若槻禮次郎

若槻わかつき 礼次郎れいじろう
若槻 禮次󠄁郞
礼装である大礼服を着用した若槻礼次郎
生年月日 1866年3月21日
慶応2年2月5日
出生地 日本の旗 日本 出雲国松江雑賀町
(現・島根県松江市雑賀町)
没年月日 (1949-11-20) 1949年11月20日(83歳没)
死没地 日本の旗 日本 静岡県伊東市
出身校 帝国大学法科大学(現・東京大学
前職 大蔵次官
所属政党立憲同志会→)
憲政会→)
立憲民政党
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
勲一等旭日大綬章
男爵
法学士(帝国大学・1892年
配偶者 若槻徳子(従妹)
子女 若槻有格(長男)
田原繁子(長女)
親族 若槻敬(養父)
奥村譲(兄)
サイン

日本の旗 第25・28代 内閣総理大臣
内閣 第1次若槻内閣
第2次若槻内閣
在任期間 1926年大正15年)1月30日[1] - 1927年昭和2年)4月20日
1931年4月14日 - 1931年12月13日
天皇 大正天皇
昭和天皇

日本の旗 第4代 拓務大臣(総理兼任)
内閣 第2次若槻内閣
在任期間 1931年9月10日 - 1931年12月13日

内閣 加藤高明内閣
在任期間 1926年1月28日 - 1926年1月30日

日本の旗 第36代 内務大臣
内閣 加藤高明内閣
第1次若槻内閣(総理兼任)
在任期間 1924年6月11日 - 1926年6月3日

日本の旗 第15・17代 大蔵大臣
内閣 第3次桂内閣
第2次大隈内閣
在任期間 1912年12月21日 - 1913年2月20日
1914年4月16日 - 1915年8月10日

その他の職歴
日本の旗 貴族院議員
1911年8月24日 - 1947年5月2日
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若槻 礼次郎(わかつき れいじろう、旧字体若槻 禮次󠄁郞1866年3月21日慶応2年2月5日〉- 1949年昭和24年〉11月20日)は、日本大蔵官僚政治家栄典正二位勲一等男爵。旧姓は奥村幼名源之丞克堂

貴族院議員、大蔵大臣(第1820代)、内務大臣(第4142代)、内閣総理大臣(第2528代)、拓務大臣第4代)を歴任した。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

松江藩の下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男として生まれる。

実母・クラは禮次郎が3歳のころに急死した。このころ、長男の譲は、父・仙三郎とともに藩命で京都に近い淀川沿いの山崎で勤務をしていたので、奥村家では11歳のイワが3歳の礼次郎の世話をしながら内職をし、かつ留守番を務めた[2]

奥村家は足軽の中でも格式の低い家で、雑賀町の中心部に家を構えることもできず、場末ともいうべき外れの方の借家に住んでいたが、礼次郎が生まれてから間もなく父・仙三郎は西田中という所に小さな家を新築した[2]

奥村家は極めて貧乏だったため、内職のようなことをして、ようやく生活していた。幼少のころはまだ帯刀であり、礼次郎は木刀一本を腰に差して寺子屋に通った[注釈 1]

小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後にやめて教員伝習校内変則中学科(現・島根県立松江北高等学校)に入る。しかし家が貧乏で学資が続かず、在学8ヵ月か9ヵ月で中学を辞め、しばらくは山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをした。

16歳のころから3年ほど、小学校代用教員をする。明治15年(1883年)、陸軍士官学校の生徒募集があった。官費で学資がいらないということから受験したが、体格検査で不合格となる。

その翌年、司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り飛び立つ思いであったが、上京する費用がなかったので、能義郡長をしていた叔父・若槻敬に相談し、30円の金を借りて、明治16年(1884年)7月ごろ、数えで19の年に松江を出た[3]

学生時代[編集]

東京では大学予備門に通っていた岸清一(のち法学博士)の下宿へ転がり込んだ。岸とは血のつながりはないが、近い親戚であった[4]。やがて狭い下宿を見つけて、そこへ移った。

司法省法学校の入学試験は『論語』『孟子』の解釈と、『資治通鑑』の白文訓点の2課目だった。礼次郎は定員50名に対して受験者約1,500名という狭き門を突破して同校予科へ進学した。織田萬などが同期の入学であった。在学中に前述の叔父・若槻敬の養子となり、若槻姓となる。

明治25年(1892年)7月、帝国大学法科を98点5分という驚異的な成績を残し、首席で卒業した。同期に、後に司法大臣鉄道大臣を歴任した政党政治家・小川平吉、数期にわたり内務大臣を務めた官僚政治家・水野錬太郎常設国際司法裁判所所長・安達峰一郎らがいる。若槻は、法学校でも帝国大学でも常に首席であった。荒井賢太郎安達峰一郎とが彼の次席を争っていた。

大蔵省時代[編集]

若槻は大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。この間、帝大時代の師である同郷の梅謙次郎のもとで、和仏法律学校法政大学民法租税法講師を務め、政界入り後も理事や顧問に就任している[5]大正元年(1912年)、第3次桂内閣大蔵大臣、大正3年(1914年)から同4年(1915年)まで第2次大隈内閣で再度大蔵大臣を務めた。大正5年(1916年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924年)、加藤内閣内務大臣となり、翌年、普通選挙法治安維持法を成立させる。

第1次若槻内閣[編集]

憲政会の会合にて

加藤高明が首相在職中に死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣する。この第1次内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。

大正15年(1926年)12月25日に大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和改元された。明けて昭和2年(1927年)1月、少数与党で臨んだ第52回帝国議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件」に関して、野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は立憲政友会総裁・田中義一政友本党総裁・床次竹二郎待合に招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書にして3人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、予算案成立と引き換えに若槻内閣は退陣し、憲政の常道に基づき野党政友会が組閣の大命を受けるよう取り計らうことを意味する。これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった。

また帝国議会終盤の3月14日、衆議院予算委員会で大蔵大臣・片岡直温は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」と発言する。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまう。これにより昭和金融恐慌が勃発した。

大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行や成金たちは、ここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に台湾銀行は成金企業の鈴木商店と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。

若槻内閣は日銀に特融を実施させて経済的混乱の収拾を図るために、台湾銀行救済緊急勅令案の発布を諮るが、枢密院は、本来帝国議会で救済法案を可決して対応すべきところ、勅令による手続きは憲法違反であるとして否決してしまう。政策実行不能と考えた若槻は4月20日に内閣総辞職し、政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる。

第2次若槻内閣[編集]

政治家時代の若槻

次に若槻が内閣を組織するのは昭和6年(1931年)4月のことである。憲政会はそのとき立憲民政党となっていた。世界大恐慌と濱口内閣の緊縮政策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙(満州モンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は蔣介石北伐の完成により条約上の危機に瀕していた(中華民国蔣介石政府は1928年7月19日に日清通商航海条約の一方的破棄を宣言しており、日本政府はその無効を主張していた。さらに懲弁国賊条例[注釈 2]により間島や満州各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要され、あるいは迫害されていた)。9月18日には柳条湖事件を契機とした満州事変が発生し、若槻の不拡大方針は国民、軍部への指導力を発揮することができず、ついには内務大臣・安達謙蔵が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で12月には閣内不一致による総辞職となった。

重臣時代・戦後[編集]

その後、若槻は首相経験者の立場で政治に参画し、重臣会議のメンバーにもなった。重臣グループでは岡田啓介とともに和平派・穏健派の中心人物であり、昭和天皇からの信任もきわめて厚かった。昭和10年代前半に次期内大臣という声があったが、民政党の色が強いということで実現しなかった。

昭和16年(1941年)には、東條英機を次期首相として奏薦した重臣会議において、宇垣一成を次期首相に推し、論争を繰り広げている。戦争末期には重臣の一人として終戦工作に関与した。昭和19年(1944年)には、重臣会議に出席した東條を戦時経済遂行の面で激しく論難、東條の面目を失墜させ、東條内閣倒閣に重要な役割を果たした。昭和20年(1945年)に入ってからは鈴木貫太郎内閣の奏薦やポツダム宣言受諾などに大きく関わった。

戦後、東京裁判の首席検察官を務めたジョセフ・キーナンは昭和23年(1948年)10月に若槻、岡田、宇垣、米内光政の4人を「戦前を代表する平和主義者」と称え、パーティーに招待している。

若槻は、それから約1年後の昭和24年(1949年)11月20日、狭心症で倒れ、静岡県伊東市の別邸に於いて死去。享年83(満)。なお、この別邸は現在日帰り温泉施設の伊東わかつき別邸となっている。墓所は染井霊園

人物[編集]

  • 若槻は事務能力に秀でた政治家であった。矢田挿雲は「私生活の話のうちに、毎晩12時頃帰宅して熱燗を一本傾けながら百本以上の私信を処理し『我が妻よ、御身もし余を愛するならば、余に話しかけて余の仕事を妨ぐる勿れ』と箝口令を発布する由が出て居た。…非常に事務的な正覚坊と謂ひ得る」[6]と書いている。
  • 1926年2月14日に若槻は西園寺公望を訪問したが、面会後の西園寺の感想について松本剛吉の記録によると、「彼の男は桂の次官をした男故、妥協で議会を切り抜ける位は上手だろうが、後は言わぬ方が宜しいだろうと言われたり」、松本は西園寺の話は若槻が首相の器に非ずと解釈した[7]。稀に見る能吏で見識も高いが、理想の為に物事を粘り強く成し遂げる腕力や胆力に欠ける、という評価が若槻には常に付いて回った。
  • 息子の有格雑誌『民政』の記者に父について「今日は平生より可成り酔ってゐるやうだな、と思って時に何か緊急な用事……先づ政治上の用向なんぞが出来ますと、今まで酔って居たのが拭き取ってゞも了(しま)ったやうに、しらふに成って了って態度も言葉も又容貌も、丸で一滴も飲まない時に返って其用件を片付けます。然うしてその用が済むと又面上に酔が浮かんで陶然とした容子(ようす)になるのです」と語っている[8]

年譜[編集]

ソフト帽外套を着用
自身の肖像画の前で

栄典・授章・授賞[編集]

位階
勲章など
外国勲章佩用允許

著作[編集]

  • 『勤倹奨励に就て』教化団体聯合会〈教化資料 第5輯〉、1924年9月。 NCID BA65034486全国書誌番号:43031782 
  • 『余沢集』若槻礼次郎、1926年6月。 NCID BA78921783全国書誌番号:43041358 全国書誌番号:52009220 
  • 『国民に訴ふ』改造社、1927年3月。 NCID BN15505946全国書誌番号:44010361 
  • 『朝見式の勅語を拝して所感を述ぶ』日本放送協会関東支部、1927年2月。全国書誌番号:44025644 
  • 『憲政会内閣の政策』憲政宣伝社〈憲政政策叢書〉、1927年2月。全国書誌番号:44021351 
  • 『ロンドン会議の真相 若槻全権報告演説』朝日新聞社〈朝日民衆講座 第19輯〉、1930年7月。 NCID BA66369639全国書誌番号:44021049 
  • 『欧洲に使して』実業之日本社、1931年5月。 NCID BA36163496全国書誌番号:46079463 
  • 『破壊の政友か建設の民政か』春秋社、1932年2月。 NCID BA86355615全国書誌番号:72011041 
  • 『海岳集』若槻礼次郎、1935年9月。 NCID BA4129445X全国書誌番号:46081132 
  • 『古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史 若槻礼次郎自伝』読売新聞社、1950年3月。 NCID BN00908406全国書誌番号:50002109 
  • 『男爵若槻礼次郎談話速記』広瀬順晧監修・編集、ゆまに書房〈近代未刊史料叢書 1 政治談話速記録 憲政史編纂会旧蔵 第8巻〉、1999年3月。ISBN 9784897145976NCID BA42014515全国書誌番号:99087008 

校閲[編集]

家族・親族[編集]

奥村家[編集]

若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「この奥村の家は、家族の続柄が非常に複雑であった。戸主が二人の男の児を残して死んだ。軽輩の足軽でも、僅かながら禄を貰っている。しかし戸主が死んで、相当な年配の子供がないと、禄を取り上げられてしまう。それで私の実父が、その未亡人の所へ聟入りし、家を継いだ。そしてその間に、私の姉と私と二人の子供が生まれた。ところが私の実母は、私の三つの時に亡くなり、父は後添えの妻を貰った。幼年の私は、専らこの継母と年上の姉に育てられた。父違いの兄たちは、十以上も歳が違う。私は実母の顔を覚えていない。」という。

  • 父・仙三郎(松江藩の足軽
    • 真面目な努力家であるほかに酒豪としても聞こえていた。明治35年(1902年)10月没[2]
  • 実母・クラ(袖山庄右衛門の娘)
    • クラは奥村柳右衛門の後妻であった。柳右衛門との間に譲を生み、柳右衛門の死後、養子にきた仙三郎との間にイワと礼次郎を生んだ[35]
  • 継母・ヤオ(樋口廉蔵の娘)
    • 岸清一は幼いころ、奥村家に遊びに行ってヤオに叱られたこともあったらしく、後年、次のように回顧している。「ヤオという人は私の母の妹といわれていたが、頭がいいかどうかは疑問があるが、ともかくやかましい叔母であった、ということを記憶している」[36]
  • 姉・イワ
  • 兄・(ゆずる、松江・雑賀小学校2代目校長)

若槻家[編集]

  • 祖父・待齢(たいれい)
    • 養父敬の養父待齢は近在に聞こえた大酒家であった。その人となりはきわめて硬骨漢であり、けっして自分の信念を曲げない人間であったが、その酒豪ぶりをみていたトク子(徳子)は、「礼次郎があのような大酒家になっては困る…」とそれを心配していた。この待齢というトク子の祖父はかなり変わった人間で、ある時、養子の敬が勉強するところへきて、手にした鉄瓶の中の熱湯を敬の膝頭に注いだ。父のやり方を知っている敬は黙々としてその熱さに耐え、読書をつづけたので待齢(たいれい)は「やはり敬はわしが見込んだだけある。将来はエラブツになるじゃろう」とうなずいたという[37]
  • 父・ - 礼次郎の実母クラの弟
  • 母・ナミ子
  • 従妹・妻・徳子(とくこ、若槻敬の長女)
  • 長男・有格(実業家)
  • 長女・繁子田原和男の妻)

系図[編集]

(奥村家)
 
奥村柳右衛門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
奥村譲
 
 
 
 
 
クラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イワ
 
 
 
 
 
 
 
奥村仙三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若槻禮次郎
 
 
 
 
 
ヤオ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヤオの姉
 
 
テツ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岸伴平
 
 
岸清一
 
 
(若槻家)
 
 
 
 
奥村仙三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
児玉要助
 
 
 
若槻寛義
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
袖山庄右衛門
 
 
 
 
 
 
 
若槻禮次郎
 
 
若槻有格
 
 
若槻信成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若槻敬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若槻待齢
 
 
 
 
 
 
 
若槻徳子
 
 
繁子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ナミ子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
隆子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田原和男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
森永貞一郎

関連作品[編集]

映画
テレビドラマ

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「私の幼少の頃はまだ帯刀であった。私は数え年七つの時、寺子屋に入ったが一本を腰に差して通ったことを覚えている。しかし、それは抜けない木刀であった」という。
  2. ^ 懲弁国賊条例は1915年のいわゆる対華21カ条要求交渉の際、中華民国が同交渉による2条約13公文を無効化するために6月22日に発出したものであるが、1929年には「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」など60の追加法令を発して、土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収をはかっていた。

出典[編集]

  1. ^ 『激動の世代"昭和"グラフと写真で綴る64年間の軌跡』 山陰の経済 1989年2月号 (山陰経済経営研究所) (1989年2月)。pp27
  2. ^ a b c 豊田『宰相・若槻礼次郎』173頁。
  3. ^ 若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 18-25頁
  4. ^ 若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 3-21頁
  5. ^ 『法政大学校友名鑑』(1941年)
  6. ^ 「若槻氏の癖」『中央公論』第42巻第2号、昭和2年(1927年)
  7. ^ 『大正デモクラシー期の政治―松本剛吉政治日誌』(岩波書店、1959年),p.480。
  8. ^ 「三府楼主人「若槻全権の酒量大観」『民政』第3巻第12号、昭和4年(1929年)
  9. ^ 『官報』第8454号、明治44年8月25日。
  10. ^ 『官報』第8709号、明治45年7月1日。
  11. ^ 『官報』第3248号「叙任及辞令」1894年5月1日。
  12. ^ 『官報』第3875号「叙任及辞令」1896年6月1日。
  13. ^ 『官報』第4473号「叙任及辞令」1898年5月31日。
  14. ^ 『官報』第5247号「叙任及辞令」1900年12月26日。
  15. ^ a b 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
  16. ^ 『官報』第6474号「叙任及辞令」1905年2月1日。
  17. ^ 『官報』第7401号「叙任及辞令」1908年3月2日。
  18. ^ 『官報』第8486号「叙任及辞令」1911年10月2日。
  19. ^ 『官報』第3745号「叙任及辞令」1925年2月18日。
  20. ^ 『官報』第1287号「叙任及辞令」1931年4月17日。
  21. ^ 『官報』第4663号「叙任及辞令」1942年7月27日。
  22. ^ 『官報』第5175号「叙任及辞令」1900年9月29日。
  23. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  24. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  25. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  26. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  27. ^ 『官報』第1741号「叙任及辞令」1918年5月24日。
  28. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  29. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  30. ^ 『官報』第1284号「叙任及辞令」1931年4月14日。
  31. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  32. ^ 『官報』第5398号「宮廷録事」1945年1月16日。
  33. ^ 元帥海軍大将子爵伊東祐亨外四十六名外国勲章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112637600 
  34. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
  35. ^ a b 豊田『宰相・若槻礼次郎』172頁。
  36. ^ 豊田『宰相・若槻礼次郎』174頁。
  37. ^ 豊田『宰相・若槻礼次郎』191-192頁。
  38. ^ 豊田『宰相・若槻礼次郎』184頁。
  39. ^ 鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』1965年、145頁。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

関連人物[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代
加藤高明
濱口雄幸
日本の旗 内閣総理大臣
第25代:1926年1月31日 - 1927年4月10日
第28代:1931年4月14日 - 12月13日
次代
田中義一
犬養毅
先代
高橋是清
山本達雄
日本の旗 大蔵大臣
第15代:1912年12月21日 - 1913年2月20日
第17代:1914年4月16日 - 1915年8月10日
次代
武富時敏
高橋是清
先代
水野錬太郎
日本の旗 内務大臣
1926年1月30日 - 6月3日の間、内閣総理大臣兼任
第41・42代:1924年6月11日 - 1926年6月3日
次代
濱口雄幸
先代
原脩次郎
日本の旗 拓務大臣
第4代:1931年9月10日 - 12月13日(兼任)
次代
秦豊助
党職
先代
濱口雄幸
立憲民政党総裁
第2代:1931年4月12日 - 1934年11月1日
次代
町田忠治
先代
加藤高明
憲政会総裁
第2代:1926年1月29日 - 1927年6月1日
次代
立憲民政党
その他の役職
先代
富井政章(→欠員)
日仏会館理事長
1936年 - 1946年
次代
山田三良
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
若槻家初代
1931年 - 1947年
次代
華族制度廃止