藤井康雄

藤井 康雄
アスミビルダーズ コーチ
オリックス・バファローズ二軍打撃コーチ時代
(2019年、ヤクルト戸田球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県福山市
生年月日 (1962-07-07) 1962年7月7日(61歳)
身長
体重
181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1986年 ドラフト4位
初出場 1987年4月10日
最終出場 2002年10月13日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

藤井 康雄(ふじい やすお、1962年7月7日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手外野手内野手)、プロ野球コーチ野球解説者

オリックス・ブルーウェーブの現役選手時代には、「ミスター・ブルーウェーブ[1]」、「ヤスオさん」の愛称で親しまれた[2]2002年限りで現役を引退してからは、プロ野球や高校野球、社会人野球などで指導者を務める。

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

福山市で生まれ育ち、『巨人の星』に惹かれて小学校2年生で野球を始め、当時は三塁手を務めていた[3][4]。この頃から将来はプロ野球選手になることしか頭になく[5]、同じ左打ちの王貞治に憧れていた[4]福山市立鷹取中学校では投手外野手を兼任し、打球がライト側の校舎を越えるほどの長打力があったという[3]野球留学で進んだ泉州高等学校でもポジションは変わらず、長打力を評価されていた一方で変化球が苦手だった[3]

甲子園出場はならなかったが知人の勧めでプリンスホテルに入社し、プロ入りした石毛宏典の後任として遊撃手へのコンバートが検討されたものの、数日でこの案が却下されて一塁手となっている[3]。同部が高校生の有力選手獲得に方針を転換した時期で同期には中島輝士のほかに川村一明高山郁夫など甲子園で注目され、ドラフト指名される逸材が揃っていた。当初はメンバー入りもならなかったが、石山建一が監督に復帰すると、その指導を受けて全日本代表の4番を務めた事もある[6]。また20代前半で肩を故障して半年ほど野球ができなくなり、歯がゆい思いをしたという[7]

1983年から4年連続で都市対抗野球大会に出場。

1985年からは四番打者として起用される。

1986年都市対抗では準々決勝に進むがNTT北陸に敗退。この大会の2回戦では熊谷組から1試合2本塁打を放つ[8]。この時のチームメイトには同期の中島のほかにプロでも同僚となる小川博文らがいた。

社会人野球No.1の強肩とベース1周14秒5の俊足を評価され[3]1986年のドラフト会議阪急ブレーブスから入札の外れ4位指名を受けた。東京に6年間いた事もあって在京球団を希望していたが、「与えられた環境で頑張ることが大事ではないか」という母の助言もあって入団を決めたという[9]。担当スカウトは三輪田勝利で、契約金と年俸それぞれ4,300万円、450万円(いずれも推定)で契約を結んでいる[10]。全日本代表のメンバーで同時入団した山越吉洋(86年2位)、本西厚博(85年4位、翌年入団)と共に「全日本トリオ」と呼ばれた。

阪急・オリックス時代[編集]

1987年キャンプから打球の飛距離はレギュラー陣にも引けを取らず、監督の上田利治に積極的に起用されて同年は77試合に出場した[3]。一方で、金属バットから木製バットに変わった事で、感触の違いや頻繁に折れる事に悩んだ[11]。オフには結婚式を挙げ、上田から「細く長く、頑張れ」と言われて気持ちに余裕ができた事を後年までよく覚えていたという[3]

1988年は5月下旬にブーマー・ウェルズが左ヒザ関節炎で帰国し、代わりに一塁手を任されると打撃面で好成績を残し、5月28日の対南海戦では初の四番を任されている[3]。また、同年はジュニアオールスターゲームで決勝ホームランを放ち、MVPと賞金100万円を獲得した[12]。ブーマーの復帰後は右翼手のレギュラーとなり、規定打席には達しなかったもののシーズンで20本塁打を記録した[3]

1989年は開幕から前年の簑田浩二が移籍以来不在だった右翼手のレギュラーとなり[9]ブルーサンダー打線の一角を占めた。7月には自身初のオールスターゲームに出場し、斎藤雅樹から2点本塁打を放って優秀選手に選ばれている[13][14]。シーズン通算では打率.292、30本塁打、90打点の成績で、初のベストナインに選出された。

1990年は5月に打率.363、6本塁打、18打点の成績で初の月間MVPを受賞し[15]、自己最多の37本塁打、96打点をマークしている。

1991年は5月3日の対日本ハム戦でサヨナラ2点本塁打を放ち、自身にとってプロでの本塁打の中で最も記憶に残っているという[16]。しかし5月の守備練習中にフェンスに激突してむち打ち症となり、左腕が痺れて首が動かなくなった[17]。身体のバランスが崩れたことで本来のバッティングフォームが損なわれ、同年は打率が.222に大きく低下した[17]

1992年は出場試合数が20試合に激減している[16]。同年オフの契約更改では1,000万円減の年俸4,000万円(推定)となっている[18]

試合に出られない期間は辛抱強く治療とトレーニングに取り組み、また家族と接する機会が増えたため自分を見つめなおすことができたという[6]

1993年は序盤の打率が1割台から2割台の間で低迷していたが、5月18日の対ロッテ戦で3本塁打7打点を挙げ[19]、7月には打率.324、4本塁打、12打点で2度目の月間MVPを受賞している[15]。同年はチームトップの28本塁打、86打点の成績で2度目のベストナインに選出され、パ・リーグ特別表彰で努力賞を受賞している[20]。また、11月のパ・リーグ東西対抗では決勝3ランホームランを放ってMVPを獲得している[21]。オフの契約更改では4,000万円増の年俸8,000万円(推定)となっている[22]

1994年はブレイクしたイチローが右翼手を務めることも多く、柴原実キャブレラとともに右翼手や一塁手として起用された。

1995年阪神・淡路大震災の影響が強く残る中でリーグ優勝を果たし、優勝の決まった試合でウィニングボールを捕球した事とともに非常に印象に残っているという[17]同年の日本シリーズでは第3戦から第5戦まで5番・右翼手としてスタメンで出場している[23]

1996年も規定打席には達しなかったが3年ぶりの20本塁打を記録し、日本シリーズでは第4戦以外は先発出場して[24]チームも日本一になっている。

1997年は打率、本塁打、打点ともに前年を下回り、取得したFA権の行使についても球団からドライな態度を示され、野球協約の限度を超える40%(3,000万円)減の年俸4,800万円で契約を更改している[25]

1998年は打撃コーチの新井宏昌の助言でバットを950グラムから約920グラムに軽量化して重心も先よりにしたところ、ヘッドスピードが速くなったという[26]。飛距離が伸びた事でシーズン終盤まで本塁打王を激しく争い[26]、最終的にはトップのナイジェル・ウィルソンと3本差の30本塁打を記録している。当時は仰木マジックと呼ばれる采配で起用方法が毎日のように替わっていたが、打順などが固定された方がやりやすいと感じていたという[27]

2001年9月30日の対ロッテ戦で、小林雅英からパ・リーグ新記録となる通算14本目の満塁本塁打[28]、且つ日本プロ野球史上唯一の二死・3点差からの代打逆転サヨナラ満塁本塁打[注釈 1]を放つなど、出場は88試合ながらチームの日本人トップとなる15本塁打を放っている[29]。しかし打率は初めて1割台となり、契約更改では2,000万円減の年俸3,000万円(推定)となった[29]

2002年はNPBの現役最年長野手の一人となった[30]。その数年前から「40歳を過ぎても現役続行」を意識しており[31]、7月7日に目標は達成された。新監督の石毛宏典からは確実性を上げることを目標にキャンプで打撃を大きく矯正された[30]が、かえって打撃を崩す一因となった[32]。同年で現役を引退を決め、「まだまだやれる気はするが以前よりもファンの期待に応えられなくなった自分が許せなくなった」とその折に語った。10月13日の対近鉄戦(神戸)で引退試合が行われた[33]始球式では14歳だった長男と対戦し、試合後には引退セレモニーが行われた[34]。これにより、阪急時代からオリックスに所属した選手は一人もいなくなった[35]

現役引退後[編集]

2003年から2006年まで、サーパス神戸(当時のオリックス二軍)で打撃コーチを担当。オリックス監督時代の仰木の背番号(72)を、自身の希望で着けていた[36]

2007年から編成部へ異動。スカウティングを初めて担当した小瀬浩之近畿大学)や、アメリカで視察したジョン・レスター (右投手) などを入団に導いた[37]

2009年から、二軍打撃コーチとして現場に復帰。新人時代に指導していたT-岡田に「すり足打法」を体得させたところ、T-岡田はこの年のウエスタン・リーグ公式戦で21本塁打を放った[38]

2010年には、編成部のアマスカウトとして中・四国地区を担当。コーチを続けたかった藤井にとっては「スカウトへの異動を命じられたことが不本意だった」とのことで、自身と同学年の秋山幸二が一軍監督を務めていた福岡ソフトバンクホークスからシーズン中の9月に打撃コーチへの就任を打診されると、シーズンの終了後にオリックスを退団した[39]

2011年からソフトバンクの一軍打撃コーチに就任すると、オリックスのアマスカウト時代に獲得を検討していた柳田悠岐[39]を主力打者に育てながら、同年・2014年2015年のパ・リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献。

2017年に二軍打撃コーチへ異動した[40]が、シーズン終了後に退団した[41]

2018年から、一軍打撃コーチとしてオリックス・バファローズへ復帰[42]

2019年に二軍打撃コーチを務めたが、同年限りで再び退団した[43]

オリックスを再び退団してからは、共栄組(神戸市に本社を置く総合建設会社)に勤務する[44]かたわら、神戸中央リトルシニア(中学生向けの硬式野球チーム)のコーチとして活動していた。さらに、学生野球資格回復研修制度を通じて、2020年2月7日付で資格回復の適性を日本学生野球協会から認定[45][注釈 2]。同協会に加盟する大学・高校の野球部での指導が可能になったため、同年6月1日から関西創価高等学校で硬式野球部のコーチを務めた[46]。その一方で、野球解説者として、J SPORTSのオリックス主管試合中継に出演。朝日放送ラジオ(ABC)MBSラジオがオリックス対ソフトバンク戦(関西圏でのオリックス主催試合)や京セラドーム大阪で開催のソフトバンク主催試合の中継をRKB毎日放送(ソフトバンクの地元局)への裏送り方式向けに制作する場合にも、ABC制作分では2020年9月、MBS制作分では2021年6月から解説を随時担当していた。

2021年11月16日付で、阪神タイガースの一・二軍巡回打撃コーチとしてNPBに復帰[47]。阪神が「巡回打撃コーチ」という役職を設けること[48]や、藤井がセントラル・リーグの加盟球団に所属することは初めてで、同月の秋季練習から指導を始めた。2022年シーズン中の8月23日から一軍打撃コーチへ異動していた[49]が、このシーズン限りで退団した[50]

2023年からは、社会人野球チームのアスミビルダーズでコーチを務めている[51][52]。その傍らJ SPORTSの野球解説者に復帰する。

選手としての特徴[編集]

現役通算282本塁打を記録した強打者だが、「あくまでヒットの延長上にホームランがあり、自分のスイングができれば自然と飛距離は伸びた」という[32]。また、安打に対する本塁打の比率が非常に高いという特徴があった(実際、通算のIsoPは0.235になる)[53]。通算満塁本塁打14本は中村剛也(22本。2021年シーズン終了現在)・王貞治(15本)に次ぐ3位である[注釈 3]。また代打満塁本塁打は、通算4本、シーズン3本(2001年)のいずれも、日本プロ野球記録である[1]。選球眼にも長け、四球が非常に多い。特に1999年には規定打席未満ながら四死球は78を数えるなど出塁率.390を記録。通算の出塁率は打率よりも.101高い。

対戦した中で最もすごさを感じた投手として、速球スライダーのキレが抜群だった松坂大輔と、フォークボールが一度浮き上がってから急激に落下するように見えた野茂英雄の2人の名を挙げている[17]。プロ入り直後は渡辺久信郭泰源の投球に衝撃を受け[27]、また若い頃は打席で目が合うと笑ってくる牛島和彦が苦手だったが、闘志をむき出しにしてくる小野和義のようなタイプとは相性が良かったという[11]西崎幸広からは満塁打を3本打っており、これは自身最多である[1]

コーチとしての指導方針[編集]

オリックスの二軍打撃コーチへ復帰していた時期には、復帰するまで伸び悩んでいたT-岡田をブレイクに導いた一方で、自身の指導方針が合わないまま退団した選手もいたという。このような事態への疑問や反省から、コーチを退任した後に「4スタンス理論」(身体の使い方に関して廣戸総一が提唱する理論)を研究。ソフトバンク以降のチームでは、研究の成果を踏まえて、4スタンス理論での分類(身体の使い方のタイプ)に沿った打撃指導を心掛けている[55]

オリックスを再び退団した2019年末から中・高校生を指導していたことについては、「60歳の目前から子どもを教え始めたことで、自分の指導力が細かく磨かれているような感じはある」と述べる一方で、「この成果をもう1回プロ(NPB)で生かしたいから、『常にスタンバイ』という気分でいる。オリックスのコーチに戻ることが一番良さそうが、自分の指導力を試すためなら、どの球団に呼ばれても良い」という表現でNPBへの復帰に意欲を見せていた[44]。ちなみに、2021年のシーズン終了後に阪神の巡回打撃コーチとしてNPBへ復帰できた背景には、一軍監督の矢野燿大が「4スタンス理論」のトレーナー資格を保有していることなどが挙げられている[56]。もっとも、矢野は2022年シーズン限りで監督職を退任する意向を春季キャンプの前日(1月31日)から示していたため、実際にはこのシーズンの終了後に矢野と揃って阪神を退団している。

人物[編集]

プロ入り前に6年間勤務していたプリンスホテルでは、社会人野球のオフシーズンを中心に、ホテルの業務にも従事。入社1・2年目に客室のベッドメーキングへ携わったほか、3年目以降は宴会や結婚披露宴のスタッフを務めていた。関連会社でもある西武ライオンズの優勝祝賀会が開かれた際には、駐車場を出入りする自動車を誘導していたという。

オリックスの選手時代はファンサービスに熱心[1]で、ファンからサインを求められた際には、時間や事情の許せる限り応じていた[57]

毎日放送アナウンサーの松本麻衣子は、神戸市内で生活していた小学生時代に、当時オリックスの看板選手だった藤井のファンクラブへ入っていた。「藤井の顔立ちと、本塁打の軌道の美しさに魅せられた」とのことで、松本一家が藤井の自宅の近所に住んでいたこともあって、当時からお互いに面識があったという。

福山市内にある実家では、両親がカラオケ喫茶店を営んでいる[58]。藤井本人も「目指せ!根本要スターダストレビューのボーカル)」と称されたほどの美声の持ち主[59]で、オリックスの看板選手だった1999年には、『…洋子'99』など3曲を収録したCDアルバムをブルースターレコードからリリース[60]。収録では、当時のチームメイトから大島公一谷佳知がコーラスへ参加していた[60]。この曲のプロデューサーだった尾崎和行(2011年10月16日に52歳で逝去)との縁は深く、プリンスホテルへ勤務していた1985年第16回世界歌謡祭日本武道館で観覧していたところ、当時尾崎が率いていたグループ(尾崎和行&コースタルシティ)がグランプリを受賞。オリックスブルーウェーブへの在籍中には、グリーンスタジアム神戸(当時の本拠地)のオーロラビジョンで流れていた神戸新聞のCMにコースタルシティ解散後の尾崎のソロ曲が使われていたことがきっかけで、知り合いの音楽関係者を介して尾崎との交流を始めていた。ちなみに、『…洋子'99』は『…洋子』(第16回世界歌謡祭グランプリ受賞曲)のカバーバージョンである[59]

オリックス選手時代の1995年1月16日に、大阪市内で開かれた泉州高校硬式野球部のOB会の総会へ出席。酒を全く飲めないにもかかわらず、終夜営業のファミリーレストランで同窓生と明け方まで旧交を温めた後に、自家用車で同窓生を自宅まで送り届けてから阪神高速3号神戸線を移動した。当時はワールドウィング(鳥取市のトレーニング施設)での自主トレーニング期間中であったため、当初は神戸市内北部の自宅へ立ち寄ってから、ワールドウィングへ戻ることを予定していた。ところが、神戸線では自宅に最も近い月見山出入口(神戸市須磨区)を降りたところで、同月17日の午前5時46分に阪神・淡路大震災へ遭遇。遭遇してからも自宅まで運転を続けたが、舗装が十分なはずの道を運転していながら、道にハンドルを取られるような感覚に陥っていたという。実際には自宅や在宅中の家族に大きな被害はなかったものの、自宅が発災の直後から数日にわたって断続的に停電。断水にも見舞われたことから、春季キャンプ地の宮古島(沖縄県)へ出発するまでは、家族ぐるみで上記の実家への避難を余儀なくされていた。本人は引退後に、「神戸線の通過が10分遅れていたら、(神戸市東灘区の深江出入口付近で発生した)高架橋脚の倒壊に巻き込まれていたかも知れない」とも語っている[61]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1987 阪急
オリックス
77 111 96 11 27 6 0 2 39 13 1 0 0 2 12 1 1 16 2 .281 .360 .406 .767
1988 111 348 311 42 89 13 4 20 170 62 1 3 2 0 34 1 1 51 5 .286 .356 .547 .903
1989 121 498 432 66 126 27 3 30 249 90 3 5 2 6 54 4 4 72 10 .292 .371 .576 .947
1990 128 544 463 81 132 25 2 37 272 96 6 4 0 6 68 4 7 109 6 .285 .381 .587 .968
1991 121 468 401 49 89 19 0 21 171 57 0 0 0 2 64 4 1 92 4 .222 .329 .426 .755
1992 20 73 67 3 18 5 0 0 23 8 0 0 0 1 5 0 0 9 2 .269 .315 .343 .658
1993 129 548 463 62 116 23 1 28 225 86 2 3 0 7 77 2 1 118 13 .251 .354 .486 .840
1994 117 414 355 52 87 17 3 13 149 46 2 2 0 2 56 2 1 86 4 .245 .348 .420 .768
1995 116 403 334 50 79 14 1 14 137 49 0 1 0 3 65 7 1 82 8 .237 .360 .410 .770
1996 109 361 310 44 85 18 0 20 163 61 1 4 0 4 47 2 0 73 6 .274 .366 .526 .891
1997 98 294 254 36 61 8 2 18 127 57 1 1 0 3 36 2 1 84 4 .240 .333 .500 .833
1998 126 491 400 65 100 22 3 30 218 80 2 1 0 4 85 4 2 127 2 .250 .381 .545 .926
1999 115 403 323 39 79 17 0 15 141 51 0 2 0 2 74 2 4 92 1 .245 .390 .437 .826
2000 112 325 280 36 64 15 2 18 137 54 0 0 0 6 36 2 2 62 2 .229 .315 .489 .804
2001 88 213 189 23 37 6 0 15 88 45 1 0 0 4 19 0 1 43 5 .196 .268 .466 .733
2002 53 122 109 2 18 4 0 1 25 6 0 1 0 1 10 0 2 36 3 .165 .246 .229 .475
通算:16年 1641 5616 4787 661 1207 239 21 282 2334 861 20 27 4 53 742 37 29 1152 77 .252 .353 .488 .840
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 代打逆転サヨナラ満塁本塁打:2001年9月30日、対千葉ロッテマリーンズ27回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回裏に小林雅英から ※史上7人目
  • 代打の代打で満塁本塁打:2001年8月1日、対日本ハムファイターズ戦 ※NPB史上7人目[62]
  • オールスターゲーム出場:1回(1989年)

背番号[編集]

  • 38(1987年 - 1988年)
  • 10(1989年 - 1992年)
  • 8(1993年 - 2002年)
  • 72(2003年 - 2006年、2009年)
  • 71(2011年 - 2019年)
  • 81(2021年 - 2022年)

関連情報[編集]

出演[編集]

映画[編集]

ラジオ[編集]

いずれも、現役からの引退後で、NPBの現場から離れている期間に出演。

連載[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この4日前には近鉄北川博敏代打逆転優勝決定サヨナラ満塁本塁打を放っており、3点差からの満塁本塁打による逆転=「お釣りなし」は共通しているが、そちらは無死から。
  2. ^ 2022年から阪神のコーチとしてプロ野球に復帰したことに伴って、2021年11月21日付で資格をいったん喪失したが、阪神退団後の2022年12月21日付で資格を再び回復。
  3. ^ 引退した2002年時点では、1本差で王に次ぐ2位であった[54]
  4. ^ 朝日放送ラジオ・MBSラジオが並列でJRNTBSラジオがキー局)とNRNニッポン放送文化放送が共同でキー局)の双方に加盟していることから、曜日や時間帯によりRKBラジオ(JRN単独加盟)・KBCラジオ(NRN単独加盟)との間のネットワークが入れ替わる。なお、TBSラジオが2018年以降プロ野球中継の全国配信から撤退し、横浜DeNAベイスターズ主催試合のビジター地元局からの制作受託のみに縮小しているため、RKBラジオも対戦カード・曜日・時間帯によりニッポン放送・文化放送と個別にネットを組むことがある。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 『週刊プロ野球データファイル』2011年30号、ベースボール・マガジン社、P.11-P.12
  2. ^ 『週刊ベースボール』、2002年12月16日号、P.71
  3. ^ a b c d e f g h i 「野球浪漫 にんげんドキュメント 50回 藤井康雄[オリックス] 浮浪雲のように。 『細く長く、頑張れ』。」『週刊ベースボール』、2002年3月25日号、P.40
  4. ^ a b 「第二の人生で一五本目の満塁本塁打めざす。」『潮』、2003年1月号、P.261
  5. ^ 「HUMAN SKETCH 6回 この人のテーマは無限の可能性に挑戦 」『週刊ベースボール』、1989年12月25日号、P.122
  6. ^ a b 『潮』、2003年1月号、P.265
  7. ^ 『読売新聞』、2002年11月18日付朝刊、大阪本社版、大阪地方面、P.33
  8. ^ - 都市対抗野球大会60年史
  9. ^ a b 『潮』、2003年1月号、P.262
  10. ^ 『読売新聞』、1986年12月12日付朝刊、P.17
  11. ^ a b 『週刊ベースボール』、1989年12月25日号、P.123
  12. ^ 『読売新聞』、1988年7月23日付朝刊、P.19
  13. ^ 『読売新聞』、1989年7月26日付朝刊、P.19
  14. ^ 日本野球機構 1989年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第1戦)
  15. ^ a b パ・リーグ BLUE BOOK 月間MVP賞
  16. ^ a b 『潮』、2003年1月号、P.263
  17. ^ a b c d 『潮』、2003年1月号、P.264
  18. ^ 『毎日新聞』、1992年12月23日付朝刊、P.21
  19. ^ 『毎日新聞』、1993年5月19日付朝刊、P.17
  20. ^ パ・リーグ BLUE BOOK 特別表彰
  21. ^ 『毎日新聞』、1993年11月8日付朝刊、P.16
  22. ^ 『朝日新聞』、1993年12月25日付朝刊、P.21
  23. ^ 日本野球機構 1995年度日本シリーズ 試合結果
  24. ^ 日本野球機構 1996年度日本シリーズ 試合結果
  25. ^ 「FA選手が迎えるそれぞれの秋」『週刊ベースボール』、1998年11月号、P.30
  26. ^ a b 『読売新聞』、1998年9月17日付夕刊、大阪本社版、P.3
  27. ^ a b 「ベテラン 勝利への存在感 藤井康雄 『現役である限り、ベタランという意識はない』」『週刊ベースボール』2000年6月5日号、P.12
  28. ^ 『週刊ベースボール』2012年6月11日号、P.73
  29. ^ a b 週刊ベースボール』、2002年3月25日号、P.39
  30. ^ a b 週刊ベースボール』、2002年3月25日号、P.41
  31. ^ 2000年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
  32. ^ a b 『週刊ベースボール』、2002年12月16日号、P.72
  33. ^ 【藤井康雄連載コラム】16年間プレーし40歳で引退 使ってくれた仰木さんらに感謝 – 東京スポーツ新聞社”. 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社. 2021年4月14日閲覧。
  34. ^ 『潮』、2003年1月号、P.260
  35. ^ 『朝日新聞』、2002年9月26日付朝刊、P.17
  36. ^ 「惜別球人 6回 藤井康雄[オリックス] 『たくさんの人に知ってもらえ、たくさんのファンに愛された』」『週刊ベースボール』、2002年12月16日号、P.74
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]