道 (哲学)

(タオ、Tao、どう、みち)とは、中国哲学上の用語の一つ。人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。道家儒家によって説かれた。

解釈の諸例[編集]

思想家における道[編集]

中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記編集されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである[1]。そのため、ある思想家における「道」の概念について見る場合、最初の著者か、その思想に準じた別の著者の思想を合わせたものを、その思想家における「道」として検討してゆくことが妥当であるといえる。

老子[編集]

老子道徳経の場合、「道」についての記述は、四種の思想・人物に区分できる。

老子の思想の形成について[編集]

老子道徳経の古い写本では、「上篇 徳」、「下篇 道」の編名の順序となっている。「道」・「徳」の順番になったのは、一世紀から三世紀のころとされ、そのころ、章別も行われたとされる[2]。また、老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、この書は、その系譜に当たる弟子が後年に纏めたものという説や、老子は3人いたという説がある。「道」の内容についても、哲学的な句から、独断的な処世術の句までが混在している。そのため、老子なる人物が生きて著作したであろう時代よりも、もっと古くから伝わっていた名言を、『老子』の編集者は、その著作に取り入れた、とする見解がある[3]。また、古い老子道徳経は、五千字余りしかないにもかかわらず、「上篇 」、下篇 「道」の順序に分けられている。そのように構成されたのは、本の内容や本の章分けがその原因とはなっていない、と推察されている。老子道徳経が生まれた経緯について考えた場合、古くから伝わっていた諺や名言を作成した人物らがいて、その編集や解説をした人物が「徳篇」を形成し、そこで述べられた道の思想を、増幅した形で「上篇 徳」、下篇 「道」の形に編纂した人物らがいた、ということが考えられる。古い構成を逆転させ、現在のような「道」から始まり「下篇 徳」の形に定着させたのが、老子道徳経であると考えられる要因の一つには、第十八章の、「大道廃れて仁義あり」の句は、孟子と同時期か、あるいはその後輩と同時期の篇者が作成した、と見られていることがあげられる[4]

普遍的法則としての道[編集]

道と無為とを同一視して考える。また、道を「象」ではなく、「物」として見る。 第21章では、道は音もなく形もない、さわることもできない、とされている。そして、その目的とする「物」にゆきついたとき、人は忽然となり、それを何よりも大きく感じるのである[5]

根元的実在としての道[編集]

道は無と有の反復運動の中に、全体的な実在として表象される。 反とは道の動とされ(40章)、道は循環運動を永遠に続けているとされる[6]

政治思想としての道[編集]

他の政治思想と相対する、政治理念でしかない道。 第18章の、「大道廃れて仁義あり」の句は、孟子と同時期か、あるいはその後輩と同時期の篇者が、作成したと思われる[4]。また、第57章にある聖人は、「無私」によって聖人としての「私」を成就する、というこだわりが、無為自然と一体となるということと、別次元の関係にある。ここでは、事実上、聖人の存在などはほとんど必要ないといえる[7]

処世術としての道[編集]

権謀的で、処世術でしかない道。 第3章の、「民の志を弱めることによって、彼らの骨を強固にしてやる。つねに民をして、無知無欲であるようにしてやる」という言葉は、したたかな権謀とも解せるものである。36章、48章、57章、59章にも同様な処世術がある[8]

「建言」に見る、実在としての道[編集]

道は、この現象界を超えたところで、現象界を生起させ変化させる一者として考えられている。それは、すべての現象をそうあらしめている原理としての性格と、宇宙生成論的な発生の根源者という性格の二面が融合していることが知られている[9]

「建言」というのは、下編の最初のほうに出てくる『老子道徳経』よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、「老子下編」を編集した人物にとっての、最古の老子の伝説の書のようなものであったということができる。「建言」とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。[10] [注 1][注 2]

「建言」によると、実在としての道は、循環運動を永遠に続けている[6]。あらゆる存在は、「」として、「」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。

「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。

「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである[11]。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。

上徳(道の徳)は、徳のようには見えない。(第38章)。

不言の教について[編集]

不言の教と、無為の益とは、世の中でそれに匹敵するものはほとんどないとされる。(第43章)。

不言の教には次の三種類がある。

  • 権謀家による不言の処世術。自らを聖人とし、自分の態度を見て、人民は学ぶべきだと主張する。
  • 無為自然の生き方による、他者への不言の説教。施政者の立場にある者が無為自然の生き方を政治に取り入れ、自らの生き方を人民の見本とすること。
  • 道の働きの中に感得される不言の教え。例えば水を見て、人が何かを学んだとした場合、言葉によって水が無為の教えを教えたわけではないので、言葉を超越した教えであるという意味で、不言の教とする[12][注 3]
慈悲の教えについて[編集]

人々の心を心とする(第49章)、というのは、人々の苦しみの心を自分の心とするという意味がある。また、「聖人は、善人も不善な人もそれぞれに尊び、愛し、いずれも捨てない[13]、という言葉には、道の徳と合一した慈悲の教えが表されている。 第67章には、「我に三宝あり、一にいわく慈」という言葉がある。

荘子[編集]

荘子』の著者は、一人ではなく、時代を変遷して、多数存在しているとされている。想定される原書がそのまま伝えられたものではなく、この門流の人々が書き足していったものを全体として、『荘子』と呼んでいるようである[1]

荘子における道[編集]

自然の道から見れば、分散することは集成であり、集成することは、そのまま分散破壊することに他ならない。道を体得するとは、すべてを通じて一であることを知るということである。すべてのものは、生成と破壊の区別なく道において一となっている(斉物論篇)[14]

道は万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[15]。また、根本的な一者としての「道」は、無限なる者であるとされる[16]

道における万物斉同について[編集]

万物という語を「人生」という語に置き換えると、人生のすべてをそのままに良しとして引き受ける態度が、万物斉同における徳であるといえる。また、万物斉同の思想においては、富貧、貴賤、長命短命、幸不幸と呼ばれている差別の姿は、すべて人為によって構成された虚妄に過ぎないとされている。道は、すべてのものを等しく育んでいるとされる。荘子は、「これこそが、至上の徳である」(人間世篇)としている[17]。これを現代風に解釈すると、宇宙の真理の前では、男女、民族共産主義宗教国家差別などは、すべて、仮の姿に過ぎないということができる。

孔子[編集]

孔子天道を継承し、詩経書経人道についても語り、「子曰 朝聞道 夕死可矣」や「子曰 參乎 吾道一以貫之哉」(『論語』 巻第2 里仁第4)といった名句に道義的真理があり、天地人の道を追究した孔子の姿勢が窺える[注 4]

孟子[編集]

孟子は、「是故 誠者天之道也 思誠者人之道也」(『孟子』 離婁 上)と「天之道」、「人之道」と「誠」に言及している。この言葉は、『中庸』における、「誠者天之道也 誠之者人之道也」と「天之道」、「人之道」が「誠」であるとしていることにもとづいている。

洪自誠[編集]

菜根譚』には、「道を守って生きれば孤立する。だがそれは一時のことだ。権力にへつらえば居心地はよかろう。だが、そののちに来るのは永遠の孤独だ。めざめた人は、現世の栄達に迷わされず、はるかな理想に生きるのだ」[注 5]と記し、洪自誠の主張として、一時の孤立を恐れ、永遠の孤独を招くのではなく、道を守る事が肝心と説く。

各宗教における道[編集]

古代中国[編集]

古代中国において、は超人的な宇宙の支配者として絶対視された。中国が天を畏敬するようになったのは、紀元前1700年頃よりのこととされる。[注 6]

中国民族の運命観とは、天命思想であった。古代においては、人格神であった天帝が、天命を下すと信じられてきた。しかし、時代がたつにつれて天の人格性が薄れ、やがて天道や天理といったロゴス的存在に転化していったとされる[18]

道教[編集]

道教における「道」の概念は、神秘思想の上に取り入れられ、道家のそれとはかけはなれた概念となっているとされていたが、近年はフランス学派の学者たちを中心に道家と道教の連続性を認める傾向が多くなってきている。

初期仏教[編集]

サーリプッタの悟りとブッダの問いかけ[編集]

初期仏教の経典の中には、サーリプッタ解脱をしたときに、ゴータマ・ブッダが「再びこの存在に戻ることはないと開したことを明言したのか」と問うたとき、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる[19]。「この存在」という自己意識から解脱するとき、道(宇宙の真理)が出起すると見ることができる。ゴータマとサーリープッタの語っていることに差異があるのは、聖者ごとに開悟(解脱)の内容はいろいろで、複数あったとされるためである[20]

初期においては、ゴータマが説法することを「梵輪をまわす」と呼んでいた。これは古ウパニシャッドからきており、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があるとされる[注 7][注 8]。ゴータマの意識の中では、宇宙の真理を悟ったという自覚があったようであり、サーリプッタの悟りによって、宇宙の真理を悟ることと、「道」という実在が出起することとは、悟りの段階の違いはあっても、本質的には同じであるということが明らかにされたと見ることができる[注 9]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ また、古い本では、「建言」に言及している第41章は、現行の第40章(道の動について触れている核心部分)の前に来ている。(出典『老子』岩波書店2008年P193 注1蜂屋邦夫)
  2. ^ 「建言」による引用はどこまでを指すのかは不確実である(出典『中国古典文学大系4』1973年P22 注2金谷治)。内容からすると、43章くらいまでが名言集であるように見える。42章には、「私もまた、教えの父として、凶暴な者はよい死に方をしない、という諺を語ろう」、と編集者自身のことを記している。吾という語は無為自然と一体となっていない感じがするし、よい死に方という価値観は、無為自然にかなった死に方と表現すべきところであるように見受けられる。
  3. ^ 大自然の法則は、無言の中にも、たえず人間に真理を教えているとする見解がある。(出典『心の発見科学編』株式会社経済界1971年P138 高橋信次)
  4. ^ 孔子は『論語』里仁第四において、「士で悪衣悪食(着衣や食物の粗末さ)を恥じる者は共に道を論ずる資格はない」と立場を示している。また述而第七では、「我、生まれながらにして道を知る者(天才)に非ず。古を好み怠らず勉学して求め知った」としている(『論語抄』史跡足利学校刊)。
  5. ^ 棲守道徳者、寂涼万古。達人観物外之物、思身後之身。寧受一時之寂寞、母取万古之凄涼。
  6. ^ こうした天への畏敬は、儒教の時代に天道として発展した。(出典『タオ=道の思想』講談社 2002年 P31 林田慎之介)
  7. ^ ウパニシャッドの言葉であっても、現存パーリ仏典よりも内容や言葉はかなり古いものをうけている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P136 中村元
  8. ^ ウパニシャッドでは、「解脱」とは宇宙原理たるブラフマンと自己との合一を意味していた。『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P152松本照敬
  9. ^ 「一なるもの」とは、人間がこれまで神とか仏とか真理・宇宙意識とか呼んできたものであり、老子が道と呼んできたものである、という見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)

出典[編集]

  1. ^ a b 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P165森三樹三郎
  2. ^ 『老荘を読む』講談社1987年P74  峯屋邦夫
  3. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社1978年P14 小川環樹
  4. ^ a b 『中国の古代哲学』講談社2003年P145 宇野哲人
  5. ^ 『世界の名著 4 老子 荘子』中央公論社 1978年P17 小川環樹
  6. ^ a b 『老荘を読む』講談社 1987年 P114 蜂屋邦夫
  7. ^ 『老荘を読む』講談社 1987年 P116 蜂屋邦夫
  8. ^ 『老荘を読む』講談社1987年P134 峯屋邦夫
  9. ^ 『中国古典文学大系4』平凡社1973年 P488解説 金谷治
  10. ^ 『世界の名著 4 老子 荘子』中央公論社 1978年P117の注 小川環樹
  11. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社1978年P114 小川環樹
  12. ^ 『老子』岩波書店2008年P207 注5 蜂屋邦夫
  13. ^ 『老子』中央公論社1973年P96 の注小川環樹
  14. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P184森三樹三郎
  15. ^ 『中国古典文学大系4』平凡社1973年 P64 金谷治
  16. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P89森三樹三郎
  17. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P81森三樹三郎
  18. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫 1994年 P89 森三樹三郎
  19. ^ 『原始仏典II 相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
  20. ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P204注28 中村元

関連項目[編集]

外部リンク[編集]