高英傑

高 英傑
Ying-Chieh Kuo
基本情報
国籍 中華民国の旗 中華民国台湾
出身地 台湾省嘉義県嘉義市
生年月日 (1955-10-20) 1955年10月20日(68歳)
身長
体重
183 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手外野手
プロ入り 1980年
初出場 1980年8月11日
最終出場 1983年9月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
国際大会
代表チーム チャイニーズタイペイの旗台湾
五輪 1984年1992年

高 英傑(こう えいけつ、カオ・インチェ、Ying-Chieh Kuo, 1955年10月20日[1] - )は、台湾嘉義県嘉義市出身の元プロ野球選手投手外野手)。左投左打。

来歴・人物[編集]

台湾の東亜高工(現・東呉工家)、台北体専、空軍を経て、李来発と共に1980年に練習生として合作金庫から南海ホークスに入団。

李ともども、台湾球界では幼少時より活躍し、当時左腕投手が欠乏(1980年には高を含め4名しか在籍していなかった)していた南海では貴重な左の速球投手で、主にカーブシュートフォークボールチェンジアップを武器としていた。打者としても台湾球界では「王貞治二世」の異名をとった強打者であった。日本入り当初は豪速球を投げる左腕と噂されたものの、制球力を向上させるためにノーワインドアップにフォームを改造したところ、持ち味の荒々しさがなくなってしまった。当時は外国人枠が一軍登録2名以内と現在よりも厳しく、なかなか一軍昇格の機会は訪れなかったが、7月に王天上が退団・帰国すると、代わって支配下登録され、早速一軍入りを果たした。

同年は6試合に登板し(うち先発登板は3試合)、3勝1敗の成績を挙げた。なお、その年南海の左腕投手があげたのは合計5勝のみであった。

1981年には1試合に登板したが、シーズン途中で肩を故障し、打者に転向。早速一軍でも30試合に出場し、打率.180ながら日本での唯一の本塁打を記録。1982年は31試合に出場し、打率.243、3打点。1983年ジム・ライトル、李と3人で2枠の外国人枠を争う形となったが、この年9試合で打率.083に終わり、オフに李共々退団し、帰国した。なお、この年ウエスタンリーグの打点王となる。

帰国後は指導者として活躍。ナショナルチームのコーチを務め、郭李建夫を指導し、李が監督を務めた1992年バルセロナオリンピックでの銀メダル獲得に貢献。その後もコーチとして活躍を続け、王建民を育てた。その後は台北市立体育学院の監督を務めた。

2014年5月29日、中華職業棒球大聯盟(CPBL)の中信兄弟の最高顧問に就任。

2021年1月28日、中信兄弟の董事長に就任[2]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1980 南海 6 3 1 0 0 3 1 0 -- .750 108 26.2 25 8 5 0 1 10 0 0 15 13 4.39 1.13
1981 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 0 0 2 0 0 3 1 0 0 0 0.00 2.00
通算:2年 7 3 1 0 0 3 1 0 -- .750 113 27.2 25 8 7 0 1 13 1 0 15 13 4.23 1.16

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1980 南海 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1981 30 64 61 3 11 1 1 1 17 5 1 0 0 0 3 0 0 16 0 .180 .219 .279 .497
1982 31 78 74 4 18 3 0 0 21 3 1 4 0 1 3 0 0 11 3 .243 .269 .284 .553
1983 9 12 12 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 1 .083 .083 .083 .167
通算:4年 77 154 147 7 30 4 1 1 39 8 2 4 0 1 6 0 0 29 4 .204 .234 .265 .499

記録[編集]

  • 初登板:1980年8月11日、対ロッテオリオンズ後期7回戦(川崎球場)、8回裏から4番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初勝利:1980年8月13日、対近鉄バファローズ後期3回戦(大阪球場)、5回表1死から2番手で救援登板・完了、4回2/3を4失点(自責点3)
  • 初先発登板:1980年8月17日、対ロッテオリオンズ後期10回戦(大阪球場)、5回0/3を6失点(自責点5)で敗戦投手
  • 初先発勝利・初完投勝利:1980年10月5日、対近鉄バファローズ後期12回戦(日本生命球場)、9回2失点
  • 野手として初出場:1981年6月9日、対阪急ブレーブス前期6回戦(大阪球場)、8回裏に岩木哲の代打として出場
  • 初打席・初安打・初打点:同上、関口朋幸から適時打
  • 初先発出場:1981年6月19日、対日本ハムファイターズ前期12回戦(後楽園球場)、6番・左翼手で先発出場
  • 初本塁打:1981年6月28日、対阪急ブレーブス前期11回戦(大阪球場)、2回裏に今井雄太郎からソロ

背番号[編集]

  • 30 (1980年 - 1983年)

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]