韓談

韓 談(かん だん、生没年不詳)は、末の宦者[1]。『史記』の「李斯列伝」に記述がある[2][3]

生涯[編集]

二世3年(紀元前207年)8月、秦の二世皇帝(胡亥)が趙高により自害に追い込まれる。趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたが、側近や百官は趙高に従わなかった。趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとした。趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。

同年9月、そこで趙高は子嬰を召して、玉璽を授けて秦王として即位させた。子嬰は趙高の存在を憂い、病気と称して政務に預からずに、趙高の誅殺を計画したが、その際に韓談も子嬰の子供らとともに計画に参画した[4]。趙高が子嬰の病気見舞いとしてやって来ると、子嬰は趙高を召し入れた。韓談は子嬰の命令で趙高を刺殺し、さらに趙高の三族を皆殺しにした[5]。ただし、『史記』始皇本紀では韓談の記述はなく、趙高を殺害したのも子嬰とされている。

高祖元年(紀元前206年)10月[6]劉邦の軍は武関を攻め破った後、咸陽にまで攻め寄せてきた。秦の百官は全て子嬰に叛き、劉邦の軍に抵抗しようとしなかった。子嬰は、妻子とともに首に組み紐をかけて、軹道という土地において、劉邦に降伏した。劉邦は子嬰を役人に預けた。

同年12月、項羽が咸陽に攻め寄せてきて、子嬰を殺害した。秦はこの時、滅びてしまった。

趙高を殺害した以降の韓談の事績は不明である。

脚注[編集]

  1. ^ 宦者は、「宦官」と翻訳されるが、鶴間和幸は、「皇帝の側近として仕える官吏は、一般の官吏とは一線が引かれていた。宦者と呼ばれて宦籍に登録されていたのである。皇帝に宦(つか)えることに、本来は去勢された男子の意味はない。後漢以降、宦者にはいわゆる去勢された男子がもっぱらあてられたが、始皇帝の時代は一般の男子も皇帝の側近であれば宦者と言われた。」としている。鶴間和幸、「人間・始皇帝」203頁
  2. ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』李斯列伝・秦楚之際月表第四による。内容が『史記』始皇本紀とは大きく異なるため注意を要する。
  3. ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。まだ、秦代では正月を端月とする。
  4. ^ 宦者韓談及び其の子と高(趙高)を殺さんことを図る(李斯列伝)
  5. ^ 高(趙高)謁して病を請う。因りて召し入れ、韓談をして之を刺殺せしめ、其の三族を夷らぐ(李斯列伝)
  6. ^ 『史記』李斯列伝では子嬰が秦王に即位して3カ月後とするが、『史記』秦楚之際月表第四による。

参考文献[編集]