陸定一

陸定一
プロフィール
出生: 1906年6月9日
死去: 1996年5月9日
出身地: 江蘇省無錫県
各種表記
繁体字 陸定一
簡体字 陆定一
拼音 Lù Dìngyī
和名表記: りく ていいつ
発音転記: ルー ディンイー
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陸定一
陆定一
陸定一
生年月日 1906年6月9日
出生地 江蘇省無錫県
(現中華人民共和国の旗 中華人民共和国 江蘇省無錫市)
没年月日 (1996-05-09) 1996年5月9日(89歳没)
死没地 中華人民共和国の旗 中華人民共和国 北京市
出身校 南洋大学
(現上海交通大学)
所属政党 中国共産党
配偶者 厳慰氷

内閣 周恩来内閣
在任期間 1965年1月4日 - 1966年

中華人民共和国の旗 中華人民共和国
国務院副総理
内閣 周恩来内閣
在任期間 1959年4月28日 - 1966年
国家主席 劉少奇
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陸 定一(りく ていいつ、1906年6月9日 - 1996年5月9日)は、中華人民共和国政治家国務院副総理中国共産党中央政治局候補委員、党中央書記処書記を歴任。文化大革命で失脚したが、後に名誉回復して全国政治協商会議副主席を務めた。

経歴[編集]

南洋大学在学中の1925年中国共産党に入党、卒業後は中国共産主義青年団や宣伝工作を務めた。アメリカソ連に留学。1931年に帰国し、紅軍に参加してソヴィエト区に入り紅軍の機関紙『紅星報』の発行に従事。1942年からは延安解放日報の総編集長。『新聞学に対する我々の基本的観点』を発表し、宣伝理論の基礎とした。

1944年には党中央宣伝部長に任命され、文化大革命で批判を受けるまで中断をはさみながら前後約20年務めた。1945年の第7回党大会で中央委員に選出される。1956年5月、「百花斉放・百家争鳴」と題する報告を行う。同年9月28日、第8期1中全会で中共中央政治局委員候補に選出[1]1959年4月28日に国務院副総理[2]1962年中央書記処書記、1965年からは文化部長を兼任し、宣伝部門と教育事業を担当。

1966年6月27日劉少奇主催による、「彭真・陸定一・羅瑞卿楊尚昆反革命集団」についての座談会が行われ、「彭・陸・羅・楊の関係は不正常だ。いったいどういった関係で、どの程度になっているのか。(中略)彼らは毛主席に反対し、毛沢東思想に反対し、地下活動をやっているという特徴がある」と批判され全職務を解任された。1967年1月4日に開催された4人の反革命修正主義集団批判大会では4人とも自分の名前の上に×を書かれた札を首からかけられ精神的、肉体的に痛めつけられ、13年以上監禁された。また、妻の厳慰氷林彪の妻葉群の入党について異議を持っていたため、先に投獄されている。

1979年に名誉回復され全国政治協商会議第5期第2回会議で副主席。同年9月、第11期4中全会で中央委員に増補選出[3]。1980年からは中央宣伝部顧問となるも実権を与えられることは無く、1982年第12回党大会、党中央顧問委員会常務委員。1983年6月、全国政治協商会議第6期第1回会議で副主席に再度選出される。

1996年5月9日、北京で死去。



脚注[編集]

  1. ^ 中共八届一中全会選出新的中央机构 (中国語)
  2. ^ 歴任国務院主要領導人名単 (中国語)
  3. ^ 中国共産党第十一届中央委員会第四次全体会議公報 (中国語)

外部サイト[編集]

 中国共産党
先代
宣伝部長
1944年 - 1952年
次代
習仲勲
先代
習仲勲
宣伝部長
1954年7月 - 1966年12月
次代
陶鋳