長谷場純孝

長谷場 純孝
はせば すみたか
生年月日 1854年4月27日
嘉永7/安政元年4月1日
出生地 日本の旗薩摩国日置郡串木野村
没年月日 (1914-03-15) 1914年3月15日(59歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府
称号 勲三等瑞宝章

日本の旗 第17代 衆議院議長
在任期間 1914年3月7日 - 1914年3月15日
天皇 大正天皇

日本の旗 第22代 文部大臣
内閣 第2次西園寺内閣
在任期間 1911年8月30日 - 1912年11月9日

日本の旗 第14代 衆議院議長
在任期間 1908年12月23日 - 1911年9月6日
天皇 明治天皇
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長谷場 純孝(はせば すみたか、嘉永7/安政元年4月1日[1]1854年4月27日) - 大正3年(1914年3月15日)は、日本の政治家衆議院議員(11期)。

経歴[編集]

薩摩国日置郡串木野村(現在の鹿児島県いちき串木野市)出身。父は鹿児島藩の郷士。1871年に東京に上京。1872年、警視庁の羅卒(巡査)となり、少警部に進む。1877年、故郷へ戻って私学校に入り、西南戦争には西郷隆盛方として参加し、懲役囚(国事犯として懲役3年)となる。1879年「癈疾ニ付放免」され出獄[2]

出獄後より国会開設運動に携わり、1885年から1887年まで鹿児島県会議員、1887年から1890年まで鹿児島の4郡の郡長となる[3]。1890年の第1回衆議院議員総選挙で鹿児島県から当選し、以降11回連続当選。のち政友会設立に関わる。1908年から1911年にかけて1度目の衆議院議長を務めた。また、1911年の第2次西園寺内閣文部大臣を務めるが、翌年病にかかり辞任。1914年、2度目の衆議院議長に就任し、シーメンス事件での混乱の中、議会の運営に当たるが、就任わずか9日で動脈瘤破裂のため急死する[4]

栄典[編集]

位階
勲章

脚注[編集]

  1. ^ 安政への改元は嘉永7年11月であるが、凶事を避ける災異改元として当該年の元日に遡って元年とみなされたため、嘉永7年=安政元年となる。
  2. ^ 国立公文書館「石川県国事犯長谷場純孝外一名癈疾ニ付放免」明治12年10月13日。
  3. ^ 朝日日本歴史人物事典
  4. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)238頁
  5. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
  6. ^ 『官報』第8462号「叙任及辞令」1911年9月4日。
  7. ^ a b 『官報』第488号「叙任及辞令」1914年3月17日。
  8. ^ 『官報』第124号「叙任及辞令」1912年12月27日。

関連項目[編集]


議会
先代
杉田定一
大岡育造
日本の旗 衆議院議長
第14代:1908年 - 1911年
第17代:1914年
次代
大岡育造
奥繁三郎
公職
先代
小松原英太郎
日本の旗 文部大臣
第22代:1911年 - 1912年
次代
牧野伸顕(臨時代理)