蜂屋謙入

 
蜂屋謙入
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 文禄2年閏9月(1593年10月または11月)
改名 謙入(法号)
官位 従五位下大膳大夫
主君 織田信雄豊臣秀吉
氏族 津川氏蜂屋氏
父母 父:斯波義統
兄弟 斯波義銀謙入津川義冬、了妙尼(願得寺顕悟室)
五郎助[1]
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蜂屋 謙入(はちや けんにゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将津川氏とも称した[2]。謙入は剃髪後の法号であり、は不明。

略歴[編集]

天正12年(1584年)3月、弟の津川義冬が主君・織田信雄によって殺害された際、津川義近とともに伊勢松ヶ島城に立て籠もって信雄の軍と戦うが敗れて退城し[3]、その後豊臣秀吉に仕えた[2]

同15年(1587年)、秀吉の九州征伐に従い、7月に従五位下大膳大夫に任ぜられた[4]

天正17年(1589年)3月、聚楽第で発生した落書き事件に関連して、兄の津川義近が細川信良尾藤知宣と共に巻き込まれて一時捕縛される事件が起きているが、歴史学者の木下聡は当時の状況から実際に捕縛されたのは弟の謙入の誤りであったとしている[5]

同年3月1日、『言経卿記』の翌日の条によれば、天満本願寺で、蜂屋謙入をさす「武衛ケンユウ」[6]尾藤道休という浪人衆が住宅を壊して町に放火する騒動を起こして、武衛兄弟(義近・謙入)と願得寺顕悟夫妻と道休、女房衆らが、町人によって逮捕されるという事件が起こった。秀吉の指示を受けた奉行増田長盛石田三成が来て、道休は本願寺光佐の命令で斬首された。4日、山科言経は謙入に家具を渡すなど親しくしており、下間頼亮に成敗人の預物(財産)を隠し持っていないと誓書を出さされている。7日夜に顕悟は自害し、8日、道休の妻子と66人の町人が京都に連行されたとあるが[7]、謙入らについては記述がない。

同18年(1590年)、小田原征伐にも従軍し[8]、義近とともに北条氏政の助命を秀吉に進言するが、秀吉の機嫌を損ねて失敗した[9]

文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、西丸の警備を行った[10]

同2年(1593年)閏9月に死去し、家名は断絶した[12]

脚注[編集]

  1. ^ 阿部 1990, p. 636.
  2. ^ a b c d e f g 高柳 & 松平 1981, p. 195.
  3. ^ 武家事紀[2]
  4. ^ 御湯殿上日記[2]
  5. ^ 木下聡「斯波氏の動向と系譜」(所収:木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2
  6. ^ 斯波氏は武衛家と呼ばれていた。
  7. ^ 山科言經 著、東京大学史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 言經卿記 3』岩波書店〈大日本古記録〉、1962年、139, 190, 192頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2529560/102 国立国会図書館デジタルコレクション 
  8. ^ 『伊達家文書』[2]
  9. ^ 浅野家文書[2]
  10. ^ 太閤記[2]
  11. ^ 高柳 & 松平 1981, pp. 195–196.
  12. ^ 『駒井日記』[11]

参考文献[編集]

  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、195-196頁。 
  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、636頁。ISBN 4404017529