護雅夫

護 雅夫もり まさお
人物情報
生誕 (1921-03-30) 1921年3月30日
日本の旗 日本滋賀県長浜町
死没 1996年12月23日(1996-12-23)(75歳)
出身校 東京帝国大学・大学院
配偶者 道子(旧姓:門脇)[注 1]
学問
研究分野 東洋史(内陸アジア史・トルコ学)
研究機関 北海道大学
東京大学
日本大学
東洋文庫
学位 文学博士
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護 雅夫(もり まさお、1921年大正10年〉3月30日 - 1996年平成8年〉12月23日)は、日本東洋学者歴史学者。専攻はトルコ民族史・内陸アジア史・トルコ学[5]東京大学名誉教授勲二等瑞宝章受章。日本学士院会員

経歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

滋賀県長浜町(現長浜市真宗大谷派一心寺 11世住職 釋雅亮・春枝の長男として生誕[3][注 3] 。旧制県立虎姫中学校(現:滋賀県立虎姫高等学校)から1938年第三高等学校文科甲類へ入学、「自由寮」での寮生活を始める[7][注 4]

1941年東京帝国大学文学部東洋史学科入学、1943年9月卒業[注 5]と同時に同大大学院入学即日休学、10月に三期兵科予備学生として広島県江田島海軍兵学校に入校、同年末まで教育・訓練をうけ[注 6]、1944年より海兵教官として国史を担当する[15]

1945年3月中尉任官、8月敗戦、9月復員後大学院に復学し、和田清により特別研究生に採用される[16]。1946年3月に前田直典の提唱により組織された北方史研究会主催の柴田武(当時は言語学科助手)による現代トルコ語講習会に参加 [注 7]。ペルシア語、ロシア語、モンゴル語も学ぶ[17]。在学中は和田清、榎一雄から指導を受ける。

高等学校時代の安部健夫[注 8]・大学時代の和田清 両師の影響でアジア遊牧民の歴史的研究を志すようになる[20]

歴史学者として[編集]

1948年、和田清の推挽により北海道大学法文学部助教授に任ぜられるが、同時に内地研究員として東京大学文学部東洋史研究室で蒙古史研究に従事し、翌年赴任する[3][21]。北海道網走市モヨロ貝塚での東大と北大の合同発掘調査が1947年、1948年、1951年に行われ、護も1951年の発掘調査に参加した[22]

1956年、朝鮮史講座担当として東京大学文学部助教授に着任する[22]

1958年3月-1959年10月、山本達郎の推輓により[23]ロックフェラー財団研究員として[24][25]トルコ(アンカライスタンブル両大学)[注 9] とドイツ(ハンブルク大学)へ留学。イスタンブル大学ラフメティ・アラト英語版ハンブルク大学フォン・ガベン英語版[注 10]より古代テュルク語(突厥語・ウイグル語)の個人教授を受ける[29][30]。イスタンブル大学では日本史について講義した[5]

1962年、東京大学より文学博士の学位を取得 (学位請求論文:「古代北アジア遊牧民族史の研究」) [31]

1963年、松田壽男らにより再建された「日本イスラム協会」の評議員・理事をつとめる[32]

1966年3月-5月には交換教授としてレニングラード大学 東洋学部、旧ソ連科学アカデミー所属アジア諸民族研究所で古代トルコ民族史の講義・講演を行う [25][33]

1968年、東京大学文学部教授に昇任し、"北アジア史について幾多の貢献をした。その主な論文は(護 1967)に収められている[22]"。1970年に日本学士院賞を受賞する。

1976年、イスタンブル大学 文学部より招きをうけ、9月より1年間、トルコ民族史・古代テュルク語・アジア史(日本史を含む)などについてトルコ語で講義とゼミナールを行う[34][注 11]。さらに大学での講義に加え、トルコ・日本婦人友好文化協会の要請によりイスタンブル総領事館一室で日本語講座を開く[36]

1981年4月東京大学定年退官、5月名誉教授の称号を受ける[3]。同年6月より東洋文庫理事に就任[37]。1981年から1991年まで日本大学文理学部教授に就く[5]

この間、1982年3月-5月日本学術振興会の援助を得てアンカラに滞在し、梅村坦とともに「日本学術振興会 西アジア地域研究センター」の再建・設立に携わる[3][38][注 12]。1986年8月、ハンブルクでの第32回 国際アジア・北アフリカ研究会議(ICANAS)に日本学術会議東方学会を代表して参加[40][注 13]。同年9月には、トルコ アンカラ大学に日本学科を開設する任務を帯び、国際交流基金・日本大学から派遣され、1年間客員教授をつとめる[注 14]北アジア史、シルクロード史とともに、日本史・文化入門、日本語講義を担当した[43]

1992年12月日本学士院会員となる。選定にあたり日本学士院は、専攻学科目として、それまでになかった「トルコ学」部門を新設しその研究領域とした[45][46][47][注 15]

(1980-1981)史学会理事長、(1981-1986)東洋文庫附置ユネスコ東アジア文化研究センター所長、(1985-1988)日本学術会議 第13期会員、(1985-1991)東方学会 理事長[48]、(1986-1990)東洋文庫研究部長[49]、(1987-1993)中近東文化センター理事長、トルコ共和国科学アカデミー(アタテュルク文化センター)名誉会員、 古代オリエント博物館理事、日本中国文化交流協会常任理事、出光美術館評議員、東方学会 評議員、内陸アジア史学会顧問などを歴任する[5][3][50]

門下生に佐藤次高[51]鈴木董[52]森安孝夫[53]らがいる。

晩年は神奈川県藤沢市に居住し[54][55][注 16]、約6年におよぶ闘病生活の間も執筆活動は続けたが[56] [57]1996年12月肺炎のため相模原市の病院で没した[3]。没後同日づけで正四位に叙せられる[5][58]

没後、トルコ人作家アズィズ・ネスィントルコ語版英語版[注 18]の作品、加えてネスィンのインタビュー記事[注 19]の翻訳原稿がみつかり林佳世子粕谷元[注 20]新井政美らが「出版のための体裁を整え」[63]、2013年に藤原書店で『口で鳥をつかまえる男』(護 2013)が刊行された。

受賞・栄典[編集]

出典:[3][5]

著作[編集]

単著[編集]

  • 『近代以前の東洋』三省堂〈社会科歴史文庫 4〉、1956年。全国書誌番号:45021412 
  • 『古代トルコ民族史研究』山川出版社(全3巻)。 
    ※第III巻は遺著。別冊(全3巻総索引+護雅夫著作目録)附:全85頁[注 22]
  • 『遊牧騎馬民族国家-蒼き狼の子孫たち』講談社講談社現代新書 116〉、1967年。ISBN 978-4061155169[注 23]
  • 『よくわかる世界史 新課程』旺文社〈よくわかるシリーズ〉、1973年。 
  • 李陵中央公論社中公叢書〉、1974年、新版1990年。NCID BN0260235X中公文庫、1992年[注 24]ISBN 978-4122019348
  • 『古代遊牧帝国』中央公論社〈中公新書 437〉、1976年。ISBN 978-4121004376
  • 『中央アジア史:シルクロードに興亡した国々』旺文社〈テレビ大学講座 現代アジア論 I〉、1981年。 NCID BN11699760 
  • 『草原とオアシスの人々』三省堂〈人間の世界歴史 7〉、1984年。ISBN 978-4385406572
  • (トルコ語) Prof. Dr. Masao Mori’nin Göktürkler : Ders Notları. Prof.Dr.Gülçin Çandarlıoğlu, ed., Türk Dünyası Araştırmaları Vakfı(『護雅夫博士の突厥:講義ノート』ギュルチン・チャンダルルオウル編、トルコ世界研究財団). (2019). ISBN 978-9754982541. NCID BB2863152X. https://www.kitapyurdu.com/kitap/prof-dr-masao-morinin-gokturkler-ders-notlari/499708.html 

訳書[編集]

共著[編集]

  • 筑摩書房編集部編『東アジア文明の形成』筑摩書房〈世界の歴史 3〉、1960年、新版1968年、新訂版1978年。NCID BN01850844。執筆:「匈奴:古代遊牧帝国の形成」
  • 筑摩書房編集部編『イスラム文化の発展』筑摩書房〈世界の歴史 7〉、1961年、新版1968年、新訂版1978年。NCID BN08704421
執筆:「イスラム世界帝国の完成」「タンズィマート[注 32]「座談会:イスラム国家における君主の問題 (板倉勝正・嶋田襄平・護雅夫) 」
執筆:「第二部 内陸アジア遊牧民の世界」「第三部 新しい体制への歩み 3「タタールの平和」」

編著[編集]

共編著[編集]

執筆:「まえがき」「序説」「第二章 遊牧国家の成立と発展」「第三章 遊牧国家の「文明化」」
執筆:「序説」『第3巻 渦巻く諸宗教』1982/「コンスタンティノープルの征服」『第5巻 スルタンの時代』1986

監修[編集]

  • 護雅夫 監修、高橋昭一と分担訳/写真:並河萬里トプカプ宮殿博物館』 全5冊+別冊、トプカプ宮殿博物館 全集刊行会、1980年。 NCID BN04925134 
    • 1 宝物館・2 細密画・3 スルタンの衣装・4 宮廷絨毯・5 ハレムの建築
    • 別冊は解説冊子:ケマル・チュー(Kemal Çığ)[74] 著『トプカプ宮殿博物館概論』

海軍兵学校[編集]

エッセイ・寄稿[編集]

  • 「「勤勉さ」からの決別」『道 昭和の一人一話集』 9巻、上山義雄 編、中統教育図書、1984年9月、105-111頁。全国書誌番号:85014076 
  • 「外国語は少しでも油断すると忘却の彼方へ」『私の外国語上達法』安原顯 編、メタローグ〈リテレール・ブックス 2〉、1994年5月、28-33頁。ISBN 978-4839810023 
  • 「死ぬまで直らぬ蒐書癖と無精」『私の「本」整理術』安原顯 編、メタローグ〈リテレール・ブックス 8〉、1994年8月、28-31頁。ISBN 978-4839810085 
  • 「癌告知を契機に、人生を濃密に生きる日々」『私の死生観』安原顯 編、メタローグ〈リテレール・ブックス 10〉、1994年9月、36-39頁。ISBN 978-4839810108 
  • 「男の社交場 トルコのカフェ」『想い出のカフェ:ドゥマゴからの贈り物』井上俊子 編、Bunkamura、1994年9月、8-11頁。 NCID BA31361776 
    • 再録 「男の社交場 - トルコのカフェ」『世界カフェ紀行:5分で巡る50の想い出』中央公論新社編〈中公文庫〉、2023年2月、110-113頁。ISBN 978-4122073241 
  • 「旅の醍醐味は、異国の人と話し、理解しあうこと」『私の海外旅行術』安原顯 編、メタローグ〈リテレール・ブックス 12〉、1994年10月、80-83頁。ISBN 978-4839810122 
  • 「学生も教師もつまらぬことで多忙すぎる」『日本の大学どこがダメか』安原顯 編、メタローグ、1994年12月、144-147頁。ISBN 978-4839820046 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 門脇願珠(広島高等師範学校 英語学 教授[1]。1945年3月10日退任 / 3月20日 叙従三位[2])の二女として生誕、1948年4月に結婚[3]。晩年、歌集『道程』を上梓[4]
  2. ^ 一心寺 13世住職 護嵓(もり いわお) 『真宗』2022年4月号「お寺の掲示板」
  3. ^ 1957年に父が急逝、釋雅夫として12世住職をほぼ4年間継承[6][注 2]。「住職とは名ばかりであったが、それでも、休暇には帰郷して法要はもとより葬儀での導師もつとめた」:護 1994, p. 38
  4. ^ 三高時代の19歳、『自由寮報』や全校の『嶽水会雑誌』によく投稿していた [8]/寄稿:「「孤独」と「共在」-一年生の人々に」『自由寮報』24 8面、1940.5/「小さい研究-陶淵明に於ける儒教的なるもの」『自由寮報』26 4-5面、1940.10[9]
  5. ^ 卒業論文のテーマは探馬赤、和田清の勧めを受け論文の一部を2編に分け手渡したものが、兵学校時代に公刊された[10]:「元初に於ける「探馬赤部族」について」『北亞細亞學報』3輯、1944年。NCID BA77783414/「探馬赤部族考序說」『史學雜誌』55編1號、1944年。論文原文は敗戦後の混乱で焼失[11][12]
  6. ^ 同期予備学生に布目潮渢山田信夫佐伯彰一らがいる[13][14]
  7. ^ 講習テキストにナスレッディン・ホジャの逸話があったことが、訳書上梓(護 1965a)のきっかけとなり「いろんな意味で、柴田さんは私の先生なのである」:護 1996, pp. 23, 26–27
  8. ^ (1903年12月-1959年2月 / 55歳没)羽田亨の下で代史を専攻。1957年、「西ウィグル国史の研究」(doi:10.11501/3008387)で京都大学より文学博士 学位取得[18][19]
  9. ^ 37歳で最初に一年近く留学したのはアンカラ大学 言語歴史地理学部。当時アンカラ在住の日本人は「大使館員をのぞくと私一人であった」[26]。当時外務省トルコ語在外留学生だった31歳の高橋昭一が護と懇意になり高橋昭一 1997で「新進気鋭の学徒」二人のアンカラでの思い出を記している。イスタンブルでは牟田口義郎(当時カイロ在住 朝日新聞中東特派員)と出会い交流を続け、20年後に共著(護 1978)を刊行[27]
  10. ^ 2度来日し、ウイグルに関する講演・講義・セミナーなどを行う:1962年・1975年。1962年の講演は護雅夫 訳により発表される:ウィグル王国における品位のある姿勢(講演要旨)」『東洋学報』第45巻第3号、東洋文庫、1962年12月、378-388頁。 [28]
  11. ^ 2019年、講義内容が、G.チャンダルルオウル博士[35]により書籍化される:Prof. Dr. Masao Mori'nin Göktürkler
  12. ^ ケマル・アタチュルク伝記執筆のための資料収集も目的のひとつであった[36][39]
  13. ^ イェニセイ碑文に関する発表を英語で行う[41]
  14. ^ トルコでの日本学教育は、日本留学から帰国したプラト・オトカンPulat Otkan (1942-2014)[42]により、1978年言語歴史地理学部 中国学科の選択科目として日本語教育が開始され、1986年公的教育機関として初めて日本語日本文学科の設立となり、17名の一年生が入学する[43][44]
  15. ^ 「『日本の学界にトルコ学の存在を認めてもらえた』と、しみじみ述懐して」いた(高橋昭一 1997)
  16. ^ 72歳の12月、写真家中野六郎により自宅書斎デスクの前で撮影が行われ、翌年刊行される:『文化を創る人たち-湘南:中野六郎写真集』湘南写真工房、1994.8, p.34。 NCID BA66977419 小倉遊亀城山三郎團伊玖磨ら各界の湘南在住112名の肖像。
  17. ^ アルスラン・カイナルダアトルコ語版(1923-2008)。(護 1965a, p. 309「つけたり」)中に、A.ネスィンへとともに謝意を表している。また『日土会話練習帖』でも協力を得た(護 1966, 「はしがき」)。A.カイナルダアは1997年Cumhuriyet Kitapにて護への追悼文を記している[59]
  18. ^ A.ネスィンとの交流はナスレッディン・ホジャが縁となり1960年代に始まる:翻訳(護 1965a)を思いたった際「イスタンブルの一古書肆の主人」[注 17]から「ホジャ研究の第一人者であるだけでなく、かれ自身が現代トルコのホジャである」とネスィンを紹介され、以後文通を交わす。1982年アンカラ滞在時に書店で出逢い、ネスィン基金財団本部へも赴く[60]
    ※D.ホサムも『トルコ人』の中で(護 1983a, pp. 227–234)ネスィンとホジャについて記述している[61]
  19. ^ 1987年アンカラ滞在時に新聞掲載されたもの[62]
  20. ^ 西アジア・イスラーム史 粕谷 元 教授”. 日本大学 文理学部 史学科. 2023年7月24日閲覧。
  21. ^ 古稀を迎える1991年3月に第I巻の続編を刊行しようと提案・企画され取りかかるが、体調不全により古稀翌年の刊行となる。佐藤次高・梅村坦・片山章雄らにより論文の収集・選択がなされた[67][68]
  22. ^ 編集全般担当は佐藤次高・梅村坦・片山章雄[69][70]
  23. ^ 1993年刊(第22刷)には副題なし、各・新書判は、重版多数
  24. ^ 著者による文庫版「あとがき」(pp.237-247)
  25. ^ 文通をしていたA.ネスィンに訳本を送ると、自身の編集雑誌で紹介した:「日本でナスレッディン・ホジャ物語が翻訳・刊行された。これは、恐らく、日本ではもちろん、東アジアでも最初の出版であろう」:護 1982b, p. 300。
  26. ^ 訳者解説は「モンゴル人と西方世界 — 両修道士派遣にいたるまで」
  27. ^ 原本(護 1979)から「附録 ポーランド人ベネディクト修道士の口述」を削除:p.452〈原本と表記について〉。
  28. ^ David Hotham はイギリスのジャーナリスト、1966年まで8年間トルコに滞在。原著は1972年刊 英語版(護 1983a, p. 321 訳者あとがき, p.328 著者略歴)。
  29. ^ pp.7-198。短編集 2冊 Arerin(1959)/Yüz Liraya Bir Deli(1961)の翻訳原稿より16篇を集録(p.227:解説 林佳世子)。
  30. ^ pp.199-223:「アズィズ・ネスィン、半生を語る」:当時72歳のネスィンへのインタビュー記事。原文の見出しは「72歳のアズィズ・ネスィンによれば、人間は何歳になっても恋愛できる『私の恋人が望むならディスコへだって行く』」/PAZAR SOHBETİ 1987
  31. ^ 目次”. 三省堂. 2022年12月22日閲覧。
  32. ^ この2論文にて「おそらくわが国ではじめて、オスマン朝を歴代イスラーム諸王朝の「完成形態」とする考えが表明」された[71]
  33. ^ 1979年から数回の対談・鼎談を行ったが、互いの多忙により原稿の推敲・改訂が遅れ1983年刊行となる[72]
  34. ^ 座談会:シルクロードを考える(井上靖司馬遼太郎陳舜臣榎一雄樋口隆康護雅夫加藤九祚岡崎敬長沢和俊鈴木肇 司会)pp.5-137
  35. ^ 定年退官の記念に企画し、内陸アジア・西アジアの研究成果の一端をまとめる目的で39名の論文を自身で収録・編集した900頁を超える歴史学論集[38]
  36. ^ 各巻論文タイトル・著者/出版物一覧”. 内陸アジア史学会. 2022年12月22日閲覧。
  37. ^ 著者”. 山川出版社. 2023年2月12日閲覧。
  38. ^ 海軍兵学校時代から敗戦を経、北海道大学教員に任じられるまでの5年間を回想(1943年10月-1948年9月)。
  39. ^ 「三角形と蚯蚓」とは当時の兵学校校長 井上成美が三期予備学生教育修業の12月に行った訓話から。(阿川弘之 1992, pp. 513–514) にも記されている。

出典[編集]

  1. ^ 外務省報第二百八十六号(昭和八年十一月一日)/出張及留学 JACAR:B13091697400
  2. ^ 門脇願珠 / ジャパンサーチ
  3. ^ a b c d e f g h 先學を語る 2004, 略年譜.
  4. ^ 『道程:歌集』短歌新聞社〈立春叢書 第95篇〉、1990年2月。 NCID BA43781440 
  5. ^ a b c d e f 著者略歴 1997.
  6. ^ 「一心寺歴代の歩み」『寺院建立の志念-住職継承記念 長福山 一心寺』、発行者:一心寺 第十三世住職 釋星嵓。講述者:蓬茨祖運、平成二十四年十月二十一日。 
  7. ^ 護雅夫 1984a, p. 106-107.
  8. ^ 岸田達也 1997, pp. 19–20.
  9. ^ 著作目録 1997, p. 85.
  10. ^ 岸田達也 1997, pp. 21, 32.
  11. ^ 護 1996, pp. 7–8.
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  13. ^ 護 1984, p. 118.
  14. ^ 阿川弘之 1992, pp. 509, 514.
  15. ^ 護 1984, pp. 118–121.
  16. ^ 護 1984, pp. 127–128.
  17. ^ 護 1996, p. 21-28.
  18. ^ p.120:注(275) 安部健夫『十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』長谷川亮一
  19. ^ 「安部健夫博士略歴・著作目碌」『東洋史研究』第18巻第3号、東洋史研究会、1959年、455-457頁、hdl:2433/148154 
  20. ^ 護 1992, p. 14 序文.
  21. ^ 護 1984, p. 143.
  22. ^ a b c p.640:教授陣の業績、p.670:発掘調査 / 「第二編 文学部」『東京大学百年史 部局史1』、東京大学出版会、1987年、409-870頁、hdl:2261/00078984 
  23. ^ 護 1983a, p. 319 訳者あとがき.
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  33. ^ 護 1981, p. 126.
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  49. ^ 東洋文庫年報 平成元年度[1989年度]」、東洋文庫、1990年11月28日。“p.4:平成2年4月…前理事長時代に榎氏を補佐して苦労を重ねて来られた研究部長護雅夫氏と図書部長田中正俊氏の辞任を認め…” 
  50. ^ 梅村坦 1997a, p. 101.
  51. ^ 小松久男「よき先輩、リーダーとしての佐藤さん」『イスラーム地域研究ジャーナル』第4号、2012年、6-10頁“護先生は院生時代の佐藤さんの指導教官であり、早くから佐藤さんの将来を嘱望されていた。” 
  52. ^ 「知の先達たちに聞く(12)―鈴木董先生をお迎えして―」『イスラーム世界研究』第11巻、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科附属イスラーム地域研究センター、2018年3月、175頁、doi:10.14989/230459“昭和45年に法学部の大学院の修士課程に入って、文学部で開講されていた護先生のトルコ語の授業には出していただくことにしたのです” 
  53. ^ 森安孝夫 1997a, p. 436.
  54. ^ 護 1996, p. 36.
  55. ^ 私の書斎 120(護雅夫)/ 撮影:鈴木勝太郎」『中央公論』、中央公論社、1976年8月。 
  56. ^ 護 1994, p. 36.
  57. ^ 荒松雄, p. 147, 護雅夫博士追悼錄 1997.
  58. ^ 梅村坦 1997a, p. 102.
  59. ^ Arslan Kaynardağ (4 Eylül,1997:1997年9月4日). “Büyük Japon Türkoloğu Masao Mori”. Cumhuriyet Kitap 394: 19. 
  60. ^ 護 1982b, pp. 299–309.
  61. ^ 護 1982b, p. 303.
  62. ^ E.チョラシャン英語版 (1987年3月1日). “PAZAR SOHBETİ〈日曜閑話〉” (トルコ語). ヒュッリイェト紙. 2022年12月22日閲覧。
  63. ^ 護 2013, p. 229 解説 林佳世子.
  64. ^ 「学士院賞きまる」『朝日新聞』、1970年3月13日、12版、14面。「『古代トルコ民族史研究』により、突厥(トルコの遊牧民)の国家、社会の構造を解きあかした。古代チュルク系民族社会の研究にはたした役割は大きい」
  65. ^ 第60回(昭和45年5月29日)授賞一覧”. 日本学士院. 2022年12月22日閲覧。
  66. ^ 「秋の叙勲 勲三等以上および在外邦人、帰化邦人、在日外国人、外国人の受章者」『読売新聞』1991年11月3日朝刊.
  67. ^ 護 1992, pp. 15-16 序文.
  68. ^ 護 1992, pp. 641-643 跋文:佐藤次高・梅村坦・片山章雄.
  69. ^ 護 1996, p. 35 謝辞.
  70. ^ 佐藤次高, p. 148, 護雅夫博士追悼錄 1997.
  71. ^ 永田雄三 1997, p. 118.
  72. ^ 護 1983b, pp. 347-349 あとがき 長沢和俊.
  73. ^ 柳橋 博之 - CiNii Research
  74. ^ (トルコ語)1973年-1978年、トプカプ宮殿 館長 Türkiye Kaynakçası

参考文献[編集]

外部リンク[編集]