門別薫

もんべつ かおる
門別 薫
生誕 1922年大正11年)9月4日[1]
北海道平取町[2]
死没 2018年平成30年)10月1日[2]
国籍 日本の旗 日本
民族 アイヌ民族
(父)貝澤藤蔵
(母)コヨ(旧姓川村)
親戚 (父方祖父)カリワウク
(母方祖父)川村イタキシロマ
(母方伯父)川村カ子ト
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門別 薫(もんべつ かおる、1922年大正11年〉9月4日 - 2018年平成30年〉10月1日)は、昭和後期から平成時代にかけて活躍した日本の社会活動家[1]北海道出身、アイヌ民族

人物・略歴[編集]

小冊子『アイヌの叫び』の著者貝澤藤蔵と川村コヨの長男。日高管内沙流郡平取町生まれ[2]北海道旭川東高等学校(旧制旭川中学)卒業[1]

1939年(昭和14年)から朝鮮の炭鉱会社で働いた[1]。戦後は旭川営林局にはいり、測量審査などにあたる一方、人権擁護委員も務めた[1][2]1972年(昭和47年)10月、旭川市で起こった「風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件」を機に旭川アイヌ協議会の創設に尽力し、その初代会長となった[2][注 1]1975年(昭和50年)、北海道アイヌ文化伝承保存会副会長となった[1]。アイヌ文化の保存とアイヌ差別撤廃、アイヌの社会的地位の向上に力を注いだ[1]。そうしたなか、北海道旧土人保護法はアイヌ差別の根源であると主張、巧みな弁舌と強い信念で同法の撤廃運動の展開をリードし、1997年(平成9年)の撤廃にこぎつけた[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この事件は、のちに企業ビル連続爆破事件の犯人グループの犯行であることが判明したが、当初は、立像の和人にひざまずくアイヌ古老という像の構想案などについてアイヌ民族は当然ながら批判的で、それゆえアイヌのかかわりが疑われて警察の捜査対象となっていた[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g "門別薫". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2022年7月2日閲覧
  2. ^ a b c d e f g 門別薫さん(旭川アイヌ協議会初代会長)10月1日死去 96歳 差別の根源 保護法撤廃に力”. 先住民族関連ニュース (2018年10月23日). 2022年6月30日閲覧。