高橋新吉 (英学者)

高橋新吉

高橋 新吉(たかはし しんきち、天保14年1月28日1843年2月26日)- 大正7年(1918年11月30日)は、明治大正期の英学者官僚実業家政治家。死去に先立ち男爵に叙せられて華族に列した。貴族院勅選議員錦鶏間祗候。別名・良昭(よしあき)。

人物[編集]

薩摩藩士高橋七郎(良顕)の次男として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現在の鹿児島市常盤)に生まれる[1]。七郎の弟は八郎、その子は村田新八であり、新吉の従兄にあたる。

若くして長崎に遊学し、何礼之の許で英学を学ぶ[2]留学費用を稼ぐために前田献吉正名兄弟とともに英和辞書編纂を計画、慶応2年(1866年)に江戸開成所から出された「英和対訳袖珍辞書」を底本として辞書編纂を開始した。途中、藩の財政支援とキリスト教オランダ改革派宣教師のグイド・フルベッキの助力によって明治元年(1868年)に完成する。翌年、上海美華書院米国長老派教会系の出版社)の印刷により『和訳英辞書』の名で刊行された。この辞書は、「薩摩辞書」などと通称される。明治3年(1870年)、アメリカへの留学を実現し、翌年に帰国。明治6年(1873年)に『和訳英辞林』を校訂して東京で再版している。

明治7年(1874年)、明治政府に招かれて大蔵省租税寮に出仕。以後長崎神戸大阪の各税関長などを歴任した。ニューヨーク在勤領事を務めたのち、農商務省に転じて書記官・商務局長を務めた。明治21年(1888年)に九州鉄道初代社長に就任[3][4]して実業界に転進。12年間にわたり勤めあげ、筑豊鉄道を合併するなどして日本鉄道に次ぐ日本第二の鉄道会社に成長させた[5]。この間、明治30年(1897年)12月23日には貴族院勅選議員に任命される[6]。明治32年(1899年)には日本勧業銀行総裁に就任した。このほか、南満州鉄道株式会社[7]東洋拓殖会社[8]韓国銀行の設立委員などを務めている。1911年3月14日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[9]

大正7年(1918年)11月、76歳で没する直前に、長年の功績によって男爵が授けられた。墓所は青山霊園[10]

栄典[編集]

位階
勲章等

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 496.
  2. ^ 高橋新吉 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年7月17日閲覧。
  3. ^ 「九鉄発起人会社長は高橋新吉」東京日日新聞1888年8月30日『新聞集成明治編年史. 第七卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ 『福岡県全誌. 下編』国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  5. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、613頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  6. ^ 『官報』第4346号、明治30年12月24日。
  7. ^ 「敍任及辭令」『官報』1906年7月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 「敍任及辭令」『官報』1908年9月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 『官報』第8316号、明治44年3月15日。
  10. ^ 「授爵・敍任及辭令」『官報』1918年11月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
  12. ^ 『官報』第1172号「叙任及辞令」1887年5月28日。
  13. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  14. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、27頁。

参考文献[編集]

日本の爵位
先代
叙爵
男爵
高橋(新吉)家初代
1918年
次代
高橋新八