長島毅

長島毅
長島毅(『大日本法曹大観』より)
生年月日 (1880-06-08) 1880年6月8日
出生地 日本神奈川県横浜区
没年月日 (1948-03-18) 1948年3月18日(67歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学

任期 1941年1月31日 - 1944年9月15日
天皇 昭和天皇
前任者 泉二新熊
後任者 霜山精一
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長島 毅(ながしま はたす、1880年明治13年)6月8日 - 1948年昭和23年)3月18日)は、日本裁判官大審院長を務めた。名古屋高検検事長や最高裁判所裁判官を務めた長島敦は甥。

来歴[編集]

横浜区生まれ。東京府尋常中学一高を経て、1906年7月、東京帝国大学法科大学独法科卒業。同年、横浜正金銀行入行。1911年2月、司法官試補。1913年、東京地方裁判所横浜地方裁判所判事。1916年、司法省参事官。1921年、東京地裁検事。1927年4月、大審院検事、同年12月、司法省民事局長。1933年札幌、1934年、広島両控訴院長。1935年、司法次官。1937年、大阪控訴院長。1940年、大審院部長。1941年、大審院長就任。1943年7月に法律新報に「戦争と法律」という題で「何でもかんでも勝たねばならない。我が国の人と物と力はこの目標に向かって進まねばならない。人と心と力の結集は法律を戦争の目的へと追い込みつつある。人と心と物の動きに立ち遅れた法律はただ屑籠に捨てられて顧みられない反古紙でしかありえない。法律は中心を失ってはならないが、この方向に向かって急転回して進まなければならない」旨の論文を掲載した[1]。1944年2月に東條演説事件に絡んで細野長良広島控訴院院長が東條英機内閣総理大臣に送った抗議文の写しを手渡されたが、黙って机の中に入れただけだった[2]

戦後、公職追放となり[3]、追放中の1948年死去。

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ 清永聡 2006, p. 113-114.
  2. ^ 山本祐司 1997, p. 49.
  3. ^ 公職追放の該当事項は「司法次官」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、395頁。NDLJP:1276156 

参考文献[編集]

  • 清永聡『気骨の判決―東條英機と闘った裁判官』新潮社新潮新書)、2006年。ISBN 9784106102752 
  • 山本祐司『最高裁物語(上)』講談社+α文庫、1997年。ISBN 9784062561921 
  • 秦郁彦『日本官僚制総合事典』 東京大学出版会
  • 『現代日本人名録 物故者編 1901-2000』