葛西宗清

葛西 宗清(かさい むねきよ)

  1. 葛西氏5代或いは6代当主。本項以下にて詳述。
  2. 葛西氏13代当主とされる。葛西政信と対立。本項以下にて詳述。

5代(6代)

 
葛西宗清
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代前期
生誕 不詳
死没 不詳
氏族 葛西氏
父母 父:葛西清経(または葛西時清か)
葛西貞清
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葛西 宗清(かさい むねきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期の武将。葛西氏の当主。葛西 清宗(かさい きよむね)とも呼ばれる[1]

「仙台葛西系図」では時清の孫で、清経の子とされるが[2]、「盛岡葛西系図」の清信と同一人物であるとすれば、時清の息子となる。息子に貞清(清貞、清定とも)[1][3][2]

葛西清重の息子とされることもあるが[4]、代数的な矛盾が生じるほか、今野慶信が紺戸淳の論考[5]に基づいて、「宗」が北条時宗に由来することや、息子の貞清の「貞」が北条貞時から受けたとする見解を示している[6]ことから、恐らくは誤りとみられる。

建武2年(1335年)、北畠顕家の遠征軍に貞清とともに従軍した[1]


13代

 
葛西宗清
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 七郎(通称)
官位 従四位上武蔵守
氏族 伊達氏葛西氏
父母 父:伊達成宗、養父:葛西満重
兄弟 伊達尚宗宗清
稗貫晴家(次男、稗貫稙重養子)、女子(中村玄角[7]
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葛西 宗清(かさい むねきよ)は、戦国時代陸奥国戦国大名

伊達成宗の次男として生まれる。葛西満重の養子となって石巻城主となった。一説には宗清が葛西家の第13代当主とも言われており、そのために当主の座をめぐって葛西政信と抗争を続けた。永正8年(1511年)には桃生郡に侵攻して山内首藤貞通を破るなどして勢威を拡大した。子がいたかは不明だが、次男の晴家は稗貫氏を継いだとされる。

没年は不明であるが、第14代当主に政信の三男・晴重がなっていることを考えると、政信との抗争には敗れたものと思われる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 「葛西清貞」『朝日日本歴史人物事典』
  2. ^ a b 「仙台葛西系図」
  3. ^ 「盛岡葛西系図」
  4. ^ 福田以久生 著「葛西清貞」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、121頁。 
  5. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。 
  6. ^ 今野慶信 著「鎌倉御家人葛西氏について」、入間田宣夫 編『葛西氏の研究』名著出版社〈第二期関東武士研究叢書3〉、1998年。 
  7. ^ 野州中村神社縁起 P29(中村神社文書編纂委員會、中村神社顕彰會、ISBN-4815031096)

関連項目[編集]