豊倉孝治
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県館山市 |
生年月日 | 1951年5月10日(73歳) |
身長 体重 | 176 cm 67 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1970年 ドラフト3位 |
初出場 | 1971年4月11日 |
最終出場 | 1971年4月21日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について |
豊倉 孝治(とよくら たかはる、1951年5月10日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]千葉県立安房高等学校では、1968年秋季関東大会県予選準決勝に進むが銚子商に敗退。その後も県予選で敗れ甲子園には届かなかったが、高校時代はノーヒット・ノーランを2回達成。1968年には千葉県選抜の一員としてフィリピンに遠征し、最高殊勲選手にも選ばれた本格派投手であった。日本軽金属を経て、1970年ドラフト会議で西鉄ライオンズから3位指名を受け入団。
1年目の1971年にルーキーながらオープン戦に出場し、スライダーやカーブを武器に好投する。4月21日には近鉄を相手に先発し、鈴木啓示と投げ合うが2回3失点で降板。結局、公式戦では3試合しか登板することができず、1976年限りで引退した。
引退後は打撃投手兼スコアラーをつとめ[1]、1980年代の西武黄金時代を支え[2]、名スコアラーと評された[3]。1990年にはダイエーへ移籍してスコアラーを務めた[4]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
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1971 | 西鉄 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 26 | 4.2 | 7 | 1 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 8 | 7 | 12.60 | 2.36 |
通算:1年 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 26 | 4.2 | 7 | 1 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 8 | 7 | 12.60 | 2.36 |
背番号
[編集]- 52(1971年 - 1973年)
- 63(1974年 - 1976年)
- 85(1980年 - 1981年)
- 94(1982年 - 1989年)
- 103(1990年 - 1995年)[5]
脚注
[編集]- ^ “我が道、野球人 東尾修のスポニチ連載コラム”. RS INTERNATIONAL. 2011年10月7日閲覧。
- ^ “西武黄金期支えた敏腕スコアラー ブライアント4連発を語る”. NEWSポストセブン (2013年9月4日). 2021年10月3日閲覧。
- ^ “黄金時代西武の名スコアラー 原辰徳攻略法完全把握していた”. NEWSポストセブン (2013年6月17日). 2021年10月3日閲覧。
- ^ 井上光成. “The HAWKS Times”. 西日本新聞. 2011年10月7日閲覧。
- ^ “背番号の変遷(No.101~120)”. 福岡ソフトバンクホークス 2020年10月3日閲覧。