鶴原定吉

鶴原定吉
東京人造肥料

鶴原 定吉(つるはら さだきち、1857年1月10日安政3年12月15日) - 1914年大正3年)12月2日)は、日本官僚実業家政治家。第2代大阪市長韓国統監府初代総務長官衆議院議員

経歴[編集]

福岡藩士鶴原道室の長男として、福岡雁林町(現福岡市中央区)に生まれる。藩校修猷館、1879年(明治12年)7月、東京大学予備門文科[1]を経て、1883年(明治16年)7月、東京大学文学部(政治科および理財科)を卒業し[2]、同年10月、外務省御用掛となり公信局に勤務する。

外務省では、1885年(明治18年)5月、外務書記生としてロンドン領事館に在勤し、1887年(明治20年)12月、天津領事、1890年(明治23年)6月、上海領事を歴任したが、1892年(明治25年)6月、外務省を退官し、同月、日本銀行大阪支店筆頭書記に転身する。

日本銀行では、1893年(明治26年)9月、支配役・大阪支店長に就任し、1896年(明治29年)4月から営業局長を兼務、1897年(明治30年)2月から更に株式局長を兼務し、1899年(明治32年)2月には理事に就任するが、山本達雄総裁と衝突して、ストライキの主導者として、同月、日本銀行を辞職する[3]

1900年(明治33年)、立憲政友会創立委員、同年11月から関西鉄道社長を務め、その在任中には周辺諸鉄道との連帯輸送を推進し、後の近畿鉄道合同の動きを醸成する先駆となった。

1901年(明治34年)8月、第2代大阪市長に就任し、1905年(明治38年)7月まで務めた。

1905年(明治38年)12月、伊藤博文の推薦で、同年設立された韓国統監府の初代総務長官となり、1907年(明治40年)7月の第三次日韓協約の締結を推進した。1907年(明治40年)8月からは韓国宮内次官を兼務する。

その後、1909年(明治42年)7月、東京人造肥料会社社長、蓬莱生命保険相互会社社長、1910年(明治43年)5月、中央新聞(立憲政友会機関紙)社長を歴任し、1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙に、福岡県福岡市区で立憲政友会から立候補し、安川財閥創始者・安川敬一郎の支援も得て当選し衆議院議員となり、1914年(大正3年)10月26日に辞職した[4]。墓所は青山霊園(1ロ-2-1乙)

大阪市長として[編集]

助役に菅沼達吉を指名。第五回内国勧業博覧会を開催、報奨契約制の制定、行政改革などで活躍する。大阪港の建設促進にも力を入れ、さらに市街地から港へのアクセスとして市電を開通させた。

「市街鉄道のような市民生活に必要な交通機関は、利害を標準に査定されるものではなく、私人や営利会社に運営を委ねるべきではない」などと市会で市内交通を公営で行うことを主張した(市営モンロー主義も参照のこと)。

栄典[編集]

家族・親族[編集]

  • 妻 - マコト(福岡藩士族・野村余田の長女)
  • 三男 - 鶴原浩二(日本銀行理事)
  • 二女 - スガ(清)は福澤三八(福澤諭吉の三男)の妻。
  • 三女 - マツ(松子)は安川財閥・安川敬一郎の五男である安川第五郎の妻。その長女・敏子は横山康吉に嫁いだ。
  • 四女 - ハナ(花子)はIOC委員も務めた杉村陽太郎の妻。

脚注[編集]

  1. ^ 『第一高等学校一覧(自昭和16年至昭和17年)(附録)』(第一高等学校編、1941年)3頁
  2. ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名230頁
  3. ^ 「日銀幹部ストライキ事件」については「植村俊平」の項目も参照。
  4. ^ 『官報』第672号、大正3年10月27日。
  5. ^ 『官報』第6138号「叙任及辞令」1903年12月16日。
  6. ^ 『官報』第7499号「叙任及辞令」1908年6月26日。
  7. ^ 『官報』第7604号「叙任及辞令」1908年10月29日。
  8. ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。

参考文献[編集]