金相場会所

金相場会所(きんそうばかいしょ)は、江戸時代寛文年間から1868年慶応4年)5月まで、の相場を建てるために大坂に設けられていた会所

概略[編集]

江戸時代、江戸遣、上方遣といわれ、金銀の相場は難しい問題であった。幕府1700年元禄13年)に、金1につき銀60、またについてはこれより古くから、1609年慶長14年)に金1両に4貫文と定めていたが、後の寛永通寳はこの鐚銭同様の金1両に銭4貫文と定められた。しかし、需給関係で公定相場通りにはいかず、自ずから金相場、銀相場がたてられることになった。

金相場会所は、古くは金相場所(両替屋所、金銭売買立会所とも)といい、高麗橋筋にあったが、1743年寛保3年)から北浜1丁目に移った。

金相場をたてるには、本両替屋の相場役が会所に集まって行った。この金銭売買が公許されたのは、1725年享保10年)9月のことである。

同じ両替屋でも、南両替屋、銭両替屋などは会所に行って参観することができたが、自分が場に立って相場をたてることは、本両替屋の相場役に限られた。立会はほとんど年中無休で、休日は、正月三が日五節句くらいであった。

相場の方法[編集]

相場をたてる方法はほとんど米相場と同じで、毎朝四つ頃に、拍子木を打って開門を知らせると、門前の休憩所に待っていた相場役が入場して、立会を始める。十人両替の名代は、高場から場内を監視し、かつ売買を記帳する。立会は半刻か1刻で、拍子木を打って終了を知らせる。それでも立会をやめないときは水をかける。拍子木を打ったり、水をかけたりする雇人は、水方(みずかた)という。

銭相場は、金相場が終了してから行う。立会の方法は金相場と同様である。

金銭相場のたてかたは、金1両または銭1貫文を買うのに、銀何十匁何分何厘を要するかという意味で、双方とも銀目で呼ぶ。立会開始のときの相場を「寄付値段」、終了のときの相場を「引方値段」、1日中の最高最低値段の平均を「中値段」という。立会が終了すると、当日の相場を黒塗りの板に書いて、高場に掲示する。両替屋の手代は、さきを争ってこれを写しとり、めいめい得意先に行って、その店の相場帳に記入する。

売買においては、売方は売り一方、買方は買い一方であり、一人で両方はできない。相場は金1両でたてるが、売買高は100両以上に限る。売買は即日かぎりで、また通用金に限る。ただし、通用金以外の古金の売買も行ったが、これは外物、打物といった。

江戸への送金為替、いわゆる江戸為替の売買をもこの会所で取り扱ったが、これらは立会閉鎖後、二番で行った。

印金[編集]

上述のように、金相場会所は正金を売買するだけで、受け渡しは即日限りであったが、いつのまにか印金(しるしきん)という、小判の定期売買を試みる者が出てきた。しかし、これは表向きには許されていなかった。

その方法は、あらかじめ売買の宿を定めておいて、売買両者から敷銀を宿主に供託し、日限を定めて小判の値段をたて、売買証書を作成する。約束の日限になると、そのときの相場と比較して、その差金を敷銀から支払い、勝負を決し、宿主には売買両者から口銭を出すというものである。

印金の売買は、寛文年間以来しばしば禁じられた。ただし、1763年(宝暦13年)に、冥加金1500両を上納して、大阪に金銭延売買会所を設立することを請願した者もいたという。その後、許可されることとなった。

会所は、北浜1丁目浜(金相場会所構外)と南本町1丁目にあり、仲間は200余名であった。この仲間は「延屋仲間」といい、本両替屋とはまったくの別物で、売買の主眼は相場変動による差金の授受である。

相場の高下に、一定の制限(2 - 3匁という)をつけ、これ以上、または以下となったときは、上流(うわながれ)、下流(したながれ)といった。

また、生相場(うまれそうば)といって、限度までの差金を授受するにとどめ、ふたたび正金相場を標準とし、新たに延売買を開始した。これはあまり行われなかったらしく、たびたび冥加金を減額していたが、最後の請負人は、冥加金を1年35両にしてほしいと願っていたほどであった。1843年天保14年)に、一旦廃止された。その後、1867年慶応3年)12月に、再び設立を許されたが、1868年5月(慶応4年)に金相場会所とともに廃止された。