西本和人

西本 和人
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道河東郡鹿追町
生年月日 (1962-06-19) 1962年6月19日(61歳)
身長
体重
185 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1980年 ドラフト外
初出場 1981年10月4日
最終出場 1991年9月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

西本 和人(にしもと かずひと、1962年6月19日 - )は、北海道河東郡鹿追町出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

来歴・人物[編集]

東海大四高では、1年生の秋からエースとして活躍。1978年秋季北海道大会に進むが、1回戦で旭川大高に敗退。翌1979年夏の甲子園南北海道予選は決勝で札幌商に完封負け。同年の秋季北海道大会は決勝で室蘭大谷高を降し、1980年春の選抜に出場[1]。しかし1回戦で中井哲之原伸次らを擁する広陵高に9回裏サヨナラ負けを喫する[1]。同年夏は南北海道予選準決勝で札幌開成高に敗退、夏の選手権には出場できなかった。

1980年オフに、ドラフト外西武ライオンズに入団。

1年目の1981年は、後期最終戦で初登板し、セーブを記録。[2]1982年には落差のあるカーブとカミソリシュートと呼ばれる切れのあるシュートを武器に活躍。8月31日には後に200勝投手となる工藤公康がプロ初勝利した試合で先発投手を務めた[3]

しかし、同年のロッテ戦で袴田英利にそのシュートでデッドボールを当ててしまい、同じ試合で落合博満の頭部付近に投球した際に落合がバットを投げて威嚇したことがあり、その頃から内角をつく投球が自信を持って出来なくなり不遇の時期を送る。投げ方をサイド気味に変え1989年にはチームトップの37試合に登板しとして復活。しかし1990年に巨人から鹿取義隆と新人の潮崎哲也が入団し同じサイドスロー投手の活躍で西本も優勝には貢献したが出番が減少。1992年から1993年は1軍登板が無くこの年限りで退団した。退団後はプロ野球界から離れた。

元・日本ハム外野手・コーチの中島輝士(西本と同学年。対戦はなかったが先述の第52回センバツにも出場)は、週刊ベースボール誌上で「僕が『こいつのシュートはすごい』と思ったのは西本。プロ入りして間もない頃対戦したが、その切れ味に驚いたことを今でも覚えている。だから、僕は『カミソリシュートの西本』といえば西本聖さんではなく、彼を思い浮かべる」と語っており、引退した今でも評価される投手の一人である。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1981 西武 1 0 0 0 0 0 0 1 -- ---- 14 4.0 2 1 0 0 0 3 0 0 1 1 2.25 0.50
1982 24 9 1 0 0 3 5 1 -- .375 327 76.2 69 5 34 3 7 28 1 0 47 40 4.68 1.34
1983 9 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 62 14.0 12 1 9 0 0 4 0 0 11 9 5.79 1.50
1984 4 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 44 10.1 12 3 4 0 0 2 0 0 9 9 7.84 1.55
1985 7 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 44 9.2 11 2 7 1 0 1 1 0 9 9 8.38 1.86
1986 2 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 11 1.1 5 1 2 0 0 0 0 0 4 4 27.00 5.25
1988 5 2 0 0 0 0 0 0 -- ---- 42 9.1 10 2 3 1 1 2 1 0 5 3 2.89 1.39
1989 37 0 0 0 0 4 2 1 -- .667 299 76.2 61 3 29 3 1 34 1 1 19 18 2.11 1.17
1990 22 0 0 0 0 4 0 0 -- 1.000 182 41.2 45 4 14 3 1 21 0 1 19 17 3.67 1.42
1991 10 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 74 17.0 19 0 8 2 0 9 0 0 6 6 3.18 1.59
通算:10年 121 12 1 0 0 12 9 3 -- .571 1099 260.2 246 22 110 13 10 104 4 2 130 116 4.01 1.37

記録[編集]

  • 初登板・初セーブ:1981年10月4日、対ロッテオリオンズ後期13回戦(西武ライオンズ球場)、6回表から2番手で救援登板・完了、4回1失点
  • 初先発出場:1982年5月5日、対近鉄バファローズ前期4回戦(西武ライオンズ球場)、7番・一塁手で先発出場(偵察メンバー、1回表の守備から片平晋作に交代)
  • 初先発登板・初勝利:1982年5月8日、対阪急ブレーブス前期8回戦(西武ライオンズ球場)、7回2/3無失点
  • 初完投勝利:1982年5月29日、対近鉄バファローズ前期9回戦(西武ライオンズ球場)、9回2失点

背番号[編集]

  • 44 (1981年)
  • 19 (1982年 - 1986年)
  • 42 (1987年 - 1993年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 昭和55年度”. 三好野球研究所. 2011年11月3日閲覧。
  2. ^ いわゆる消化試合ではあったが、この試合での勝利によりライオンズは1967年以来のシーズン5割を達成(西武ライオンズとしては初)。先発し、西本の救援を仰いだ小野和幸は同期入団の新人(西本と同じく高校卒のドラフト外)で、初登板・初先発での勝利を記録。また、土井正博引退試合であり、根本陸夫にとってのライオンズ監督としての公式戦最終戦でもあった。
  3. ^ 【8月31日】1982年(昭57) “坊や”工藤公康 主砲がプレゼントしてくれた初勝利”. SPORTS NIPPON NEWSPAPERS. 2010年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年11月3日閲覧。

関連項目[編集]