胡適

胡 適
プロフィール
出生: 1891年12月17日
光緒17年11月17日)
死去: 1962年民国51年)2月24日
中華民国の旗 中華民国 台湾省台北県南港鎮(現:台北市南港区
出身地: 安徽省徽州府績渓県
(現:宣城市績渓県)
職業: 学者・思想家・外交官
各種表記
繁体字 胡 適[1]
簡体字 胡 适
拼音 Hú Shì
ラテン字 Hu Shih
和名表記: 慣用音:こ てき(漢音:こ せき)
発音転記: フー・シー
英語名 Dr. Hu Suh
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胡 適漢音:こ せき、慣用音:こ てき)は、中華民国哲学者思想家外交官。もとの名は嗣穈希彊、後にと改名した。適之

アメリカの哲学者ジョン・デューイのもとでプラグマティズムを学び、新文化運動の中心を担った。中国哲学中国文学を広く論じた。北京大学教授のち学長。中国国民党を支持したため戦後は米国に亡命したのち、1957年に台湾に移住した。

青年期[編集]

胡適別影
Who's Who in China 3rd ed. (1925)

1891年江蘇省松江府川沙庁で生まれ、本籍地の安徽省徽州府績渓県で育った。14歳のとき、社会進化論の書物『天演論中国語版』(T.H.ハクスリー著・厳復訳)を読んで感銘を受け、同書の中の用語「適者生存」にちなんで「適」と名乗るようになった[2]

1910年宣統2年)、19歳のとき、アメリカに留学し、コーネル大学農学を学び、次いでコロンビア大学ジョン・デューイのもとでプラグマティズム哲学を学んだ。

1917年、コロンビア大学にて、論文「古代中国における論理学的方法の発展」(The Development of the Logical Method in Ancient China, 後に書籍化。中国論理学を扱う)で哲学博士号を取得した[3]

民国初期[編集]

アメリカに滞在中の1917年(民国6年)、陳独秀の依頼で雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命を理論面で後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は魯迅などによって推進された。

同年、北京大学学長だった蔡元培に招かれて帰国、20歳代半ばにして北京大学教授となり、プラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。この時、受講生だった顧頡剛に影響を与え、のちに疑古派が生まれるきっかけを作った。

1919年(民国8年)、『新青年』が無政府主義共産主義へと傾いて政治を語るようになると、胡適は李大釗「問題と主義」論争中国語版を起こし、これらの主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて国故整理に向かい、中国の歴史・伝統思想・文学などを研究した。

1922年(民国11年)、『努力週報』を創刊し、共産主義・無政府主義に対して改良主義好政府主義中国語版を主張した。

1925年(民国14年)前後、に関する論考を著し始める。1930年(民国19年)、大英博物館敦煌文書調査で発見した荷沢神会の遺文をもとに、『神会和尚遺集』を発表した。

抗日戦争期[編集]

満洲事変が起こると、1932年(民国21年)、『独立評論』を創刊し、日本の満洲支配を非難している。胡適は「華北保存的重要」という文章を発表して、現今の中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとは限らない」が故に“停戦謀和”すべしと唱えた。胡適はさらに、「日本が華北から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」とさえ主張している。1935年(民国24年)には「日本切腹中国介錯論」として知られる評論を発表。この中では米ソ両国と衝突する日本はいずれ自壊の道を歩み、中国は数年の辛苦を我慢してそのときを待てば、「切腹」する日本の「介錯人」となるだろうと記した。1936年ごろ面会した清水安三は胡適が「今は満州事変時より中国に有利であり、日本は国際的に孤立している。日支は戦ってはならぬと以前は主張したが、今日では日本とどうしても戦わねばならぬ」と発言したことを記している[4]。その後、蔣介石政権に接近し、1938年(民国27年)駐米大使となってアメリカに渡り、1942年(民国31年)に帰国した。

1939年にはノーベル文学賞候補にノミネートされたが[5]、受賞を逃した。

晩年[編集]

胡適墓地

1946年、北京大学学長に就任。1949年(民国38年)、中国共産党国共内戦に勝利すると、アメリカに亡命した。1950年代には共産党政権下で「胡適思想批判」が展開された[6]

1957年(民国46年)から台湾に移り、外交部顧問、中央研究院長(1957-1962年)に就任した。『水経注』や禅宗史の研究に取り組んだ。1949年にはハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議で鈴木大拙と禅研究法に関して討論を行った。1962年、逝去。

著作[編集]

原著[編集]

  • The Development of the Logical Method in Ancient China(副題《先秦名学史》。1917年、コロンビア大学博士論文。1922年、上海の亜東図書館から英語で出版。没後の1983年、上海の学林出版社から《先秦名学史》として中国語で出版[7]
  • 《中国哲学史大綱》(1919年、上海、商務印書館) - 上巻(秦代まで)のみの未完作品
  • 《嘗試集》(1920年、北京大学出版部、新詩詩集)
  • 《胡適文存 一集》(1921年、北京、北京大学出版部)
  • 《章實齊先生年譜》(1922年、上海、商務印書館)
  • 《胡適文存 二集》(1924年、上海、亞東圖書館)
  • 《差不多先生傳》(1924年)
  • 《白話文学史》(1928年)
  • 戴東原的哲學》(1927年、上海、亞東圖書館)
  • 《白話文學史 上巻》(1928年、上海、新月書店)
  • 《廬山遊記》(1928年、新月書店)
  • 《人權論集》(1930年、梁実秋羅隆基中国語版と合著、新月書店)
  • 《胡適文存 三集》(1930年、亞東圖書館)
  • 《胡適文選》(1930年、上海、亞東圖書館)
  • 《中國中古思想史長編》(1930年)
  • 《中國中古思想史提要》(1932年、北平、北京大学出版部)
  • 《四十自述》(1933年)
  • 《胡適論學近著 第一集》(1935年、商務印書館)
  • 《南遊雜憶》(1935年)
  • 《藏暉室札記》(1939年、亞東圖書館)
  • 《胡適的時論》(1948年、六藝書局)
  • 水經注版本四十種展覽目録》(1948年、北平、北大出版部)
  • 齊白石年譜》(1949年、上海、商務印書館)
  • 《胡適文存 四集》(1953年、台北、遠東出版)
  • 丁文江的傳記》(1960年、南港中央研究院)

著作集など[編集]

  • 欧陽哲生 編《胡適文集》全12巻、北京大学出版社、1998
  • 耿雲志 主編《胡適遺稿及秘蔵書信》全42巻、黄山書社、1994

日本語訳[編集]

関連文献[編集]

  • 小野川秀美「清末の思想と進化論」- 『清末政治思想研究 増補版』みすず書房、1969。新版・平凡社東洋文庫 全2巻
  • 清水賢一郎「胡適」- 『近代中国の思索者たち』佐藤慎一編、大修館書店、1998
  • 林毓生『中国の思想的危機-陳獨秀・胡適・魯迅』丸山松幸・陳正醍 訳、研文出版、1989
  • ジェローム・B・グリーダー『胡適 1891-1962 中国革命の中のリベラリズム』佐藤公彦 訳、藤原書店、2017
  • 佐藤公彦『駐米大使 胡適の「真珠湾への道」: その抗日戦争と対米外交』御茶の水書房、2022

脚注[編集]

  1. ^ 簡体字の書籍でも繁体字表記の「胡適」を用いる場合がある。
  2. ^ 劉争「厳復と翻訳 : 主体性と「達詣」の限界性について」『愛知 : φιλοσοφια』第29巻、2017年、35頁、doi:10.24546/81010342 
  3. ^ 胡適』 - コトバンク
  4. ^ 『朝陽門外』清水安三、桜美林大学出版会、2021、p25-28
  5. ^ Nomination Database The Nomination Database for the Nobel Prize in Literature, 1901-1950
  6. ^ 胡適思想批判』 - コトバンク
  7. ^ 川尻文彦「中国近代思想研究方法序説(二)」『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第20巻、2019年、204頁。 

関連項目[編集]

中華民国の旗 中華民国
先代
葉公超
外交部長(就任せず)
1949年6月 - 10月
次代
葉公超