き選手との軋轢を生じる結果となり、チームは4月から低迷。5月上旬に最下位に転落すると6月20日には千葉監督が病気のため休養、この年投手コーチに就任したばかりの林義一が指揮を執ったが、7月には2度の9連敗を喫するなど2勝19敗と大きく負け越し、林監督代行でも最下位から抜け出すことはできなかった[2]。投手陣はこの年入団のグレン・ミケンズ西鉄から移籍2年目の大津守がチームを引っ張ったが、大津は打線の援護なく2桁勝利と2桁敗戦を共に記録し、それ以外にも蔦行雄武智文雄が防御率3点台ながらも5勝17敗、2勝11敗と打線の援護に恵まれずチーム防御率もリーグ最下位の3.68を記録。打撃陣は小玉明利関根潤三を除いて不振でチーム打率と本塁打がリーグ最下位に終わり、また守備でもスタメン野手6人が2桁失策を記録するなどリーグ最下位の163失策を記録した。

チーム成績[編集]

レギュラーシーズン[編集]

開幕オーダー
1 関森正治
2 鈴木武
3 関根潤三
4 小玉明利
5 渡辺博之
6 内藤博文
7 加藤昌利
8 五島道信
9 大津守
1959年パシフィック・リーグ順位変動
順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 最終成績
1位 南海 -- 南海 -- 南海 -- 南海 -- 南海 -- 南海 -- 南海 --
2位 西鉄 1.0 西鉄 3.5 大毎 7.0 大毎 5.0 大毎 3.0 大毎 8.0 大毎 6.0
3位 東映 2.5 東映 5.0 西鉄 7.5 東映 8.5 西鉄 12.0 西鉄 20.5 東映 21.0
4位 大毎 4.0 大毎 5.5 東映 9.5 西鉄 10.5 東映 15.0 東映 25.0 西鉄 22.0
5位 近鉄 8.0 阪急 11.0 阪急 20.5 阪急 29.5 阪急 35.5 阪急 38.5 阪急 40.0
6位 阪急 8.5 近鉄 17.0 近鉄 24.5 近鉄 36.5 近鉄 39.5 近鉄 49.0 近鉄 49.0
1959年パシフィック・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 南海ホークス 88 42 4 .677 優勝
2位 毎日大映オリオンズ 82 48 6 .631 6.0
3位 東映フライヤーズ 67 63 5 .515 21.0
4位 西鉄ライオンズ 66 64 14 .508 22.0
5位 阪急ブレーブス 48 82 4 .369 40.0
6位 近鉄バファロー 39 91 3 .300 49.0

[1]

オールスターゲーム1959[編集]

  • ファン投票
該当者なし
  • 監督推薦
小玉明利(内野手、3度目)
関根潤三(外野手、3度目)

できごと[編集]

  • 2月28日 - 前年限りで巨人を退団し、監督に就任した千葉茂の功績をねぎらい、監督門出を祝うため、「監督就任激励試合」が日生球場で開催、「10年選手制度」採用時では初の「引退試合」(近鉄では唯一)、千葉監督はコーチスボックスで指揮を担当した・対戦相手は巨人で、入団して間もない王貞治が8番・ライトでデビューした。純益は両球団で折半後、改めて千葉監督に贈られた。

選手・スタッフ[編集]

[3]

表彰選手[編集]

リーグ・リーダー
受賞者なし
ベストナイン
選出なし

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b 年度別成績 1959年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2016年6月28日閲覧。
  2. ^ 【1月9日】1959年(昭34)近鉄、猛牛監督就任でパールスからバファローへスポニチアネックス 日めくりプロ野球1月
  3. ^ ベースボール・マガジン 1998年夏季号