赤穂城

logo
logo
赤穂城
兵庫県
大手門(高麗門)二層隅櫓[4]
大手門(高麗門)二層隅櫓[4]
別名 加里屋城[5]
城郭構造 変形輪郭式海岸平城
天守構造 建造されず
築城主 浅野長直
築城年 1648年慶安元年) - 1661年寛文元年)
主な改修者 浅野長直
主な城主 浅野家、永井家、森家
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 石垣、堀、本丸庭園、二之丸庭園、門跡
指定文化財 国史跡、国名勝(旧赤穂城庭園 本丸庭園・二之丸庭園)
再建造物 櫓・門、二之丸庭園(復元中)
位置 北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒 / 北緯34.7456694度 東経134.3889833度 / 34.7456694; 134.3889833 (赤穂城)座標: 北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒 / 北緯34.7456694度 東経134.3889833度 / 34.7456694; 134.3889833 (赤穂城)
地図
赤穂城の位置(兵庫県内)
赤穂城
赤穂城
テンプレートを表示

赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩[6])の藩主が暮らした城。城郭は国の史跡[7]に、本丸庭園と二之丸庭園は名勝[8]に指定されている。日本100名城日本の歴史公園100選にも選定されている。

南から本丸(1)と本丸門(B)、それを囲む二之丸(2)、大手門(A)を抜けると三之丸(3)
本丸(1)を囲む二之丸(2)と隣接する三之丸(3)。大手門(A=北)を通り、本丸門(B=南)を抜けると本丸に着く。
本丸南の石垣と堀

概要[編集]

江戸時代、赤穂藩の政庁が置かれた。

赤穂城の前身となる城郭は、池田長政が慶長5年(1600年)に築城したと伝わり、後世に「掻上城」(かきあげじょう)と呼ばれた[9]。これは絵図や発掘調査から、遺構が現存する後世の赤穂城本丸と二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっている[9][10]。その後も池田家に赤穂郡代として仕えた垂水半左衛門勝重や、赤穂藩主となった池田政綱池田輝興によって改修がなされたものの、簡略な城郭であったとされる[11]

正保2年(1645年)に浅野長直が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。これが現在の赤穂城であり、元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類される。縄張りは変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側の三之丸は二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されている。銃砲戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野家初代長直の時代、浅野家に仕えた甲州流兵学者近藤正純によってなされた[9][11]

またこのとき赤穂藩に仕えていた軍学者の山鹿素行が、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言した。これにより二の丸門周辺を手直ししたと伝わり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[12]

最終的に寛文元年(1661年)[9]に着手から13年かかって完成し、10の隅櫓(すみやぐら)、門が12基、曲輪(くるわ)の延長は2847に及んだ[13]。本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されなかった。このことについて城郭研究家の加藤理文は、天守を築ける天守台を持つことが優先され、また天守あるいは天守台を持つことが家の格式を示す典拠としている[14]

明治時代前期に廃城されると建物は破却、一部の石垣のみを残し、土地の大部分は民間へ払い下げられて田畑や宅地に転用された。本丸跡は小学校ほか、公共施設の用地に当てた。旧制赤穂中学が1928年(昭和3年)に設けられて戦後は学制改革を受けて兵庫県立赤穂高校と称し、1981年(昭和56年)まで西洋風の鉄筋コンクリート校舎が存在していた[10]

大手隅櫓、大手門(高麗門)は1955年(昭和30年)に古写真[15]を参考に再建築されている[9]。1971年(昭和46年)に赤穂城跡が国史跡の指定を受ける[16]と、門・塀・庭園が徐々に再建され、1995年度以降は二之丸庭園の復元整備が段階的に継続している[17]。本丸には本丸門や本丸御殿の間取りを示し、発掘調査で確認された庭園などが復元整備されており、その規模や当時の暮らしぶりの一端を窺うことができる。

上水道[編集]

赤穂城は海岸に近く標高がほぼ1m[6]と低く、堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかった。そのため、熊見川(現・千種川)の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水したのは藩主・池田家が治めた1616年(元和2年)である。着工の1614年(慶長19年)から指揮は前出の代官(郡代)垂水勝重がとり、山に取水トンネルを掘ると(切山隧道)、熊見川の水を導水路で引いた。これは「旧赤穂上水道」と呼ばれ[18] 、日本三大上水道の一つに数える説もあり[19]、2003年には城下の居住地区で発掘が進むと、現在の地表(標高2m強)から1mほど地下に江戸時代の生活面が確認された[6]。そのさらに下層は1600年代前半に相当する地層(第3遺構面)で、そこから竹を加工した管や木造の桝(ます)が掘り出され、江戸時代の浅野氏治世以前に、上水道システムがあったと判明した。当代の池田藩主(政綱と輝興父子)は旧城内ばかりか、城を見上げる町内へも給水網を整備したことがわかった[6]。この上水道の遺構は整備保存され、歴史的な観光スポットとして公開している[注釈 1]

赤穂城は浅野氏の「元禄赤穂事件」で有名だが、池田氏にも輝興が狂乱し正室などを殺す「#正保赤穂事件」、赤穂城を預かった龍野藩脇坂氏時代にも赤穂城に在番した重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す「#脇坂赤穂事件[注釈 2]森氏時代にも家老の藩政の私物化を疑い、攘夷派の志士たちが森主税(可彝)を暗殺した「#文久赤穂事件」が起きた。

歴史[編集]

加里屋城・大鷹城時代[編集]

大鷹城[21]は1452~1455年(享徳年間)、岡豊前守光広が加里屋に「古城」を築城[22][要ページ番号]し、この地で初の築城となる[要出典]。赤穂に生駒親正が伊勢国神戸から1585年天正14年)に入府し、石高は桃山・江戸期を通じて当藩最大の6万石[23][要文献特定詳細情報]を与えられたが1586年(天正15年)には讃岐に移され、赤穂一郡は宇喜多秀家の所領となる。「宇喜多秀家士帳」に赤穂の石高・居城の記載が無いことから[要出典]、他郡からの間接統治の可能性も示唆される[24][要文献特定詳細情報][25][要ページ番号]。宇喜多氏は1600年(慶長5年)に関ヶ原の合戦により改易・流罪となり、姫路藩主・池田輝政の弟の長政が赤穂領主に任ぜられると、「掻上城」を赤穂郡加里屋に築城[22]し、これが赤穂城の前身となる。輝政の次男で備前岡山藩主・忠継の所領となった1613年(慶長18年) 、城に一重の堀・石垣・櫓・門を造営[22]、忠継の弟・政綱は3万5000石を与えられ1615年(元和元年)に赤穂藩が立藩し、御殿を建てる。その政綱嗣子なく1631年(寛永8年)に死去すると、弟の輝興が入封してさらに櫓・馬屋を造った。狂乱し刃傷沙汰の咎で正保2年に改易正保赤穂事件)され(1645年)、水谷勝隆備中松山藩)の一時預かりとなった城は同年、浅野長直を5万3000石で迎える。

赤穂城時代[編集]

近世の城郭建設のため、近藤正純が1646年(正保3年)に設計図を作成[要出典]し、石材採掘にも取り掛かる。幕府に築城計画を提出した1648年(慶安元年6月17日、新暦8月5日[9]、同年中に城作りが始まる。赤穂藩主・浅野長直は1652年(承応元年)、山鹿素行を赤穂に招き、7ヵ月滞在した山鹿は二の丸周辺の設計を助言した。[要文献特定詳細情報] ただ、城の北に大手門と道(現在はJR播州赤穂駅に通じる)、南に流水(加里屋川を望む水手門)、西に緑地(庭園)、東に天守台[注釈 3]があり、山鹿流の縄張り [26]とは異なっている。

赤穂城は1661年(寛文元年)に完成し、やがて3代浅野長矩の弟・長広に播磨国赤穂郡の新田3000石を分与、旗本の寄合に列するのは1694年(元禄7年)である。長矩が勅使饗応役に任ぜられ、1701年(元禄14年)に江戸城中で吉良義央に斬りつけて刃傷事件を起こすと浅野氏は改易となる。城の明け渡しが行なわれるが、これ際して幕府へ赤穂城内の備品・武具の数が報告された。赤穂藩5万石において、長槍50本、火縄銃50丁とその銃弾2000発、弓500張とその矢2000本、足軽用具足100領、門番用具足200領が記録されている。江戸時代の城にどれほどの武具の蓄えがあったのかを知る事ができる数少ない例である[27]。翌元禄15年、家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。。

浅野氏家臣から赤穂城を預かった隣国の播磨龍野藩主・脇坂安照もまた在番中に家老・脇坂民部の目代が刃傷事件を起こし、6月24日、赤穂城内で死傷者を出す(脇坂赤穂事件)。また、城下の町人(主に子供)が水堀で釣りをしたり、百姓たちが二の丸の蔵米を奪おうとしたり、多数の領民が暴れて建物や石垣を壊したりした(三の丸で清水門が破損したと記される[28])。民部はこれらを取り締まると共に米合計3036俵を城から移転した。龍野に在国中の安照が幕府に城の破損状況を報告している[29]。幕閣の命で代官が派遣され、建物壁の落書消しや石垣修復が行なわれた。そのほか城には多数のが居た記録が残る[30]

1702年(元禄15年)に永井直敬が3万3000石で入封した。 1706年(宝永3年)に当代の直敬は信濃国飯山藩へ転封となると、森長直備中国西江原藩より2万石で入部。この森家は廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主として最も長く在封することになる。

幕末に至ると藩政の改革をめぐり、1857年(安政4年)に保守派・革新派の対立が起こって藩内は分裂し、革新派の一部は脱藩して長州藩へ奔る(はしる)。

文久2年(1862年)12月9日、尊皇攘夷論に傾斜を強めていた西川升吉ら中下級武士13名が、佐幕派の一門・森主税(可彝)を赤穂城で斬殺した。藩儒(朱子学教授)・村上真輔(天谷)も城下の屋敷で殺害される[31]。襲撃者の13人は西川など7人が刑死または捕縛前に同士討ちで死亡、6人が高野山にある藩祖の墓守とされた(文久赤穂事件)[32]

近現代[編集]

1930年代の赤穂城

1871年(明治4年)、廃藩置県により赤穂県となると、廃城令発布(1873年)を受けて飾磨県権県令は1876年(明治9年)に城売却の入札を行う。以後、順次建築物が破却された。

千種川の洪水が1892年(明治25年)に発生すると災害復旧と川のつけかえ(流路変更)のため、二之丸門から清水門までの石垣の石を転用して護岸を築く。城郭の石垣は破壊がいっそう進み、また堀は大手門枡形の南側と北方多門にかけて埋め戻された。

1897年(明治30年)には大石神社の建立が始まった。大町桂月ら右翼や国粋主義者[33]の反対もあり[34]、起工には相当の年月を要し、1912年大正元年)になってようやく社殿が竣工した。

本丸跡は、旧制の県立中学校の敷地にあてて1928年(昭和3年)に開校する。

城の建造物は1935年(昭和10年)に大手門前の堀と太鼓橋を復元したのち、本丸の外堀は第二次世界大戦を挟んで1953年(昭和28年)を待って復元される。続いて大手隅櫓と大手門(高麗門)を1955年(昭和30年)に再建するが、隅櫓の一部は明治期に撮影された形状から変わった。

本丸跡の県立赤穂高校(旧制赤穂中学校)は、城が国の史跡に指定されてから10年後を経た1981年(昭和56年)に御崎へ移転させ、本丸庭園の復元・整備は1990年(平成2年)に完成。また大手門枡形、本丸門および同枡形は1996年(平成8年)に復元された。本丸厩口門は2001年(平成13年)に復元され、2010年(平成22年)に復元された庭園の西仕切門は、高さ約4.6 m、幅約3.0 m。総工費は門につながる土塀約10.5 m分も含めて約3200万円と報道された[35]。二之丸庭園は2016年(平成28年)に部分公開を始めている[36]

史跡、名勝[編集]

大石内蔵助邸は1923年(大正12年)に国の史跡に指定。赤穂城は1971年(昭和46年)に国の史跡[7]に指定された。

1990年代に門(本丸門、本丸厩口門)ならびに枡形(大手門、本丸門)あるいは本丸庭園の復元・整備が進むと、旧赤穂城庭園は2002年(平成14年)に国の名勝に指定された(本丸庭園および二の丸庭園)[8]。財団法人日本城郭協会により2006年(平成18年)に「日本100名城(60番)」に選ばれている[37][要出典]

光の天守閣(ライトアップ)[編集]

赤穂青年会議所は2006年(平成18年)より、赤穂義士祭が行われる12月14日に先立つ数日にわたり天守台でライトアップを行なってきた。天守を模した足場を築き、電飾を配して夜間に点灯させたものである[38][39]。年々、天守の高さが高くなっていたが2009年以降は5層となっている[40][41]。本来、赤穂城の天守台に天守を建てたことはない。また歴史的な資料を参考にしているわけではない。

天守台に組まれた「光の天守閣」
電球[※ 1] 高さ[※ 2] 備考
2006年 2     詳細不明
2007年 3 1.2 約22
2008年 4 1.5 約24 総鋼管8 t [38]
2009年 5 2.2 約30 総鋼管12 t [39]
2010年 5 3.0 約28 [42]
2011年 5 3.0 約28 [43]
2012年      
2013年      
2014年       天守台にプロジェクションマッピングを投影[44]
2015年       前年に続き光の天守と共に[45]
天守台にプロジェクションマッピングを投影[46]
凡例
  1. ^ 概数、万球
  2. ^ およそ地上・m

遺構[編集]

土塁石垣などが残る。又、これから出てくる建物のこれ以上の木造復元計画は予算の関係でない。 。

復元・整備施設[編集]

本丸[編集]

  • 本丸高麗門(こうらいもん) - 赤穂城本丸門の一部。城壁上の土塀に丸、三角、四角の穴(狭間)が開く。正面に「赤穂城址」の石碑。
  • 本丸櫓門(やぐらもん) - 同上。石垣の上に一層櫓。内部は特定日に一般公開される[47]
  • 天守台 - 天守が築かれた事はないが、#光の天守閣でプロジェクションマッピングが投影される。
  • 本丸御殿跡 - 本丸庭園は国の名勝に指定。コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、坪庭跡には中高木を植栽。
  • 刎橋門(はねばしもん)跡 - 石垣の一部は破壊された痕を残す。内堀の直前に柵が付けられている。

二の丸[編集]

  • 二ノ丸土塁
  • 厩口門(うまやぐちもん) - 別称は高麗門。1981年(昭和56年)まで県立赤穂高等学校の通用口に使われた[48]
  • 二の丸庭園
  • 水手門 - 船着場跡と四脚門の礎石がある。
  • 西仕切門
  • 文久赤穂事件顕彰碑 - 佐幕・保守派の森主税・朱子学者の村上父子を誅した尊王攘夷13人の顕彰碑。大正デモクラシーで破却され[注釈 4]、現在は「かんかん石」[49]と称する四角い台座の部分二基のみ残る。
  • 忠魂碑 - 赤穂出身の日清・日露など戦没兵士を湛える記念碑[50]

三の丸[編集]

  • 太鼓橋 - 正門である三之丸の「大手門」へかかる橋。 1935年(昭和10年)に建築。木造による復元ではない。
  • 大手門(高麗門)- 大手門の一部。 1955年(昭和30年)に建築[注釈 5]
  • 枡形虎口(ますがたこぐち[注釈 6])・番所[注釈 7] - 大手門を入ると右に折れ曲がる入口。番所跡に模擬番屋(案内所)が立つ。
  • 大手(高麗門)隅櫓 - 三之丸の大手門近くにあった隅櫓を模して1950年(昭和30年)に建築。二層の隅櫓を設置[注釈 8]

支城(陣屋)[編集]

  • 若狭野陣屋 - 赤穂藩浅野家の分家・若狭野浅野氏(旗本)の陣屋。西法寺(相生市那波野)に陣屋門が移築。
  • 家原陣屋 - 同・家原浅野氏(旗本)の陣屋。現在は「夢園温泉」となっており遺構は無い。
  • 三日月陣屋 - 赤穂藩森家の分家・三日月藩の陣屋。

周辺の文化施設・観光名所[編集]

城内の指定文化財[16]
  • 国史跡 大石良雄宅跡[注釈 9]
  • 国名勝 旧赤穂城庭園(赤穂市所有、本丸庭園と二之丸庭園)[注釈 11]
  • 市指定文化財 近藤源八宅跡長屋門[注釈 12] - 天井・瓦などの一部以外は復元[注釈 13]。近藤源八が使用した門は破却され、現存の長屋門は18世紀以降の再建と推察される[要出典]
同城内の文化施設[16]
  • 赤穂市立歴史博物館 主題は「塩と義士の館」[16]
  • 三之丸跡
    • 花見広場 当時の遊水池を活用し、200本超の桜を植栽して整備[16]
    • 米蔵跡休憩舎[16]
  • 城内
    • 武家屋敷公園 三之丸清水門から入ると左手の建物。外観は勤番の侍が寝起きした屋敷に似せてあり、往時の城内を想像させる[16]
周辺の見どころ
博物館、美術館

赤穂城でロケが行われた映画・ドラマ[編集]

映画
ドラマ

参考文献[編集]

主な執筆者または編者、出版者の50音順。

各項目内は主な執筆者または発行者の順。

城郭と城下

  • 史跡赤穂城跡本丸発掘調査団(編)『史跡赤穂城跡本丸発掘調査報告書』赤穂市教育委員会〈赤穂市文化財調査報告書, 1, 5, 18〉、1984年。 NCID BA42157013 
    • 第2編 赤穂城跡調査会と史跡赤穂城跡本丸発掘調査団(編)。
    • 第3編 赤穂市教育委員会(編)はす。
  • 熊田葦城『赤穂城址、加里屋』 14巻、平凡社〈日本史蹟大系〉、1936年、[要ページ番号]頁。 
  • 私立赤穂郡教育会、藤江 忠廉『赤穂郡誌. 播州赤穂郡志』臨川書店、1973年、[要ページ番号]頁。 NCID BN09433997 
  • 西ヶ谷恭弘 編『定本 日本城郭事典』秋田書店、2000年、283-285頁。 ISBN 4-253-00375-3
  • 兵庫県高等学校教育研究会歴史部会 編『新版 兵庫県の歴史散歩』 下、山川出版社〈新全国歴史散歩シリーズ〉、1991年、114-115頁。 ISBN 4-634-29580-6
  • 松岡秀夫(編)「赤穂城物語」『写真集明治大正昭和赤穂』国書刊行会、東京〈ふるさとの想い出134〉、1980年、6-14頁。 
    • 「元禄時代赤穂城之図」、「同城内侍屋敷図」
    • 「赤穂城本丸内水筋図」
    • 天守閣の模型
    • 空から見た赤穂城址
    • 櫓:大手門角櫓(再建後の写真あり)、潮見櫓
    • 門:塩屋門、二の丸門、大正時代の大手門、本丸門。武家の長屋門(大石内蔵助の屋敷)
    • 本丸址に建った中学校本館。
  • 歴史群像シリーズ(編)『歴史群像シリーズ特別編集 決定版 図説江戸三百藩 城と陣屋総覧 西国編』学習研究社ref = CITEREF学研2006、2006年。 

出版物[編集]

管理者の赤穂市による。発行順。

城と町

  • 『赤穂城絵図展 : 絵図にみる城と城下町のうつりかわり』赤穂市立歴史博物館(編)、2000年。開館10周年記念、赤穂城築城開始350年記念の特別展図録。1999(平成11)年度。2000年(平成12年)2月11日-同3月20日。NCID BA45482597

庭園

  • 赤穂市教育委員会生涯学習課(編)『名勝旧赤穂城庭園二之丸庭園整備概要報告書』赤穂市教育委員会生涯学習課〈赤穂市文化財調査報告書〉
    • 第1部〈第68号〉、2008年。
    • 第2部〈第77号〉、2013年。
    • 第3部〈第90号〉、2019年。
  • 赤穂市教育委員会生涯学習課(編)『赤穂城攻略本』赤穂市教育委員会生涯学習課〈赤穂市文化財調査報告書 ; 93〉、2020年。

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 赤穂市内に点在する江戸時代の井戸「汲出桝」(くみだします)は、例えば旧城下町に相当するJR播州赤穂駅前の商業施設「赤穂バザール」の前で見学できる(赤穂市加里屋42-7正面)[19]
  2. ^ 事件は老中・阿部正武に早飛脚で伝えられた[20]
  3. ^ 浅野宗家の広島城は吉方(北西)に天守がある。
  4. ^ 討たれた村上真輔のみ大正期(明治維新への反動)に五十余年を経て左翼系の運動で名誉回復(贈位)している。
  5. ^ 江戸時代にはこの奥に櫓門が存在したが、失われた。
  6. ^ 「こぐち」は狭い道・狭い口の意味。「ここう」と読むと「危険な場所」。
  7. ^ 番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたった。
  8. ^ 番所跡に「明治期に撮影された隅櫓の形状とは異なる」旨の説明と当時の写真が掲示してある。
  9. ^ 大石良雄宅跡(赤穂大石神社所有)の国史跡指定は1923年(大正12年)3月7日、面積3,796.12m2
  10. ^ 「老朽甚だしく、昭和期に、総工費3,138万余円をかけて復元」[51]
  11. ^ 旧赤穂城庭園の国名勝指定は2012年(平成14年)9月20日、面積2万4912.58m2
  12. ^ 近藤源八宅跡(赤穂市所有、長屋門)の市指定文化財指定は1998年(平成10年)4月27日。
  13. ^ 案内板によると「簀子野地天井(すのこのじてんじょう)などを残し、平成13年(2001年)に解体復元」した。赤穂市教育委員会。

出典[編集]

  1. ^ 赤穂の城と城下町—赤穂城模型”. 赤穂市立歴史博物館(収蔵). 2022年2月16日閲覧。
  2. ^ 「宝永元年の赤穂城下町絵図」『赤穂市史』1983年、2頁、NAID 10004748294 
  3. ^ 堀田 浩之「姫路城・赤穂城・林田陣屋 荻原一青の描いた城郭絵図 (特集 兵庫の城郭絵図研究 (播磨・淡路編) : 荻原一青の再評価)」『歴史と神戸 : 神戸を中心とした兵庫県郷土研究誌』第60巻第5号、神戸史学会、2021年10月、19-31頁、ISSN 0288-7789NAID 40022717938 
  4. ^ かつて高麗門の奥に一層の櫓門[1][2][3]が位置した。
  5. ^ 中井 2017, p. 428.
  6. ^ a b c d 赤穂城下町跡発掘調査(2003-3・4・5区)現地説明会資料”. www.ako-hyg.ed.jp. 「兵庫県赤穂市の文化財」. 赤穂市教育委員会文化財課. 2021年12月15日閲覧。
  7. ^ a b 史跡名勝天然記念物:赤穂城跡(あこうじょうあと)”. kunishitei.bunka.go.jp. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2021年9月6日閲覧。
  8. ^ a b 史跡名勝天然記念物:旧赤穂城庭園 本丸庭園 二之丸庭園(きゅうあこうじょうていえん ほんまるていえん にのまるていえん)”. kunishitei.bunka.go.jp. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2021年9月6日閲覧。
  9. ^ a b c d e f 赤穂城にまつわる歴史”. 赤穂市教育委員会. 2019年8月2日閲覧。
  10. ^ a b 『史跡赤穂城跡本丸発掘調査報告書』赤穂市教育委員会、1984年、[要ページ番号]頁。 
  11. ^ a b 『赤穂市史』 2巻、赤穂市、1983年、[要ページ番号]頁。 
  12. ^ 赤穂城跡二之丸門枡形発掘調査現地説明会資料”. 赤穂市教育委員会. 2019年8月2日閲覧。
  13. ^ 赤穂城とは”. 赤穂市教育委員会. 2019年8月2日閲覧。
  14. ^ 学研 2006, pp. 61.
  15. ^ 松岡 1980, p. 6-14.
  16. ^ a b c d e f g 「兵庫県赤穂市の文化財」”. www.ako-hyg.ed.jp. 赤穂市教育委員会文化財課. 2021年12月15日閲覧。
    • 名称:赤穂城跡(あこうじょうあと)
    • 管理団体:赤穂市
    • 指定内容:
      • (1)国指定史跡、指定年月日:1971年(昭和46年)3月31日。
      • (2)国名勝・旧赤穂城庭園、指定年月日:2012年(平成14年)9月20日。本丸庭園to
    二之丸庭園(錦帯池)の範囲。
    • 指定面積:19万405.17m2
  17. ^ 国史跡赤穂城跡(兵庫県赤穂市) 公式Webサイト - 赤穂城の整備”. http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/index.html. 赤穂市教育委員会文化財課文化財係. 2023年11月14日閲覧。
  18. ^ 八木 1983, 「第4節 赤穂上水道の敷設」.
  19. ^ a b 産業振興部観光課観光係 (2021-09-28 (更新)). “旧上水道モニュメント”. www.city.ako.lg.jp. 施設案内 > 観光施設. 赤穂市. 2021年12月15日閲覧。
  20. ^ 白峰 旬 (Shiramine, Jun)「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について : 播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より」『別府大学大学院紀要』第13号、別府大学大学院文学研究科、2011年3月、41- 81頁、ISSN 1345-05302021年9月6日閲覧 
  21. ^ 「東有年谷口大鷹城ト云」(『播磨鑑』『播州赤穂郡志』)
  22. ^ a b c 私立赤穂郡教育会、藤江 忠廉『赤穂郡誌. 播州赤穂郡志』臨川書店、1973年。 NCID BN09433997 
  23. ^ 国史跡赤穂城跡 (兵庫県赤穂市) 公式Webサイト赤穂城跡、赤穂城下町跡の歴史年表”. 赤穂市教育委員会文化財課文化財係. 2022年5月19日閲覧。
  24. ^ 宇喜多家文書「宇喜多秀家士帳」
  25. ^ 「豊臣期宇喜多氏の構造的特質」(森脇崇文、2012年)
  26. ^ 『武教全書』第五・築城
  27. ^ 【にっぽん列島夕方ラジオ】関西ラジオワイド6月30日
  28. ^ 脇坂家文書『赤穂城在番日記』八月五日条及び十月十一日(「修復後御代官検分」)
  29. ^ 同・九月朔日「御城内破損帳」
  30. ^ 同「城内犬之覚」
  31. ^ 朝日日本歴史人物事典『森主税』 - コトバンク
  32. ^ 赤穂市立歴史博物館「特別展示 藩儒村上氏」解説。
  33. ^ 桂月は与謝野晶子に対して「非国民」[乱臣賊子」と批判した事件で知られる。
  34. ^ 政教社「日本及日本人」(1909年)
  35. ^ 赤穂城庭園「西仕切門」の復元完成」『赤穂民報』、2012年4月14日。
  36. ^ 赤穂城の二之丸庭園、13日から部分公開」『朝日新聞』、2016年12月3日、兵庫。オリジナルの2016年12月20日時点におけるアーカイブ。
  37. ^ 日本100名城”. 公益財団法人「日本城郭協会」公式web. 2022年9月12日閲覧。
  38. ^ a b "光の天守閣"今年は4層造り」『赤穂民報』、2008年12月10日。
  39. ^ a b 「義士に届け、光の天守」今年は5層 赤穂民報2009年12月8日
  40. ^ Vol.23 幻の天守閣!さてさて、今年は何色に輝くでしょう?
  41. ^ 忠臣蔵ウイークの目玉である幻の天守閣!
  42. ^ 今年も「光の天守閣」築城中]」『赤穂民報』、2010年11月29日。
  43. ^ 月と競演"光の天守閣」『赤穂民報』、2010年12月7日。
  44. ^ 赤穂城跡でプロジェクションマッピング試写 義士祭で披露」『神戸新聞』、2014年12月。
  45. ^ 忠臣蔵ウイーク5日開幕 幻の天守閣も登場 赤穂」『神戸新聞』、2015年12月。
  46. ^ 赤穂城に動く浮世絵投影 忠臣蔵の名場面CG再現」『神戸新聞』、2015年12月。
  47. ^ 赤穂城跡のみどころ”. 赤穂市教育委員会. 2019年8月3日閲覧。
  48. ^ 現地「厩口門 説明板」、赤穂市教育委員会。
  49. ^ 官(かん)軍と「叩くとかんかんと音がする」に由来。(「二ノ丸門案板」)
  50. ^ 忠魂碑の意味 - 和英辞典 - コトバンク
  51. ^ 「大石邸長屋門」解説板、赤穂義士会。

外部リンク[編集]