若島権四郎

若嶌 權四郎
若嶌權四郎
基礎情報
四股名 若嶌 權四郎
本名 加藤 権四郎(旧姓:高橋)
生年月日 1876年1月19日
没年月日 (1943-10-23) 1943年10月23日(67歳没)
出身 千葉県
身長 178cm
体重 116kg
所属部屋 楯山部屋(東京)→中村部屋(大阪)
得意技 突っ張り、右四つ、寄り、蹴手繰り、出し投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 第21代横綱
データ
初土俵 1891年5月場所(東京・序ノ口)
入幕 1896年1月場所(東京)
引退 1907年1月場所(大坂)
備考
1898年、大坂相撲へ加入
2012年7月18日現在

若嶌 權四郎(わかしま ごんしろう、1876年明治9年〉1月19日 - 1943年昭和18年〉10月23日)は、千葉県市川市原木[1]出身で楯山部屋(東京)、中村部屋(大阪)に所属した大相撲力士(大坂相撲)。第21代横綱。本名は加藤 権四郎(かとう ごんしろう)(旧姓:高橋)。

大坂相撲で最初の横綱。過去にも大坂相撲で横綱土俵入りを行った者はいるが、いずれも吉田司家以外の免許によるもので、公認代数には含まれていないため、現在に至るまで正式に認められている大坂横綱としては最初のものである。

来歴[編集]

東京相撲の元大関若嶌久三郎楯山部屋へ入門して、松若大五郎の四股名1890年前相撲から初土俵を踏む。1891年岐阜県大垣を巡業中に濃尾地震と遭遇し、若島を助け出した兄弟子の楯甲久四郎は崩れた家屋の下敷きになり圧死した。その後、1896年1月に入幕した際に、濃尾地震で亡くした兄弟子の四股名だった楯甲へ改名し、前頭7枚目まで昇進した。1897年から若島(当初は若島大五郎)を継いだが、同年から天然痘を発症して巡業でも勝てなくなり、さらに色男で芸者から大変な人気があったことから人気に溺れて成績も上がらず、1898年に脱走・大坂相撲へ加入した。当時大坂相撲には小結若嶌幸右エ門がおり、通常であれば四股名が重複する際には格下が改名して譲る所を、格上である小結若嶌が秀の海と改名する程期待を集めた。(秀の海はのち大関)

大坂相撲加入後は心機一転して頭角を表し、1901年5月に大関、1903年1月に五条家から横綱免許を受け、1905年4月に大坂相撲の力士として初めて吉田司家から横綱免許を授与された。大坂相撲では最強の力士で、2敗を喫した大木戸森右エ門以外の力士はほとんど問題にしなかった。突っ張りに大変な威力があり、右差しからの寄りに蹴手繰りなどがある派手な取り口だった。東京相撲との合併相撲では常陸山谷右エ門に分が悪かったが、大砲万右エ門梅ヶ谷藤太郎 (2代)太刀山峯右衛門には互角に取る実力を見せ、大坂相撲復興の第一人者となっていた。

1905年9月、山口県内での巡業中に自転車を運転し、下り坂でスピードを出し過ぎて転倒し、その弾みで側溝へ転落して頭を負傷し、これが元で四股を踏めなくなり休場が続き1907年1月限り引退を余儀なくされた。

引退後一代頭取・若嶋権四郎となったが1908年6月廃業した[2]

廃業後は米子劇団ビリヤード場を経営したり、米子市会議員に就任したが、社会奉仕活動に熱心なために次々と財産を使い果たし、最晩年に大変困窮して私財が皆無に近くなっても慈善活動の規模は小さくなることが無かった。

立浪の招待で東京の日本相撲協会へ向かう途中、神戸脳溢血に倒れ、1943年10月23日に死去、67歳没。

場所別成績[編集]

明治31年に東京相撲を脱退し大坂相撲に加入。

場所 地位 成績 備考
明治24年(1891年)5月場所 西序ノ口12
明治25年(1892年)1月場所 西序二段2
明治25年(1892年)6月場所 東序二段1
明治26年(1893年)1月場所 東三段目22
明治26年(1893年)5月場所 東三段目6
明治27年(1894年)1月場所 東幕下24
明治27年(1894年)5月場所 東幕下37
明治28年(1895年)1月場所 西幕下16
明治28年(1895年)6月場所 東十両5 6勝2敗1分1休
明治29年(1896年)1月場所 西前頭12 4勝2敗3分1休
明治29年(1896年)5月場所 西前頭7 1勝7敗1預1休
明治30年(1897年)1月場所 西前頭12 1勝7敗2休
明治30年(1897年)5月場所 西前頭14 4勝5敗1休
明治31年(1898年)1月場所 西前頭13 3勝5敗1分1休
明治31年(1898年)5月場所 西前頭11 10休
以後大坂相撲に加入
明治31年(1898年)4月場所 西幕内格張出 5勝1敗1分3休
明治31年(1898年)10月場所 西前頭12 7勝2敗
明治32年(1899年)6月場所 西前頭8 7勝1敗2休
明治33年(1900年)6月場所 西小結 7勝0敗1分1預1休 優勝相当
明治34年(1901年)5月場所 西大関 7勝0敗1預2休 優勝相当(2)
明治35年(1902年)6月場所 東大関 8勝0敗1預1休 優勝相当(3)
翌年1月に五条家から横綱免許
明治36年(1903年)1月場所 東大関横綱 8勝1敗1休 35連勝
明治36年(1903年)5月場所 東大関横綱 4勝0敗1分5休
明治37年(1904年)1月場所 東大関横綱 6勝1敗3休
明治37年(1904年)5月場所 東大関横綱 7勝1敗1分1休
明治38年(1905年)1月場所 東大関横綱 10休 4月に吉田司家から横綱免許
明治38年(1905年)6月場所 東大関横綱 8勝0敗1分1休 優勝相当(4)
明治39年(1906年)2月場所 東大関横綱 10休
明治39年(1906年)5月場所 東大関横綱 10休
明治40年(1907年)1月場所 東横綱 10休 引退

脚注[編集]

  1. ^ 千葉県出身の幕内力士”. 千葉県ホームページ. 2020年2月25日閲覧。
  2. ^ 大阪相撲の頭取”. sumohima.web.fc2.com. 2021年4月21日閲覧。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • NHK G-media「大相撲ジャーナル」2017年4月号24ページ