重森弘淹

重森 弘淹(しげもり こうえん、1926年7月27日 - 1992年10月13日)は日本の写真評論家華道家

来歴[編集]

作庭家重森三玲の二男として岡山県上房郡[1]に生まれる。名前はドイツの哲学者ヘルマン・コーエンに由来。同志社大学文学部中退後[2]、月刊誌『いけばな芸術』の編集長となり、勅使河原宏らとともに、流派を超えた新しいいけばなの方向を模索し始めた[3]

一方、岡本太郎花田清輝らの結成した「夜の会[4]」、安部公房らによる「記録芸術の会」などに参加し、総合的な芸術への視野に立った活動を始めた[3]

1955年頃から、カメラ雑誌を中心に写真の評論活動を開始し、当時隆盛をきわめていた「リアリズム写真運動」を批判的に継承しつつ、細江英公東松照明奈良原一高らによる新しい写真表現の登場を支持し、さらに現代写真の始まりを告げるウィリアム・クラインロバート・フランクらの仕事をいち早く紹介、評論するなど[5]、日本の現代写真の動向に大きな影響を与えた[3]

1958年「東京フォトスクール」を創立、1960年東京綜合写真専門学校と名称を変えて発展させ、自らの写真美学や批評精神を展開しつつ、写真家の育成に情熱を注いだ[3]

1973年4月、東京綜合写真専門学校出版局から隔月刊誌『写真批評』を創刊(7号 / 1974年まで) 、2023年春に復刊される[5][6]

日本写真批評家協会会員、東京綜合写真専門学校校長、多摩美術大学客員教授、武蔵野美術大学客員教授、日本映像学会常任理事を歴任、1992年没。享年66。

没後1993年「重森弘淹顕彰会」が設立され、写真評論賞(1995-2004)を主催した[7][8](1995年 第1回受賞者:清水穣)。

重森弘淹は批評家であると同時に教育者であった。基本的な思想は、『表現とは、作者の批評行為であり、それなくして表現は存在しない』というものである[3]。この思想は東京綜合写真専門学校の理念として引き継がれ、多くの先鋭的で個性的な写真家を輩出し続けている[大言壮語的]

主要著書[編集]

  • 現代の写真/社会思想社/1962年
  • 写真芸術論/美術出版社/1967年
  • 写真の思想/潮出版/1972年
  • カメラ・アイ 転形期の現代写真/日貿出版社/1974年
  • 現代のいけばな/八坂書房/1980年
  • 世界の写真家/ダヴィッド社/1990年
  • 名作で辿る世界の写真史/編著/毎日新聞社/1993年
  • 『日本写真全集』の編纂も行った。

脚注・出典[編集]

  1. ^ 重森弘淹 日本美術年鑑所載物故者記事(東京文化財研究所).2018年8月5日閲覧.
  2. ^ "重森 弘淹". 20世紀日本人名事典. 日外アソシエーツ. 2004.
  3. ^ a b c d e 重森弘淹について.
  4. ^ 夜の会 美術手帖
  5. ^ a b 写真人とその本 17 / 重森弘淹 調査研究 / 日本カメラ財団
  6. ^ 『写真批評』復刊のお知らせ 東京綜合写真専門学校
  7. ^ 沿革.
  8. ^ 恩師、重森弘淹のこと(pp.1-2) 日下部賜枝 Mithril!

関連項目[編集]

外部リンク[編集]