阪東三右衛門

ばんどう さんえもん
阪東 三右衛門
阪東 三右衛門
阪東三吉、1923年の写真
本名 榎本 正(えのもと ただし)
別名義 阪東 三吉(ばんどう さんきち)
中村 吉之進(なかむら きちのしん)
生年月日 (1895-02-19) 1895年2月19日
没年月日 (1942-01-06) 1942年1月6日(46歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市(現在の東京都
身長 163.6cm
職業 俳優歌舞伎役者、元子役
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1901年 - 1930年
配偶者
著名な家族 四代目市川紅若(実父)
稲垣浩(従弟)
主な作品
弥次喜多
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しょだい なかむら きちのしん
初代 中村 吉之進
屋号 喜の字屋
生年月日 1895年2月19日
没年月日 (1942-01-06) 1942年1月6日(46歳没)
本名 榎本 正(えのもと ただし)
襲名歴 1. 榎本 正
2. 初代 阪東三吉
3. 初代 中村吉之進
別名 阪東 三右衛門(ばんどう さんえもん)
出身地 東京府東京市(現在の東京都
四代目市川紅若

阪東 三右衛門(ばんどう さんえもん、1895年2月19日 - 1942年1月6日)は、日本の俳優歌舞伎役者、元子役である[1][2][3][4][5][6][7][8]。歌舞伎役者としての名は阪東 三吉(ばんどう さんきち)、後年は中村 吉之進(なかむら きちのしん)と名乗った[1][2][3][5]、本名榎本 正(えのもと ただし)[2]十三代目守田勘彌門下の歌舞伎俳優から、マキノ・プロダクション剣戟映画のスター俳優に転身した[1][2][3][4]

人物・来歴[編集]

1895年明治28年)2月19日東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2][3][4]。父は四代目市川紅若(本名・榎本米太郞、1870年 - 1938年)[2][9]。紅若は摂津国武庫郡御影町(現在の兵庫県神戸市東灘区御影地区)の出身であり、息子・正(三右衛門)の生まれる1年前、東京市本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷3丁目)の春木座(のちの本郷座)で四代目市川紅若(三河屋)を襲名した苦労人で、「名門家の拙い俳優」を嫌っていた[9]

数え年7歳、満6歳となった1901年(明治34年)3月、父が襲名披露をしたのと同じ春木座で上演された、七代目市川團蔵による『佐倉義民傳』に末弟役で出演し、初舞台を踏む[2]。その後、父・紅若とともに、歌舞伎座新富座明治座等、あるいは各地の小劇場にも出演し、歌舞伎の子役として育つ[1][2][3]。初舞台から15年を経て、1916年(大正5年)1月、十三代目守田勘彌に入門、同年9月には、帝国劇場で「初代 阪東 三吉」(喜の字屋)の名題を得て、昇進する[1][2][3][4]。その後は、師の勘彌とともに、市村座、帝劇、有楽座等に出演した[2]。二代目市川猿之助(のちの初代市川猿翁)の春秋座にも参加した[1][3]。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』によれば、当時満28歳、身長五尺四寸(約163.6センチメートル)、体重十二貫匁(45キログラム)、愛読書は夏目漱石トルストイシェイクスピアであり、金光教を信仰し、妻・下女・愛犬とともに東京府荏原郡入新井町大字入新井字不入斗529番地(現在の東京都大田区大森北)に住んでいたという[2]。当時の自選による代表作は、『忠直卿行状記』(菊池寛)の「浅水与四郎」役、『玄宗と楊貴妃』の「高力士」役だという[2]

1928年(昭和3年)5月、牧野省三に招聘されて京都に御室撮影所をもつマキノ・プロダクションに入社、「阪東 三右衛門」に改名する[1][2][3][4]。同年7月20日に公開された、監督金森萬象、脚本寿々喜多呂九平、撮影石野誠三のトリオによる『天明果報談』に主役「笹井新三郎」役を演じて、満33歳で映画界にデビューした[1][3][4][6][7]。同作の助監督であった管家紅葉によれば、マキノ入社以前に片岡千恵蔵プロダクションにいたが、作品にクレジットされる前に退社し、マキノに移籍したという[4]。牧野の長男で当時同社の俳優・監督であったマキノ雅弘によれば、三右衛門の入社は、實川芦雁と同じく同年7月であるという[10]

同年10月26日に公開された『骨肉』(監督二川文太郎)、翌1929年(昭和4年)3月15日に公開された『』(監督人見吉之助)に主演[1][6][7]、同年4月19日に公開された第1作に始まる『弥次喜多』シリーズでは、根岸東一郎演じる「弥次郎兵衛」に対する「喜多八」を演じてコンビとなった[1][3]。このころ、日活大将軍撮影所大河内傳次郎河部五郎帝国キネマ演芸実川延松阪東豊昇河合映画杉狂児(あるいは里見明)・大岡怪童といったコンビものが多くつくられたという[11]

同年7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、三右衛門は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎市川米十郎らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[12]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)11月、同社を退社した[1][4][6][7]。同社での最後の作品であり、三右衛門にとっての最後の映画出演にあたる作品は、同年12月19日に公開された『続お洒落狂女』(監督吉野二郎)であった[6][7]。前出の管家によれば、三右衛門は身体も顔も細く、姿を補強するために、口に綿を一杯入れてのメイクをしていたとのことである[4]

マキノ退社後は、歌舞伎の舞台に戻った[1][4]。芸名も「阪東三吉」に戻し、1931年(昭和6年)8月には、市川小太夫が主宰する「新興座」に参加、京都座での関西旗揚公演では、『曾我物語』(岡本綺堂)に「曾我十郎祐成」役、『黒手組』(江戸川乱歩)に「服部時雄」役をそれぞれ演じた記録が残っている[13]

フィルモグラフィ[編集]

蹴合鶏』と『天明果報談』(1928年)の公開を予告する当時のチラシ。右側の『天明果報談』に「阪東三吉改メ 阪東三右衛門入社第一回作品」の文字が確認できる。

クレジットはすべて「出演」である[6][7]。公開日の右側には役名[6][7]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[14][15]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

マキノプロダクション御室撮影所[編集]

製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[6][7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m キネマ旬報社[1979], p.480.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 揚幕社[1923], p.43.
  3. ^ a b c d e f g h i j 映画世界社[1929], p.19.
  4. ^ a b c d e f g h i j 管家紅葉氏談話立命館大学、2013年5月29日閲覧。
  5. ^ a b 阪東三右衛門jlogos.com, エア、2013年5月29日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 阪東三右衛門日本映画データベース、2013年5月29日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 阪東三右衛門、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月29日閲覧。
  8. ^ 阪東三右衛門allcinema, 2013年5月29日閲覧。
  9. ^ a b 揚幕社[1923], p.18.
  10. ^ マキノ[1968], p.205.
  11. ^ 山本[1983], p.340.
  12. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年5月29日閲覧。
  13. ^ 国立[2003], p.210-211.
  14. ^ 所蔵映画フィルム検索システム、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月29日閲覧。
  15. ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年5月29日閲覧。
  16. ^ 山本[1983], p.416.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]