聖ワシリイ大聖堂

聖ワシリイ大聖堂
堀の生神女庇護大聖堂
Собор Покрова, что на Рву
地図
北緯55度45分9秒 東経37度37分23秒 / 北緯55.75250度 東経37.62306度 / 55.75250; 37.62306
所在地 モスクワ赤の広場
ロシア
教派 正教会
ウェブサイト (英語)聖ワシリイ大聖堂
(ロシア語)ロシア国立歴史博物館
歴史
創設日 1555年
創設者 イヴァン4世(イヴァン雷帝)
建築物
設計者 ポスニク・ヤーコブレフ
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聖ワシリイ大聖堂(:Собор Василия Блаженного)はロシア首都モスクワ赤の広場に立つロシア正教会大聖堂。正式名称は「堀の生神女庇護大聖堂」(Собор Покрова, что на Рву、詳細は#名称・記憶を参照)。

聖ワシリー大聖堂」「聖ヴァシーリー大聖堂」「聖ワシーリー寺院」とも日本では表記される。

1551年から1560年にかけて、イヴァン4世(雷帝)が、カザン・ハーンを捕虜とし勝利したことを記念して建立した。ロシアの聖堂でもっとも美しい建物のひとつと言われる。1990年ユネスコ世界遺産に登録された。

ゲームソフト等で有名なテトリスでは、ロシア文化をイメージとした背景や音楽等がよく用いられており、聖ワシリイ大聖堂もしばしば背景画像やパッケージとして使われている。

クレムリンの聖ワシリイ大聖堂」といった説明がされることもあるが、大聖堂はクレムリンの城壁の内側には位置していないため誤りである。聖ワシリイ大聖堂が位置する赤の広場はクレムリンの城壁の外側にある。

沿革・構造の意義[編集]

大聖堂を描いた16世紀の版画

ツァーリイヴァン4世(雷帝)のカザン征服を記念して建てられた。当初、聖堂が記憶していたのは生神女庇護であり、聖堂名も生神女庇護大聖堂(ポクロフスキー大聖堂)であった(詳細は#名称・記憶を参照)[1]

カザン戦からイヴァン4世が帰還した年に木造で建てられ、2年後に石造での改築が始まり、5年後の1559年に完成している。建築にはバルマとも呼ばれるポスニク・ヤーコブレフが当たった[1]

完成時点では現在みられるような彩色はされておらず[1]、今日見る聖堂の彩色は17世紀から19世紀にかけて施されたものである。

中央の主聖堂を、それぞれがドームを戴く8つの小聖堂が取り囲んでいる[2]。主聖堂、8つの小聖堂のそれぞれに至聖所があり、合計9つの聖堂が集まって1つの大聖堂を形成している[1]

生神女マリヤイコンには8つの光線(突起)がある星が描かれることにもみられるように、「8」は生神女マリヤの象徴である。またカザン戦の勝因となった日にちである7日と聖枝祭を祝う計8日との意味合いも込められている。8つの小聖堂が中央の生神女庇護大聖堂を取り囲んで支える構造は、8つの小聖堂が生神女に庇護される構造であるとも解釈される[1]

9つあるドームの全ての高さ・大きさ・装飾が異なるものとなっている[1]が、唯一、西ファサード側から見える外観だけは、左右対称となって見える構造となっている。

のち、佯狂者ワシリイを記憶する小聖堂が加えられたことで、聖ワシリイ大聖堂の通称で親しまれることとなった。

名称・記憶[編集]

1588年フョードル2世が、大聖堂東側にあった佯狂者ワシリイВасилий)の墓の上に聖堂を建設して以後、ワシリー大聖堂の名で親しまれている。"Василий"は「ヴァシーリー」「ワシーリー」「ワシリー」などの転写例があるが、正教会の大聖堂のものであるため、本記事の名は日本ハリストス正教会による伝統的な転写に拠っている[3]

正式名称は「堀の生神女庇護大聖堂」(Собор Покрова что на Рву )である。Покровский собор(ポクロフスキー サボール)という呼称もあり、この前半部が片仮名で転写されたのが「ポクロフスキー大聖堂」の表記である。Покров(ポクロフ…「庇護」を意味するロシア語)に由来する名であり、生神女庇護祭Покров Пресвятой Богородицы)を記憶する大聖堂であることを示している。

ロシアのレニングラード州と、ウクライナハルキウ(ハリコフ)にも「ポクロフスキー大聖堂」が存在すること(ru:Покровский собор (Гатчина)ru:Покровский собор (Харьков))にも看られるように、生神女庇護祭を記憶する聖堂(ポクロフスキー大聖堂・ポクロフスキー聖堂)は世界中各国の正教会に多数あり、日本ハリストス正教会でも横浜静岡大阪の聖堂は生神女庇護聖堂である。

ただし、日本で「ポクロフスキー大聖堂」と言えば、当記事で扱っている、赤の広場に面した、聖ワシリイ大聖堂の異名を持つポクロフスキー大聖堂を指すのが一般的である。世界的にみても最も知名度の高い生神女庇護大聖堂である。

設計者を巡る史実ではない逸話[編集]

聖ワシリイ大聖堂の完成にあたっては、以下のエピソードが伝えられる。

7つの塔を持ち、その全てが異なるデザインであることから、一見統制が取れていないように思われるかもしれないが、世界でも有数の美しい建造物として有名である。そのあまりの美しさゆえ、完成後イヴァン4世はこれより美しい建造物が建てられることを恐れ、設計者ポスニク・ヤーコブレフの目を潰して失明させたという[4][5]

これはイヴァン4世の残虐な独裁性を伝える有名なエピソードであるが、実際には大聖堂の完成後もヤーコブレフが他の重要な建造物の設計を担当していた記録が存在することから、このエピソードはあくまでも伝説であって史実ではないとされている[4][5]。大聖堂の完成当時、イヴァン4世の国内における治世はまだ穏やかなものであり、オプリーチニナ制に代表される恐怖政治はまだ開始されていなかった。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 川又一英『イヴァン雷帝-ロシアという謎』73頁 - 83頁、新潮社、1999年。 ISBN 4106005662
  2. ^ 新建築社『NHK 夢の美術館 世界の名建築100選』新建築社、2008年、150頁。ISBN 978-4-7869-0219-2 
  3. ^ 「ワシリイ」の使用例:祈り-聖体礼儀:日本正教会 The Orthodox Church in Japan中新田ハリストス正教会・主の洗礼聖堂:日本正教会 The Orthodox Church in Japan須賀ハリストス正教会・生神女福音聖堂:日本正教会 The Orthodox Church in Japan教え-生神女マリヤ、聖人、聖師父:日本正教会 The Orthodox Church in Japan
  4. ^ a b 川又一英『イヴァン雷帝-ロシアという謎』80頁、新潮社、1999年。 ISBN 4106005662
  5. ^ a b 川又一英『イコンの道-ビザンティンからロシアへ』16頁、東京書籍、2004年。 ISBN 4487798973

関連項目[編集]

外部リンク[編集]