絶滅収容所

絶滅収容所(ぜつめつしゅうようじょ、: Extermination camp: Vernichtungslager)とは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ヘウムノ強制収容所ベウジェツ強制収容所ルブリン強制収容所ソビボル強制収容所トレブリンカ強制収容所、以上6つの強制収容所を指す言葉である。絶滅収容所を正式名称とした施設は存在せず、また、当時のドイツ政府の公式文書に絶滅収容所という言葉は存在しない。

ホロコーストを目的として、ナチス・ドイツ第二次世界大戦中に設立した強制収容所の一種である。絶滅収容所は大戦中に絶滅政策の総仕上げとして建てられた[1]。犠牲者の遺体は、通常は焼却処分ないし集団墓地に埋められて処理された。こうした収容所によってナチスが絶滅させようとしたのは、主にヨーロッパのユダヤ人ロマ(当時はジプシーと呼ばれた)であった。しかし、ソ連軍の捕虜や同性愛者、ときにはポーランド人も含まれていた。

用語[編集]

絶滅収容所: Vernichtungslager)と死の収容所Todeslager)は概して同義であり、特にジェノサイドを主な目的とする、あるいは主な目的とした収容所を指すものである。

一般に「絶滅収容所」とは、そこに送り込まれた囚人を殺すために設置された強制収容所のことである。これらの収容所は犯罪行為に対して刑罰を与えるための場所としてではなく、むしろ絶滅を促進するためのものである[2]。「絶滅収容所」という語は、政治的抗議運動を行っている人々によって、彼らにとっては唾棄すべき監獄の忌まわしさを誇張して表現するためにも用いられている。

ナチス・ドイツの絶滅収容所は、同じナチスの収容所でもダッハウ強制収容所ベルゲン・ベルゼン強制収容所のような強制収容所とは区別されるもので、後者は様々な「国家の敵」(ナチスが好ましくないとレッテルを貼った者)を投獄して強制労働を行わせる場所であり、絶滅そのものを主な目的とするものではない。ホロコーストの初期の段階では、ユダヤ人も主にこうした収容所に送られていたが、1942年以降はそのほとんどが絶滅収容所に送られた。

絶滅収容所は強制労働収容所(: Arbeitslager)とも区別される。強制労働収容所とは、捕虜を含めた様々な囚人に労働を行わせる目的で、ドイツが占領したあらゆる国に作られた収容所である。多くのユダヤ人がこうした収容所で死ぬまで働かされたが、やがてユダヤ人労働力は、ドイツの戦力として有用であるかないかにかかわらず、絶滅収容所へ送られることとなった。ほとんどのナチスの収容所(ソ連以外の兵士のための捕虜収容所と一部の労働収容所を除く)において、処刑飢餓病気疲労のために死亡率は非常に高いのが常であった。しかし、絶滅収容所だけは絶滅を目的としていたということである。

1942年9月前半には既に、あるSSの医師が、毒ガスによる殺戮を目撃し、「彼らはいたずらにアウシュヴィッツを絶滅収容所(das Lager der Vernichtung)と呼んでいる訳ではないのだ!」と日記に書いている[3]とされるが、この医師が誰なのかは不明である。アドルフ・アイヒマンの副官の一人ディーター・ヴィスリツェニー (Dieter Wisliceny) は、ニュルンベルク裁判で証言台に立たされた時、絶滅収容所の名を挙げるよう質問され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所マイダネクルブリン強制収容所)がそれだと答えた。マウトハウゼン強制収容所ダッハウ強制収容所ブーヘンヴァルト強制収容所はどう区別されるのかと聞かれると、「アイヒマンの部門から見ると、通常の強制収容所であった」と答えた[4]

収容所[編集]

ホロコーストに関する最新の報告書のほとんどにおいて、6か所の強制収容所が絶滅収容所に認定されている。それらは全てドイツ占領下のポーランドにあった。古い報告書では異なる強制収容所が絶滅収容所であったとされていた。

このうちアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とヘウムノ強制収容所は、ドイツが併合したポーランド西部にあり、他の4つはドイツ占領下のポーランド総督府に置かれた。

ロコト共和国の近くか共和国内(現在のベラルーシ)にもう1つの絶滅収容所Maly Trostenetsが存在した。ワルシャワ強制収容所における殺害の規模や傾向は依然論争の的になっている[要出典]

ユダヤ人問題の最終的解決」 (Endlösung der Judenfrage) という婉曲的な表現が、ユダヤ人の組織的な殺戮を表現する言葉としてナチスによって用いられた。これを実施するという決定は1942年1月のヴァンゼー会議においてなされ、アドルフ・アイヒマンの指揮下に執行された。ラインハルト作戦(ポーランド系ユダヤ人絶滅作戦)中にトレブリンカ強制収容所ベウゼツ強制収容所ソビボル強制収容所が建造された[要出典]

アウシュヴィッツ第2強制収容所ビルケナウはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の一部であり、またルブリン強制収容所にも労働収容所があったのに対し、ラインハルト作戦で建てられた強制収容所とヘウムノ強制収容所(マイネダク)は「純然たる」絶滅収容所であり、言い換えると、大勢の人々(主にユダヤ人)を到着してすぐに殺戮するためだけに、単独で特別に作られたものである。これらの収容所に到着して即座に殺されなかった囚人は、絶滅の過程に直接関係する奴隷労働(例えばガス室から死体を運び出す作業など)に従事させられる人々のみであった。

こうした収容所は、最小限度の住居と設備しか必要とされず、一辺が数百メートルという小ささであった。到着した囚人に対しては、さらに東へ行くまでの中継地点または労働収容所に着いただけだという説明しか与えられなかった[要出典]

犠牲者数の推定[編集]

絶滅収容所への主な輸送路

近年の推定によると、ホロコーストの犠牲者数はユダヤ人が510万人(うち子供が100-200万人)、ロマや共産主義者、社会主義者、同性愛者が合わせて50万人である。ホロコーストにより全ユダヤ人の3分の1、ヨーロッパのユダヤ人に限れば実に3分の2が殺戮された。ポーランド系ユダヤ人に至っては、その90%が殺害されている。各収容所で殺された人数は、おおむね次の通りに推定されている。

  • アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所:約1,100,000[5]
  • トレブリンカ強制収容所:少なくとも700,000[6]
  • ベウゼツ強制収容所:約434,500[7]
  • ソビボル強制収容所:約167,000[8]
  • ヘウムノ強制収容所:約152,000[9]
  • ルブリン強制収容所(マイダネク): 78,000[10]
  • Maly Trostenets:少なくとも65,000[11]

合計は250万人を超え、そのうち80%以上がユダヤ人である。したがって、これらの絶滅収容所で殺されたユダヤ人の数は、ポーランド国内におけるほぼすべてのユダヤ人を含めて、ナチスのホロコーストで殺されたユダヤ人全体の約半数を占める。

ジャン・クロード・プレサックによる推定数[編集]

ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac)による犠牲者の推定数は以下の通りである[12]

  • アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所:63万~71万人
  • トレブリンカ強制収容所:20万~25万人
  • ベウゼツ強制収容所:10万~15万人
  • ソビボル強制収容所:3万~3万5千人
  • ヘウムノ強制収容所:8万~8万5千人
  • ルブリン強制収容所(マイダネク):10万人以下

このJ‐C プレサックによる推定は2000年当時のものであり、特に当時のマイダネク収容所の死亡者は約36万人と主張されていた。プレサックは、マイダネクの死亡者は10万人以下と推定しており、2005年にマイダネク博物館は最大で8万人である。として、36万人から大幅に下方修正し引き下げを行い、プレサックのマイダネクの推定人数(10万人以下)は的中した。

歴史修正主義者による推定数[編集]

歴史修正主義者は絶滅収容所の存在を認めてない為、相当少ない人数を推定している。犠牲者の推定数は以下の通りである[13]

  • アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所:13万5千500人
  • ルブリン強制収容所(マイネダク):4万2千200人~5万人
  • トレブリンカ強制収容所、ベウゼツ強制収容所、ソビボル強制収容所、ヘウムノ強制収容所等の他の収容所については、東部地域へ移送する為の通過収容所であるとしており、死者については不明。としている。

ポーランド人の見解[編集]

1989年の民主化以降のポーランド政府を含め、ポーランド外務省やポーランド人による組織の多くは、占領下のポーランドにあったナチスの絶滅収容所のことを「ポーランドの収容所」と呼ぶのは、ポーランドが設立した収容所であるかのような印象を与える表現であり、無知または悪意によるものとしている。そのためこうした組織は、これに類する表現が用いられていないか監視して、「占領下ポーランドにおける(ナチスの)収容所」とするよう求めている[要出典]

ポーランドは1939年にナチス・ドイツの侵攻を受けて占領され、政府はロンドンに亡命している。第二次世界大戦中ナチス・ドイツに協力した傀儡政権があったわけではなく、ポーランドに絶滅収容所を置くという決定を下したのはドイツ人である。ナチスが占領下のポーランドに絶滅収容所を置いた理由[要出典]は単純である。

  • ポーランドはヨーロッパ最大のユダヤ人人口を抱えていた。
  • 東欧の鉄道網は全てナチスの軍事行動によって壊滅状態にあったため、世界史上最大の軍事作戦が展開されていた東部戦線の後方で、ユダヤ人をそれ以上遠くまで移送するために何万という鉄道車両を編成することは兵站学的に不可能であった。
  • 絶滅収容所の存在はドイツの一般市民には極力秘密にしておく必要があった。

一般に考えられているのとは異なり、戦前のポーランドにおける反ユダヤ主義の程度はドイツの政策決定に影響を及ぼすほどのものではなかった[要出典]。占領下のポーランドではユダヤ人を匿おうと支援するいかなる行為も死刑相当の罪とされ、ある家に身を隠したユダヤ人が発見された場合、その家に住む家族全員が死刑に処されたほどである。これはヨーロッパの被占領地域において最も苛烈な法律である[要出典]が、そのような罰則が必要になるほど、多くのポーランド人がユダヤ人を支援していたことを反映している。実際に、ホロコーストの最中にナチスの手からユダヤ人の命を救った非ユダヤ人に対して、戦後イスラエルのヤド・ヴァシェムYad Vashem 、ホロコースト記念館)から「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られた人物の中で、ポーランド人が最も多い[14]。ユダヤ人あるいはユダヤ人を匿った人物を恐喝したり、何らかの形でナチスのユダヤ人虐殺を手助けしたポーランド市民は、国内軍やその他のレジスタンス運動によって対独協力者と見なされ、のちに死刑宣告を受けることとなった[要出典]

収容所の運営[編集]

これらの収容所における殺戮方法は、一般にはガス室毒ガスを用いたものである。アウシュヴィッツの所長であったルドルフ・フェルディナント・ヘス(Rudolf Höss 、ナチス党副総統のルドルフ・ヘスRudolf Heßとは別人)は、大量射殺に携わった特別行動隊員(Einsatzkommando 、SSの指揮下にあった準軍事組織)の多くが「それ以上血の海にまみれることに耐えられなくなって」発狂したり自殺を試みたりしたと戦後になってから記している[15]。殺された人々の遺体は焼却炉で処分され(屋外で薪を用いて焼いていたソビボル収容所は除く)、遺灰は埋められるか撒き散らされるかであった。アウシュヴィッツ=ビルケナウでは遺体の数が多すぎて、埋めたり薪で燃やしたりしていては処理が追いつかなかった。これら大量の死体を処分するためには、トップフ・ウント・ゼーネ社 (Topf und Söhne) と契約して建造した特注の死体専用焼却炉を昼夜問わず運転するしか方法がなかった[要出典]

収容所の運営方法はそれぞれ若干異なっていたが、いずれも可能な限り効率的に大量殺戮を行うために設計されていた。一例として、SSの衛生学研究所所員であったクルト・ゲルシュタイン中尉が、スウェーデンの外交官に対して自分が収容所で見たものを伝えた戦時中の証言がある。彼は1942年8月19日(当時の収容所は主にガソリンエンジンから発する一酸化炭素をガス室で用いていた)にベウゼツに到着して、45両の列車に詰め込まれた6,700人のユダヤ人が降ろされるのを誇らしげに見せられた。その多くは既に死亡していたが、生き残った者も裸でガス室へ送られていった。その時の様子についてゲルシュタインは証言している[16]

ヘスによると、ユダヤ人に対して最初にツィクロンBが使用された時は、シラミ駆除のための消毒ガスだと説明されていた(実際、ツィクロンBはもともと殺虫剤として開発されたものである)にもかかわらず、既に多くの囚人が自分たちは殺されるのではないかと感づいていた。その結果、後日ガス処理を行う際に「厄介な者」になるかもしれない囚人を選別するための労が取られることとなり、このような囚人は隔離されたのち密かに射殺された。ユダヤ人たちに不安を与えぬよう、ゾンダーコマンドSonderkommando 、自分の延命と引き換えに、他の囚人をガス室へ送ったり死体を片付けたりする任に当たったユダヤ人による特殊部隊)の隊員たちはガス室の中まで囚人に付き添い、ドアを閉めるときまで残っているよう指示された。この「鎮静効果」を高めるため、SSの衛兵もガス室の入り口に立つこととしていた。囚人たちが自分の運命について考える暇を与えないために、可及的速やかに衣服を脱ぐよう命令が下され、進捗を遅らせるかもしれない囚人に対してはゾンダーコマンドが手伝いさえした[17]

ガス処理されるユダヤ人たちを安心させるために、ゾンダーコマンドは収容所での生活について話したり、何も問題はないと説き伏せたりなどした。乳飲み子を抱えたユダヤ人女性の多くは、消毒薬が子供に害を与えることを怖れて、自分の脱いだ服の下に子供を隠した。ヘスの記述によれば、「特殊部隊の隊員たちは特にこの点を注意して見張って」おり、子供たちも連れてくるよう女たちに呼びかけていた。「こうしたやり方で服を脱がされる不安感によって」泣き出すかもしれない年長の子供たちをなだめるのもゾンダーコマンドの任務であった[18]

しかし、こうした方法で全ての囚人が騙された訳ではなかった。ユダヤ人の中には、「それでも自分の行く手に何が待ち受けているか予想ないし理解していた」が、「目の前の恐るべき光景にもかかわらず、子供を励ますために冗談をいう勇気を見せた」者もいたとヘスは伝えている。何人かの女性は突如として「脱衣中に凄まじい悲鳴を上げたり、髪を掻き毟ったり、狂人のように叫びだすなどした」。このような場合には即座にゾンダーコマンドが駆けつけて射殺した[19]。一方、ガス室へ連れて行かれる前に「まだ隠れている同胞の居場所を明かした」者もいた[20]

囚人を中に入れてドアが閉められると、微粉末状のツィクロンBがガス室の天井に開けられた特殊な孔から噴射された。収容所の指揮官は覗き穴からガス処理が済んだことを視認し、準備や後片付けの監督をするのが任務であった。ヘスは、ガスによって死亡した遺体には「痙攣の兆候が見られなかった」と報告している。アウシュヴィッツに勤務していた医師は、ツィクロンBの「肺を麻痺させる効果」により、痙攣が始まる前に死亡したためだと推定した[21]

ガス処理が済むと、特殊部隊員が死体を運び出して金歯を抜いたり髪を剃り落としたりしたのち、焼却炉または死体を燃やす穴へ運ばれた。いずれにせよ死体は焼却処分されるが、火は特殊部隊員によって焚かれた。余分な脂肪分を排出し、常に火を燃え立たせておくために「燃える死体の山」がひっくり返された。ゾンダーコマンドの働きは素晴らしいものであったとヘスは述べている。「彼らもまた、いずれは同じ運命を辿ることになるのを十分承知して」いたにもかかわらず、「まるで以前から大量殺戮者だったかのごとく、いかにも当然といった様子で」手際よく任務をこなしたという。ヘスによると、多くのゾンダーコマンドは仕事をしている間、「死体の焼却などの忌まわしい任務を控えている時でさえ」食事を取ったり煙草を吸ったりしていたという。時折彼らが近親者の死体に出くわすことがあり、「さすがにこれには動揺していることは明らかであったが、……何も騒ぎは起きなかった」。ヘスはガス室から焼却用の穴へ死体を運んでいる時に自分の妻の遺体を発見した男に言及しているが、「まるで何も起こらなかったように」ふるまっていたと伝えている[22]

ガス処理の様子を視察するために、ナチス党やSSの高級将校がアウシュヴィッツを訪れることがあった。例外なく「自分の見たものに深く衝撃を受けて」、何人かの「かつて私にユダヤ人根絶の必要性を声高に語った者でさえ、『ユダヤ人問題の最終的解決』の実態を目の当たりにして言葉を失っていた」とヘスは書いている。またヘスはどうやってこの惨状を我慢することができたのかとたびたび訊ねられたという。彼は「総統の命令を実行しなければならないという鉄の意志だ」と説明していたが、「明らかに私より頑強であったアイヒマンでさえ、私と職務を取り替えたいとは決して望まなかった」[23]

死体の利用[編集]

ブーヘンヴァルト強制収容所の所長夫人イルゼ・コッホによる、死体から剥いだ皮膚のコレクション。撮影者はベルギー人カメラマンジュール・ルアール(fr)

ゾンダーコマンド (Sonderkommando) と呼ばれる特殊部隊は、ユダヤ人の死体から衣服や宝石、眼鏡、毛髪、金歯や歯の充填材など、再利用できそうなあらゆるものを剥ぎ取る任務を非常に熱心に遂行したという[24]。ナチスが人間の皮膚を用いたランプシェードを造っていたと主張する者がいるが、実際に人間の皮膚から作ったランプシェードが発見されている訳ではない。アメリカ軍のクレイ将軍の陳述によると、人間の皮膚から作られたとされる電灯の笠は、ヤギの皮から作られたものであった[25]マルティン・ボルマンの息子(父と同名)は、あるインタビューにおいて、子供のころに人間の骨で作った椅子や人間の皮膚で装丁した本を見たことがあると証言している[26]。刺青の施された皮膚は時折剥ぎ取られて保存された[27]。しかしながら、これらも実際に現物が発見されている訳ではない。ブーヘンヴァルトでは、ヒバロー族に倣った技術を用いて干し首が作られ、ニュルンベルク裁判でも証拠品とされた。これも現在では現物は存在していない為、真偽は藪の中である[28]

また収容所では Judenseife すなわち死んだユダヤ人の脂肪で作られた石鹸を製造していたという者もいる。しかしこれは戦後になってから広められた噂にすぎないと現在では考えられている。人間の死体から作られる石鹸に関する英語版の記事Soap made from human corpses、および日本語訳(人間石鹸)も参照のこと。

戦後[編集]

1944年にソ連軍がポーランドに侵攻すると、収容所は閉鎖され、そこで行われていたことを隠蔽するために、部分的にか全部かがナチスにより解体された。戦後ポーランドの共産主義政権は、収容所の残存部分をもさらに解体し、腐朽してゆくに任せた。かつて収容所であった場所には様々な記念碑が建てられたが、そこで死んだ人のほとんどがユダヤ人であったことに触れたものはあまり見られなかった[要出典]

1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊して以降、収容所跡地に訪れやすくなったこともあり、これらの場所は観光地となった。特に最も有名なアウシュヴィッツ(これはドイツ語での地名であり、ポーランド語ではオシフィエンチム)を訪ねる人の数は増えた。ユダヤ人団体とポーランド人のあいだでは、この場所に何がふさわしいかをめぐる議論が続けられている。ユダヤ人団体は、この地にキリスト教の記念碑を建造することに対して強く反対している。最も有名な例はアウシュヴィッツの十字架 (Auschwitz cross) である。この十字架は、ユダヤ人を根絶するために建造されたアウシュヴィッツ第2収容所ではなく、犠牲者の大半がポーランド人であった同第1収容所の隣に建てられた[要出典]

ホロコースト否認[編集]

少なからぬ団体や個人が、ナチスが強制収容所を用いて絶滅政策を実行していたことを否定したり、ホロコーストの方法や規模に疑義を呈したりしている。例えば、ロベール・フォーリソンは1979年に「ヒトラーの『ガス室』なるものは存在しなかった」と主張した。フォーリソンは、ガス室などというものは元来シオニストが考え出したものだという見解をもっている[29]。もう一人の有名な否定派は、イギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングで、この人物はホロコーストを否認したために、オーストリアで逮捕され懲役刑を宣告された。オーストリアにおいて、ホロコーストを否認することは犯罪行為に当たるためである。

多くの研究者や歴史家は、生存者や加害者による証言や物的証拠や写真、そしてまたナチス自身による記録などを証拠として、ホロコーストは無かったとする説を否定している。ニツコー・プロジェクトデボラ・リプシュタット (Deborah Lipstadt) の著作、サイモン・ヴィーゼンタールサイモン・ヴィーゼンタール・センターの活動といった努力や、また数多くのホロコースト関連資料などによって、ホロコースト否認が追跡・解明されている(ホロコースト否認論の考察を参照)。ラウル・ヒルバーグ(『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』 ("The Destruction of the European Jews") の著者)、ルーシー・ダヴィドヴィチLucy Dawidowicz 、『ユダヤ人に対する戦争』 "The War Against the Jews" の著者)、イアン・カーショーその他数多くの著名な歴史家の著書は、ホロコースト否認論を少数の非主流な過激派として斥けている。

収容所関係者の裁判[編集]

収容所の幹部や看守など関係者に対する裁判は、殺人などの容疑を実証できず進まなかった。しかし2011年、絶滅収容所は収容者殺害のみを目的とした収容所であり、絶滅収容所で勤務した事実さえ証明すれば殺人幇助罪が成立するとの司法判断が下された。このことから改めて捜査が行われることとなった。2020年代においてもなお高齢の元看守などがドイツ各地で裁判にかけられている[30]

歴史的議論[編集]

強制収容所とホロコーストをめぐる現在の歴史的議論は、地元住民の関与についての問題を含んでいる。多くのユダヤ人がキリスト教徒の近隣住民によって救われたとはいえ、それ以外の住民はユダヤ人の苦境を無視したり当局に引き渡したりしているためである。さらに、収容所の多くは地元住民からも見渡せるものであったことや、収容所が地域経済と密接な関係にあったことなども明らかになってきている。例えば、収容所で必要な品は近辺で購入されて収容所まで届けられ、地元の女性は家事を手伝うなど収容所との交流があった。ナチスの将校は地元の居酒屋の常連客となり、囚人から集めた金を支払いに充てるなどしていた。したがって、収容所内で何が起こっていたかは一般人には隠されていたという、収容所近辺の住民による主張の真偽性は、近年の歴史的研究によって徐々に薄らいでいる[31]

脚注[編集]

  1. ^ Doris Bergen, Germany and the Camp System, part of Auschwitz: Inside the Nazi State, Community Television of Southern bitch California, 2004-2005
  2. ^ Dictionary definition on laborlawtalk.com
  3. ^ Diary of Johann Paul Kremer
  4. ^ Overy, Richard. Interrogations, p 356-7. Penguin 2002. ISBN 0-14-028454-0
  5. ^ 1944年から1945年の間にSSと警察は少なくとも130万人をアウシュヴィッツへ送り込んだと推定される。そのうち110万人が収容所当局によって殺された[1](アウシュヴィッツの他の施設で殺された人物の数も含む)。
  6. ^ [2]
  7. ^ 1942年3月から12月にかけて、ドイツは約434,500人のユダヤ人と人数不明のポーランド人やロマ(ジプシー)をベウゼツに輸送し、そこで殺戮した。[3]
  8. ^ ドイツとその協力者は、合計で少なくとも167,000人をSobiborで殺戮した。[4]
  9. ^ SSと警察は全部で少なくとも152,000人をヘウムノで殺戮した。[5]
  10. ^ 最近の研究では、マイダネクにおける推定死亡者数を抜本的に下方修正している。ルブリンのPawel P. Reszkaが2005年12月12日付「ガゼタ・ヴィボルチャ」紙で発表した小論 "Majdanek Victims Enumerated" (アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館のサイトに再掲された)によると、ルブリンの研究家トマシュ・クランツが最近この数を論証し、マイダネク博物館はこの数を信頼できると見ている。以前はこれよりも多く見積もられていた。ポーランドのナチス犯罪捜査中央委員会の判事だったZdzislaw Lukaszkiewiczが1948年に出版した本では36万人、また元マイダネク博物館職員Czesaw Rajca博士による1992年の論文では23万5000人と見積もられていた。
  11. ^ ホロコースト研究サイトYad Vashem websiteの "Maly Trostenets" の項を参照。
  12. ^ 追悼 J.‐C. プレサック
  13. ^ Der Holocaust Die Argumente Jürgen Graf P110-P111
  14. ^ ヤド・ヴァシェムのホームページによると、2007年1月現在、6,004人のポーランド人が表彰されている。
  15. ^ Höss , Rudolf (2005). “I, the Commandant of Auschwitz,” in Lewis, Jon E. (ed.), True War Stories, p. 321. Carroll & Graf Publishers. ISBN 0-7867-1533-2.
  16. ^ ハッケンホルト少尉はエンジンを動かそうと懸命に努力していたが、エンジンは回らなかった。ヴィルト大尉がやってきた。私が不運に見舞われたことを彼が気にしているのが見て取れる。ともあれ私は待った。私のストップウォッチは50分を示し、やがて70分を示したが、それでもディーゼルは動かなかった。ユダヤ人たちはガス室の中で待っている。無駄なことだ。彼らのすすり泣きが聞こえ、ファネンシュティール教授が板戸の窓を覗きながら「まるでシナゴーグだ」といった。腹を立てたヴィルト大尉が、ハッケンホルトのウクライナ人助手の顔を12、3回鞭打った。ストップウォッチが2時間49分を示したころ、ようやくディーゼルが動き出した。この時点で、4つの部屋すなわち45立方メートル×4の空間に閉じ込められた750人×4のユダヤ人たちが生きていた。それから25分が経過。少しの間だけ室内を電灯で照らしたため、多くが既に死亡していることが窓から窺われる。28分、生存者は若干名を残すのみとなった。そして32分目に全員死亡。……歯科医たちが金の義歯や橋義歯、歯冠などをカナヅチで打って鍛造していた。ヴィルト大尉もその中にいた。こうしたことが彼の本領であるらしく、私に歯の詰まった缶を見せびらかして彼はいった。「見たまえ、この金の重さを! 昨日と一昨日だけでこれだ。我々が毎日どれだけのものを見つけ出しているか、君には想像もつかんだろうな。ドルにダイヤ、それに金だ。君にもそのうち分かるとも!」
    The Nazi Sourcebook: An Anthology of Texts. Routledge. (2002). pp. 354. ISBN 0415222133 
  17. ^ Höss, pp. 321-322.
  18. ^ Höss, pp. 322-323.
  19. ^ Höss, p. 323.
  20. ^ Höss, p. 324.
  21. ^ Höss, pp. 320, 328.
  22. ^ Höss, pp. 325-326.
  23. ^ Höss, p. 328.
  24. ^ Bresheeth, Hood & Jansz (1994). The Holocaust for Beginners. Icon Books. ISBN 1-874166-16-1 
  25. ^ A. L. Smith, Die "Hexe von Buchenwald", Böhlau, Cologne 1983, p. 227
  26. ^ Sereny (2000). The German Trauma. ISBN 0-71-399456-8 
  27. ^ Lawrence Douglas (1998). “The Shrunken Head of Buchenwald: Icons of Atrocity at Nuremberg”. Representations 63 (Summer, 1998): 40-41. http://links.jstor.org/sici?sici=0734-6018%28199822%290%3A63%3C39%3ATSHOBI%3E2.0.CO%3B2-U 04-03-2007閲覧。. 
  28. ^ Lawrence Douglas (1998). “The Shrunken Head of Buchenwald: Icons of Atrocity at Nuremberg”. Representations 63 (Summer, 1998): 40. http://links.jstor.org/sici?sici=0734-6018%28199822%290%3A63%3C39%3ATSHOBI%3E2.0.CO%3B2-U 04-03-2007閲覧。. 
  29. ^ “The Chorus and Cassandra” by Christopher Hitchens
  30. ^ 余生を送っていた101歳の「ナチス戦犯」に禁錮刑、ドイツ司法機関が懸命の追跡 親衛隊の大物はみな死亡、残るは下級隊員”. 47NEWS (2022年12月11日). 2022年12月12日閲覧。
  31. ^ Gordon J. Horwitz, "Places Far Away, Places Very Near: Mauthausen, the camps of the Shoah, and the bystanders" in Omer Bartov, ed. The Holocaust.

参考文献[編集]

  • Gilbert, Martin: Holocaust Journey: Travelling in Search of the Past, Phoenix 1997. This book gives an account of the sites of the extermination camps as they are today, plus a great deal of historical information about them and about the fate of the Jews of Poland.
  • Klee, Ernst: “‘Turning the tap on was no big deal’?The gassing doctors during the Nazi period and afterwards”, in Dauchau Review, vol. 2, 1990
  • Bartov, Omer, ed.: The Holocaust, 2000
  • Gross, Jan T.: Neighbors: The Destruction of the Jewish Community in Jedwabne, Poland, 2002
  • Levi, Primo: The Drowned and the Saved, 1986

外部リンク[編集]