第二次世界大戦期アイルランドの局外中立

ドニゴール県マリン・ヘッド英語版にある航空機に中立国アイルランド(エール 英語では「アイルランド」)の領域である事の注意を呼び掛けるマーキング。

第二次世界大戦期アイルランドの局外中立ヨーロッパで第二次世界大戦英語版が勃発した際、アイルランドの首相エイモン・デ・ヴァレラの提案によりウラクタス (アイルランド議会)が採用した政策である。 第二次世界大戦中、所期の標的であるイギリスからそれたドイツ軍機による誤爆や、連合国軍と枢軸国軍の双方によるアイルランド商船への攻撃英語版が複数あったにもかかわらず、戦時中を通じてこの政策は維持された。デ・ヴァレラは連合国枢軸国に加わる事を控えたが、ドイル・エアランではドイツだけではなくイギリスによる侵攻の可能性についても議論され、いずれかの不測の事態に備えて準備が行われたが、最も詳細な計画は連合国と連携して行われたプランW英語版であった。 戦争中、デ・ヴァレラの与党であるフィオナ・フォイルは中立政策を支持し続けた。

この時代は現在のアイルランド共和国で、通常の政府機能を停止するため採用された憲法条項の文言に基づく「非常事態英語版」という呼称で知られている。

中立政策を遂行するためには中立を厳格に遵守する事と、戦争当事者のいずれか一方からの侵攻を撃退・抑止したりするための現実的な措置を講ずる事の間でバランスをとる必要があった。

公式の立場として中立政策を採用していたにもかかわらず、連合国機にドニゴール回廊英語版の飛行を許可した事や、大西洋の詳細な天気予報などの情報交換を含む連合国とアイルランドの情報機関の間の広範な協力など、非公然に多くの中立違反が行われた。例えば、ノルマンディー上陸作戦の実施はメイヨー県ブラックソッド湾英語版からの気象報告によって決定された[1]

戦前の対英関係[編集]

1939年当時のアイルランドは名目上大英帝国自治領にしてイギリス連邦の一員であった。アイルランドはアイルランド独立戦争を経てイギリスから事実上の独立を果たしていたし、1921年に結ばれた英愛条約はアイルランドを「主権、独立、民主主義国家」であると宣言していた。1937年には国民投票新たな憲法が制定された。第一次世界大戦の時とは異なり、1931年ウェストミンスター憲章の制定によって、イギリスが戦争に突入英語版してもアイルランドを含む自治領が自動的に参戦する義務はなくなっていた。 アイルランドとイギリスの関係は長年にわたる緊張が続いており、例えば1938年まで両国は英愛貿易戦争英語版を行っていた[2]

それでも、アイルランドがイギリス国王との微妙な関係を断絶する事はなく英語版、名目上の関係が最終的に終了したのは1948年制定のアイルランド共和国法が施行されてからだった。憲法改正後にアイルランド国家の代表者がイギリス連邦会議に出席したり、関係する業務に参加したりする事はなくなったが、イギリスの1949年アイルランド法英語版がアイルランドの共和国宣言を受け入れ、正式にイギリス連邦加盟の終了を認めるまで正式な加盟国であり続けた。

イギリス王のジョージ6世に残されたわずかな権限に加え、1937年制定の憲法で新たに創設されたアイルランドの大統領の職務として「国防軍の最高指揮権者」であると規定された[3]

国内関係[編集]

アイルランドの中立政策はアイルランドの国民にも支持された[4]アイルランド国民はイギリス軍に入隊する事が可能で、少なくとも50,000人のアイルランド人がイギリス陸軍に入隊したのをはじめ、商船隊英語版イギリス空軍で任務に就き、中にはブレンダン・フィヌケーンのようにエース・パイロットとしてイギリス空軍史上最年少で中佐への昇進を果たす者も現れた。

4,983人のアイルランド国防軍の隊員がイギリス軍や連合国軍と共に戦うため脱走したが、戦後、彼らは差別に直面し、年金受給資格を失った上、公職に就く事を禁じられた。2013年になってようやく彼らはアイルランド政府によって正式に恩赦された[5]

また、24万5,000人に旅券や身分証明書が発行され、イギリスに出稼ぎに行く事が可能になった[6]。1939年の英独開戦時、一部のアイルランド共和主義英語版者が第三帝国に肩入れし、ドイツの勝利が統一アイルランド英語版につながると信じた。

国家がナチズムとの道義的な戦いから目を背けているという非難に応える形で、1941年外相英語版ジョセフ・ウォールシュ英語版は次の様に述べている[7]

…アイルランドのような小国は自国を除いて、正義の擁護者としての役割を果たせず、また引き受ける事もできません…我が国民の存立こそ、他のすべての考慮事項に勝る優先事項です…いかなる政府も国民に一定の破壊を求める権利はありません。彼らは生き残る唯一のチャンスを掴んで外に出なければなりません。

1939年9月1日ドイツポーランド侵攻を受け、急遽招集された議会は緊急事態を宣言した。その日に議会で可決された国家緊急権法英語版は、翌日の9月3日に施行された。この法律はその前年のスデーテン危機の際に作られたイギリスの草案を幅広く参考にした物だが、いくつかの点においてアイルランドの法律はより抜本的とみなされていた。主な規定は以下の通りである[8]

政府は公共の安全を確保するため、若しくは国家の保全のため、又は公の秩序の維持のため、又は共同体の生活に必要な物資及びサービスの供給及び管理のため、政府が必要と認める場合にはいつでも、かつ随時命令(この法律では緊急命令という)によりその規定を定める事ができる。

このように広範な行政権限を手にしたデ・ヴァレラ内閣は、発生する可能性のあるあらゆる問題に取り組み、国家の中立政策との矛盾を抑制する事に着手した。ラジオのニュース番組の検閲によって、アナウンサーの役割はコメント抜きで両陣営のニュースを読む事に限定された。その一方で、戦争に関与する航空機や船舶への不用意な援助を防ぐために、天気予報は停止された。 通常、どちらか一方の側に有利な印象を与える意見の公的な表明は弾圧を受けた。「戦争」という言葉そのものが避けられ、アイルランド政府は1939年から1945年までのヨーロッパの状況を「非常事態」と称していた。

しかし、10代のジョージ・コール英語版はイギリスの宣戦布告を受け、ダブリンの街頭でネヴィル・チェンバレンをかたどった人形が警察の干渉を受ける事なく公然と燃やされる光景を目撃し、次のように感じた[9]

...アイルランド人は、当時のイギリスに対し途方もない反感を抱いていました...それは恐ろしい事だったと言うのは控えめな表現でしょう。

この頃アイルランドの社会・経済状況は厳しい物で、賃金は停滞したが物価は上昇した。燃料や食料品の不足も深刻であった一方で、国境を越えた密輸や闇市場が一種のブームになった[10]

ダグラス・ハイド大統領はアイルランド国教会に属していたが、その信者のほとんどは元ユニオニストで親英派であった。彼が1943年プロテスタント信者英語版が大勢出席したある結婚式に招待された際、彼の秘書は花嫁から「イギリス王に乾杯したり、イギリス国歌を歌うなどの好戦的な示威を行わない」という保証を受けていた[11]

戦争への前奏[編集]

アイルランド政府はヨーロッパでの戦争がアイルランド内戦の古傷を刺激する結果になる事を憂慮していた。アイルランドには親ファシストと反ファシスト運動が存在し、IRAは独自の課題を追求し続けていた。

元IRAの司令官であり、フィナ・ゲールの創立者でもあるエオイン・オダフィー英語版将軍は1932年から翌年にかけてファシスト組織であるブルーシャツ英語版の指導者だった[12][13]。第二次大戦期にアイルランドの首相を務めたエイモン・デ・ヴァレラアイルランドのユダヤ人英語版を一貫して支援してきた功績が認められ、それを記念してイスラエル彼の名前が付けられた森英語版が存在する[14]1936年に勃発したスペイン内戦で敵対する双方の陣営で2つのアイルランド人部隊が戦っていた。オダフィーのアイルランド人旅団英語版フランコ率いる反乱軍に加勢し、国際旅団アイルランド人部隊英語版共和国側で戦ったが、どちらも政府の支援は受けていなかった。

開戦前の半年間には、新指導者となったショーン・ラッセル英語版のもとでアイルランド共和国軍の活動が活発化し、イギリスでのテロ活動英語版を繰り広げた。1936年までIRAの活動を容認していたデ・ヴァレラは、1939年対国家攻撃法英語版を制定して対応した。9月に世界大戦が勃発すると、破壊活動は国家の安全を脅かす物と見なされるようになった。アイルランドの港を空軍と海軍のために確保する事を求めるイギリスが、アイルランドへの侵攻や港湾の強制的な接収の口実としてテロ攻撃を持ち出す可能性や、ヨーロッパの同盟国に支援を求めるアイルランド共和主義の伝統に沿ったIRAがドイツの情報機関と連携し、それによってアイルランドの中立政策が危うくなる可能性が指摘された。[要出典]

1940年5月、この危惧はラッセルがIRAの武器と支援を得るためにベルリンを訪れた事で現実の物になった。彼はドイツ軍から訓練を受けたが、ドーブ作戦英語版の一環としてアイルランドに戻る間に潜水艦で死亡した[15]。少数で準備が不十分なドイツの工作員がアイルランドに派遣されたが、到着した工作員はすぐに軍事情報局(G2)英語版によって捕らえられた。活動的な共和主義者はカーラ・キャンプ英語版に拘留されるか、懲役刑を言い渡された。新たに制定された反逆罪で6人の男が絞首刑となり、さらに3人がハンガーストライキで死亡した[16]。 次第にドイツはIRAの能力を過大評価していた事に気づくようになった。 1943年までにIRAは壊滅状態になっていた。配給や経済的な圧力にもかかわらず、アイルランドの中立政策は支持を受け続けた[17]

港湾と貿易[編集]

戦争が始まった時、アイルランドはかつてない孤立状態に置かれていた[18]独立以来、海運は放置状態のままで[19][20]、アイルランドがそれまで頼みにしていた外国船の利用は減っていた[21]中立国であるアメリカの船舶は「戦域」に入る事を拒んだ[22]。開戦時にはアイルランドは56隻の船を擁し、戦争中に15隻が購入またはリースされ、20隻の船を喪失した。エイモン・デ・ヴァレラ首相1940年聖パトリックの祝日に行った演説の中で嘆いた。

交戦国の活動と船舶不足が原因で、これほど効果的に封鎖された国はありませんでした。そのほとんどが沈没し、通常の供給源とのすべてのつながりが事実上断たれました[要出典]

この時代、少数のアイルランド商船は必要不可欠な海外貿易を続け、アイルランド人船員たちは「ロングウォッチ」と呼んでいた。彼らは非武装で通常はアイルランドの三色旗を掲げて単独航海していた。彼らは明るい照明をつけたり、側面甲板に大きな文字で国名であるエールと三色旗を描いたりして、自分たちが中立国の船舶である事を認識させようとしたが[23]、戦争に参加していない船員の2割が死亡した。連合国護送船団は生存者を救助するため、しばしば停止する事ができなかった[24][25] アイルランド船は常にSOSの通報に応じ、救助のために船を停止させた。アイルランド船員は双方の船員を救助したが双方から攻撃を受け、主として枢軸国から攻撃を受けた。商船により重要な輸入品が到着し、主にイギリス向けの食料品の輸出が行われ、521人の命が救助された[26]

多くのイギリス船はアイルランドの造船所で修理された[27]

たいびたびになっていたにもかかわらず、Uボートがアイルランドを給油基地として使用したことは一度もなかった[28]。この噂の起源は、1939年にUボートの司令官ヴェルナー・ロット英語版が金属鉱石を積んでイギリスに向かっていたギリシャの貨物船を沈めた後、ドイツの潜水艦U-35英語版によって救出された28人のギリシャ船員をアイルランドの海岸に置き去りにした件に由来する可能性が高い[29]。この事件はアメリカの人気雑誌「ライフ」の1939年10月16日号の表紙に掲載された。このニュースは広く報道され、捕虜となったギリシャ人が降ろされる所を目撃した地元の人々は、不法侵入したUボートが沿岸防衛機が向けられる前に立ち去り、再び潜航した事を指摘した[29][30]

外交政策[編集]

理念[編集]

デ・ヴァレラにとってアイルランドの中立性を強調する目的は、アイルランドの主権の保全にあり、中立政策を貫く事で合理的な目標とイデオロギー的な目標の双方を達成した[要出典]アイルランド独立戦争の闘士たちは、アイルランドの独立を達成するためイギリスの敵と同盟を結ぶ準備ができていたが、その間にも、アイルランドの独立のためにはイギリスとの同盟を結ぶ必要があると考えていた。 彼らは独立達成後にそのような政策を継続する事は、挑発的で危険である事を認識していた。デ・ヴァレラは早くも1920年2月に次のような指摘をしている[31]

イギリスの独立が深刻な脅威にさらされている事を認識した瞬間に独立アイルランドの存在も危うくなる。双方が独立国である限り、これらの2つの島の人々どちらかに真の国家的危機が到来した瞬間、相互の自己利益により最も近い同盟国になる。

この発言は、デ・ヴァレラが1918年にアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領にアイルランド共和国を独立国として正式に承認する事を求める書簡を送った際、早くも次のように述べていた点を反映した物である[31]

アイルランドは条約により、外国勢力がアイルランドを攻撃の拠点とする危険からイングランドの安全を確保する準備が完全にできています。

デ・ヴァレラは1936年イタリアがエチオピアを占領した後、国際連盟で次のように述べている[32]

平和の存在は大国の意思にかかっています。もし、大国の政治家が彼らの義務を果たさなかった場合、すべての小国がとれる手段は彼らがどんな巨大な力の道具にもならない事、そして、彼らが自らの意志に反して戦争に追いやろうとするあらゆる試みやどんな力にも抵抗するであろう事を断固として決定する事です。

戦争が勃発する数ヶ月前、デ・ヴァレラはAP通信を通じて声明を出し、1939年2月20日に新聞に掲載された[33]

アイルランド国民と政府の願いは、わが国を戦争から守る事であり、政府の政策目標は、戦争が起こった場合にわが国の中立性を維持する事である。私たちの目的を確実にするための最善にして唯一の方法は、誰も私たちを攻撃したり、私たちの領土を侵害する事が免責されるのを望めないように、自分自身を守るために可能な限り最善の位置に身を置く事である。私たちがイギリス以外の国から攻撃された場合、もちろんイギリスは自国の利益のため、攻撃を撃退する我々を助けなければならない事も承知している。

1940年のアイルランド分断終結提案[編集]

ナチス・ドイツのフランス侵攻の最中である1940年6月17日から終結後の6月26日にかけて行われた一連の会議で、イギリスの特使であるマルコム・マクドナルド英語版はアイルランドが中立を放棄し、独伊との戦争に参戦する事を条件に「アイルランド統一の原則」を受け入れてアイルランドの分断英語版を終結させる提案を行った。 しかし、統一の実現には「エール政府と北アイルランド政府英語版の代表者」の合意が必要であり、双方の代表者は相互に激しい不信の念を抱いていた。その結果、7月4日にデ・ヴァレラは「我々が中立政策をただちに放棄する」事で「最終的にアイルランドが統一されるという保障はない」として提案を拒否した[34]。デ・ヴァレラはアイルランドの分断に反対しており、彼の起草による1937年の憲法には「アイルランド島全体」をアイルランド国家の領土と規定する民族統一主義に基づく条項が存在した。戦後もデ・ヴァレラは分断の解消を求め続けたが、1970年に伝記が出版されるまで、マクドナルドの提案とそれをデ・ヴァレラが拒否した事実が公表される事はなかった[35]

複合効果[編集]

1941年4月、オーストラリアメンジーズ首相がベルファストダブリンを歴訪し、デ・ヴァレラおよび北アイルランド首相のジョン・M・アンドリュース英語版と個人的な会談を行った際、再びアイルランドの参戦問題が提起された。その後、メンジーズはチャーチルにアイルランドの統一と主権の問題は複雑であり、アイルランドが中立政策を放棄する可能性はほとんどない事を報告した[36]

イギリスが戦争の前年に解放したアイルランドの条約港英語版の存在なしに、独立したアイルランドがイギリスの軍事能力や貿易の安全性に深刻な不利益をもたらし、受忍の程度を超えると判断された場合には侵攻を招く可能性があった。もし、アイルランドの主権を維持したいなら、中立政策を意識的にイギリスの利益になるように舵取りしなければならなかったのである。アイルランドは他の中立国と同様に「...自分たちを最も脅かす可能性のある国のために中立であった [37]。」戦争中、デ・ヴァレラを「ナチスのシンパ」と非難した北アイルランドの首相クレイガヴォン卿英語版はダブリンにアイルランド島全体の総督府を設置する前に、スコットランドとウェールズの軍を侵攻させて「南アイルランド」を制圧するようチャーチルに求めたが、この提案はロンドンによって却下された。 その一方でチャーチルはバーナード・モントゴメリー陸軍元帥にコークとクイーンズタウン(コーヴ)を占領した上で海軍基地とする作戦を立案するよう指示した[38]。 一連の経緯は第一次世界大戦当時とは異なり、より優れた潜水艦探知能力とアイスランドの軍事基地の存在によって連合国にとってアイルランドの港湾の重要性が低下した事を意味していた[39]

戦争終結時、クランボーン子爵はアイルランド政府が「中立政策をあからさまに害すると見なされない施設を我々に与えてくれた」事やイギリスの戦時内閣と協力関係にあった事を認めた[40]。 英愛両国の機関同士の協力関係は、開戦時、デ・ヴァレラが主として沿岸警備のためにアイルランドの特定空域の使用を許可した事で始まった。ファーマナ県と海をはさむアイルランド領の狭い帯状の「ドニゴール回廊英語版」の使用許可は重要な意味を持っており、1941年秋までに、この回廊の使用が日常茶飯事となっていた[41]。一方でデ・ヴァレラはアイルランドの港湾の直接使用を求めてきたイギリスの申し入れを拒否したが、M・E・コリンズによれば、「厳格な中立が許す範囲を超えて友好的だった[42]。」このような協力関係が下地となり、ドイツ軍が中立国デンマークノルウェーオランダルクセンブルクベルギーを制圧した後の情勢を検討するための会議が開かれるようになった。フランス陥落の3日後、デ・ヴァレラの招待でアイルランドとイギリスの国防当局者が会合を開き、ドイツ軍がアイルランドに上陸した場合に、占領した後にイギリスに侵攻するための足掛かりとしてアイルランドを利用しようとする外国軍を撃退する方策を議論した(プランW英語版)。クランボーン子爵が述べたように戦争が続く間、会議は継続して行われ、さらなる対話を促進した。

開戦前、デ・ヴァレラは1938年からアイルランドのドイツ大使を務めていた外交官エドゥアルド・ヘンペルドイツ語版博士と会談した。議題はアイルランドとイギリスとの貿易関係が緊密である事や、イギリスの利益が脅かされた場合アイルランドに侵攻する事が容易である事などであった。 その後、ヘンペル大使はベルリンに「アイルランド政府がイギリスに一定の配慮を示す事は必然となった」 と伝え、軍関係者にはイギリスのアイルランド侵攻を正当化する口実となるような行動を避けるよう促した[42]1940年6月中旬、ジョー・ウォルシェ外務次官は「ドイツの戦勝に大きな賞賛の意を表した」と述べた。ヘンペルはドイツに対して「世界情勢の変化と民主主義国の明らかな弱さについて、アイルランドにとってさえも大きく決定的な重要性がある」と手紙を書いている。ヘンペルは以前、駐在先の習慣を「述べられてる事象のすべてを説明せずに、快い事をいう」と述べており、アイルランド人の意図をよく理解していたのかも知れない[42]

ナチス・ドイツに向けたアイルランド人の視線の他の例として、1940年中旬時点でデ・ヴァレラのベルリン駐在大使を務めていたウィリアム・ウォーノック(William Warnock)が挙げられている。 「彼のイギリスに対する「疑う余地のない」敵意は国家社会主義に同情的であると解釈するのは容易である[43]。」研究者のJ・J・リーは、7月19日クロルオーパーで行われたヒトラーの演説に対するウォーノックの熱狂が、ドイツの勝利後に期待される「国際的な正義」への真の熱意ではなく、潜在的な勝利者を喜ばせようとするダブリンの指示に固執していたのではないかと疑問を呈した[要出典]。3年後の1944年、戦局が逆転し、ドイツ勝利の可能性が遠のくとアイルランドの対独関係は一転した。このような状況の中で、かつて「好意的な事をいっていた」アイルランド政府は「役立たずで回避的」になったとヘンペルは指摘している[44]

駐アイルランドアメリカ合衆国大使英語版デヴィッド・グレイ英語版は、ドイツの降下猟兵が「デリーを解放したらどうするか?」とデ・ヴァレラに尋ねた事があると述べている。グレイによれば、デ・ヴァレラはしばらく沈黙した後「わからない」と答えたという[45]

ヒトラーの死に弔意[編集]

アイルランドはドイツと日本の公館の閉鎖を拒否して、最後まで公然と中立の立場を維持し、1945年5月2日にはエイモン・デ・ヴァレラ首相がアイルランドに公館を置く国の国家元首が没した場合の通例に従い、ヘンペル大使を個人的に訪問し、アドルフ・ヒトラーの死を悼む記帳を行った。翌日、ハイド大統領もヘンペル大使を個別に訪問した[46]。他国に駐在するアイルランドの使節もそれに倣ったが、他の西ヨーロッパの民主主義国でアイルランドに倣った国はなかった[47]。 この弔問はアメリカで抗議の嵐を巻き起こした[48]

デ・ヴァレラは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所の報告を「反国家的なプロパガンダ」として非難した。ポール・ビュー英語版によれば、これは不信感からではなく、むしろホロコーストがアイルランドの中立政策の根底にある前提条件、すなわち連合国と枢軸国の間の道徳的同等性英語版やアイルランド人はヨーロッパで最も迫害されている民族であるという理念を損なったからである[49]

ユダヤ人難民に対する立場[編集]

ヨーロッパから逃れてきたユダヤ人難民の受け入れに対し、アイルランドは消極的な立場であった。戦時下のアイルランド当局は、一般的に難民を受け入れない口実として2つの理由を提示した。それは、彼らが国家を過密にしてアイルランド人の職を奪う事と、大規模なユダヤ人コミュニティの存在によりアイルランド人の間で反ユダヤ主義的な感情を煽る事になるだろうという理由であった[50]。 第二次世界大戦中、アイルランド国内には反ユダヤ感情が存在したが、最も注目すべき事例として1943年に新たに選出された無党派のドイル・エアラン議員オリバー・J・フラナガン英語版が「ユダヤ人を国外に追い出す」事を提唱した悪名高い演説がある[51][52]

戦時中および戦後を通じて、アイルランド政界はユダヤ人のホロコースト犠牲者に対し政治的に無関心だった。この無関心は、後にマイケル・マクダウェル英語版司法相英語版によって「反感、敵意、無感情」と評される事になる[53]ユニバーシティ・カレッジ・コークのマーヴィン・オドリスコル博士は、ユダヤ人がアイルランドに避難する事を妨げた非公式および公式の障壁について報告した。

公然とした反ユダヤ主義が典型だったとは言えないまでも、南アイルランド人はナチスによるユダヤ人や第三帝国から逃れてきた人々への迫害には無関心だった....1938年に移住申請が受け入れられた人物の典型は、オーストリア出身のカトリック教徒、独身の裕福な中年もしくは高齢者で、アイルランドで引退生活を送る事を希望し、就職は望まないというケースだった。ウィーンのユダヤ人銀行家や実業家で、カトリック教徒という基準を満たしていた者はわずかだったが、該当者は国の経済活動に関与する事なく快適な生活を送れた[54]

アイルランドはイギリス最後のとりで?[編集]

ドナル・マッキャロンは著書「Wings over Ireland - History of the Irish Air Corps」の中で、機密にされていたラスダフ飛行場について詳細に説明している。彼によれば、早くも1940年の夏に英愛両政府はイギリス侵攻が成功する「終末のシナリオ」を懸念していたという。 イギリス空軍はアイルランドでの戦闘を継続するために少なくともひとつの飛行場を必要とし、アイルランド軍とイギリス軍はアイルランド南部の飛行場を密かに探していた。アイルランドの他地域はリムリック近郊のリエアンナ飛行場ダブリン空港ダブリン近郊のバルドネル飛行場英語版でカバーできるため、イギリス空軍は南東の海岸近くの位置を熱望していた。

一方でアイルランド軍は、その位置がドイツ軍の急速な侵攻で破られる事を危惧して反対したので、最終的にはティペラリー県南部のギャルティ山脈英語版の東に位置するシュア川英語版の渓谷に建設する事で合意した。 アイルランド軍は、ドイツが侵攻してきた際に使うため7マイル離れた修道院の学校の近くに極秘で司令部を建設していたため、その点でも好都合だった。ラズダフという名称の由来はそのような名前がミュンスターの至る所で見られる事から、偽装目的で選ばれた。いずれの位置も、通常の軍事作戦のための境界線からは完全に外れていた。

1941年にヒトラーが独ソ戦を開始した事で、イギリス侵攻の可能性は遠のいた。1942年秋、アイルランド陸軍は4年間の計画と訓練の成果を試すため大規模な演習を行うことを決定した。演習の一環として、機密だった「ラスダフ」が一部公開され、演習中はアイルランド第2師団の飛行場として使われた。演習後、「ラスダフ」の土地は以前の用途であるサラブレッド牧場に戻った。

ヨーロッパ戦勝記念日[編集]

ウィンストン・チャーチル1945年5月13日に行った連合国のヨーロッパでの勝利を祝う演説の中で、アイルランドに対して自制心を示した理由を次のように述べている。

私たちは決して彼らに暴力的な手段をとる事はなく、時にそれは非常に簡単で自然な事でした。

1940年5月、イギリスは中立のアイスランド英語版を占領していた。 数日後、デ・ヴァレラはチャーチルが「既に血塗られた」英愛関係に「もうひとつの新たな恐怖の章」を追加しなかった事を認める一方で、次のように尋ねた[55][56]

...1年や2年ではなく、数百年間、敗北を受け入れず、魂を決して明け渡す事なく侵略に抗して単独で存在し続けた小国の存在を認める寛大さを彼の心の中に見出す事ができなかったのでしょうか?...

さらに、彼は次のように付け加えた。

私は仮定の質問をしたいと思います。これは先の戦争以来、多くのイングランド人に投げかけた質問です。ドイツが戦争に勝利し、イングランドを侵略し占領したとします。そして、長い時間の経過と多くの苦闘の末に、最終的にドイツはイングランドの自由の権利を認めて解放しました。でも、イングランド全体ではなく南部の6つの県を除いた部分の解放です。

これら南部の6県は、狭い海の入り口に位置していたとしましょう。ドイツはイングランド全体を抑え込み、ドーバー海峡を通じて独自の交通要衝を維持するため、この6つの県を選び、自国で領有し続ける事を主張したのです。

さらにこのような経緯の後、ドイツが多くの小国の自由の味方である事を誇示できるような大戦争を戦っていたと仮定してみましょう。チャーチル氏は自国が他国と同じように自由への権利を持つと信じるイングランド人として、単に一部のための自由ではない自由への権利を持つでしょう。ドイツが6県を占領して国家を分断したままの状況で、彼は分断されたイングランドを率いて、ドイツと共に十字軍に加わるでしょうか?私はチャーチル氏がそうするとは思えません。

ヨーロッパ戦勝記念日以降、戦争に関与しなかった事とその後のヨーロッパの進路を決定づける惨状の意味は、歴史的な議論の対象となっている。ヨーロッパのほとんどの国が共有していた惨状とアイルランドがそれを回避した事は、F・S・L・ライアンズによって次のように表現されている。

戦争の緊張と解放、共有された経験、苦しみの中の同志、未来についての新たな思考、これらすべてが彼女の前を通り過ぎてしまった。それは、ある民族全体がプラトンの洞窟の中で、命の火を背景にして生きる事を宣告されたような物で、彼らの背後を行き交う男女が目の前の壁に投げかけたゆらめく影から、外界で何が起こっているのかについての唯一の知識を得ていた。6年後、彼らが洞窟から日の光の中に姿を現した時、そこには新しくて広大な別世界が広がっていた[57]

R・ファニングがこれに応えて次のように書いている。

革命から内戦続きの上、依然としてIRAが暴力的な信条を提唱している状況で、人々は戦争の解放的価値に疑問を抱いていたかも知れない[58]

クランボーン報告[編集]

1945年2月21日、イギリスの自治領大臣クランボーン子爵は、1939年から1945年にかけてのアイルランドとイギリスの協力関係について、イギリスの戦時内閣にあてた報告を書いている[59]

  1. 彼らは、我々がフォイル湖英語版を海軍と空軍の作戦目的で用いる事に同意した。フォイル湖はその領有権をめぐって争われているが、南アイルランド当局は現在の所その主張を封印しており、また、風向きによっては我々の飛行艇がフォイル湖から離陸するため必要なドニゴール湖畔の飛行も黙認している。
  2. 彼らは、我々の航空機がアーン湖から大西洋に向けて飛行するため、南アイルランドの領土および領海上の回廊英語版を使う事に同意した。
  3. 彼らは、沿岸監視所英語版から受けた潜水艦活動の報告をただちにダブリンのイギリス駐在事務所に送るよう手配した。
  4. 彼らは、南アイルランド領内で目撃されたり接近したりした航空機について、彼らの航空観測隊が広く報告するよう手配した。これには、上記(2)で言及されている通路を飛行する我々の航空機は含まれていない。
  5. 彼らは、沿岸部での貿易やドイツの航空機にとって有益な目印を提供すると見られるビジネス照明の消灯を手配した。
  6. 彼らは、引き続き我々に気象報告を提供し続けている。
  7. 彼らは、我々の船舶や航空機がマリン・ヘッド英語版にある2か所の無線探知局を使用する事に同意した。
  8. 彼らは、ドイツ軍の墜落機、漂着者や陸地で捕えられた人員の情報を提供している。
  9. ドイツ軍が南アイルランドに侵攻した場合の協力関係について、関係者同士の会合の場が設けられ、それ以来、両国の軍当局は緊密な連絡を取り合っている。
  10. 彼らは、南アイルランドに到達したすべてのドイツ兵を収容し続ける一方で、長期にわたる交渉の末、連合国軍人は自由に出国する事ができるようになり、損傷した航空機の回収に全面的な支援が受けられるようになった。
  11. 最近、北アイルランドに捕虜収容所を設置した件の関連で、彼らは、北アイルランドから脱走したドイツ人捕虜を南アイルランドから国境を越えて送還するか、少なくとも抑留する事に合意した。
  12. 彼らは、イギリス軍への入隊を希望する人々が南アイルランドから出国する事や、またはそのような人々が旅行休暇の際、私服姿で南アイルランドを往来する事に異議を唱えなかった。
  13. 彼らは、南アイルランドに滞在するドイツ人を含むすべての外国人について、わが国の治安当局と情報交換を続けている。
  14. 彼らは、ここ数日の内に、最新の潜水艦活動に対抗するため、南アイルランドにレーダー基地を設置する事に同意した。

国際連合加盟への影響[編集]

中立政策の結果、アイルランドの国際連合加盟の時期は相当ずれ込んだ。安全保障理事会常任理事国であるソビエト連邦は、アイルランドの加盟申請に対して、1946年から1955年12月まで拒否権を行使し続けた[60]1942年から1945年にかけて使われた「国際連合」という言葉は、常に第二次世界大戦の連合国を指していた。1946年、アイルランドは国際連盟の解散を受けて、国際連合への加盟を申請していたが、国際連盟最後の事務総長はアイルランドの外交官であるショーン・レスターであった[61]

1955年3月、リーアム・コスグレイヴ英語版外相は「安全保障理事会で反対意見に阻まれているが、アイルランドは国連加盟申請を継続する」と発表している。アイルランド政府は外交上の理由から、異議の理由やどの国が異議を唱えたかについても言及しなかった。 ショーン・マクブライドはアイルランドの国連加盟拒否は、1945年ヤルタ会談でチャーチルとスターリンの間で初めて合意されたと見ている[62]1955年12月15日ジョン・A・コステロ首相はアイルランドが国際連合に加盟した事を発表した[63]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ See Duggan p.180 Duggan, John P. Herr Hempel at the German Legation in Dublin 1937–1945 (Irish Academic Press) 2003 ISBN 0-7165-2746-4
  2. ^ Mansergh, Nicholas (1968). Survey of British Commonwealth affairs: problems of wartime co-operation and post-war change 1939–1952. Routledge. p. 59. ISBN 978-0-7146-1496-0. https://books.google.com/books?id=4reb6_TOYjsC&pg=PA59 
  3. ^ ^ アイルランド憲法第13条4項「国防軍の最高指揮権は大統領に属する」
  4. ^ O'Halpin, Eunan, 1999, Defending Ireland: The Irish State and its enemies since 1922, Oxford: The Oxford University Press. p. 151
  5. ^ Pardon for WWII Allies deserters — The Irish Times — Tue, Jun 12, 2012”. The Irish Times (2012年6月12日). 2013年1月23日閲覧。
  6. ^ History Ireland”. 2021年2月20日閲覧。[リンク切れ]
  7. ^ Collins, M.E., 1993, Ireland 1868-1966, Dublin: the Educational Company of Ireland. p. 371
  8. ^ Fanning, R., 1983, Independent Ireland, Dublin: Helicon, Ltd.., p 122
  9. ^ Cole G. and Hawkins B; The world was my lobster, John Blake Publishing (2013) chapter 2.
  10. ^ Bryce Evans, Ireland during the Second World War: Farewell to Plato's Cave (Manchester University Press, 2014)
  11. ^ Horgan, John (1998年2月21日). “An Irishman's Diary” (英語). The Irish Times. https://www.irishtimes.com/opinion/an-irishman-s-diary-1.136956 2019年2月20日閲覧。 
  12. ^ IRISH SECRETS: GERMAN ESPIONAGE IN WARTIME IRELAND, 1939–1945 Archived 30 September 2009 at the Wayback Machine.
  13. ^ The Jews of Ireland.”. 2005年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月21日閲覧。
  14. ^ Tracy, Robert (1999年). “The Jews of Ireland”. bNet.com. pp. 7. 2014年11月30日閲覧。
  15. ^ Seán Cronin: Frank Ryan, The Search for the Republic, Repsol, 1980. pp. 188–190
  16. ^ Collins, M.E., 1993, Ireland 1868-1966, Dublin: the Educational Company of Ireland. p. 373
  17. ^ The Earl of Longford and Thomas P. O'Neill: Éamon de Valera. Gill and MacMillan, Dublin, 1970. pp. 347–355
  18. ^ Ferriter, Diarmaid (2006). What If? Alternative Views of Twentieth-Century Ireland.. Gill & Macmillan. p. 100. ISBN 978-0-7171-3990-3. "(ガービンの言葉を引用して)当時のアイルランドの孤立主義は、非常に強力な文化的感情であった。" 
  19. ^ McIvor, page 16
  20. ^ Gilligan, H.A. (1988). A History of the Port of Dublin. Dublin: Gill and Macmillan. p. 166. ISBN 0-7171-1578-X 
  21. ^ Spong, page 11. 1941年4月から1942年6月の間、アイルランドにそのような船は7隻しか訪れなかった。
  22. ^ Burne, Lester H (2003). Richard Dean Burns. ed. Chronological History of U.S. Foreign Relations: 1932–1988. 2. Routledge. p. 537. ISBN 978-0-415-93916-4 
  23. ^ Fisk, page 273, 最大で4つの巨大な三色旗が各船の側面に描かれ、高さ20フィートでエールの国名が書かれていた。
  24. ^ Gleichauf, Justin (2002). Unsung Sailors. Bluejacket Books. p. 115. ISBN 978-1-55750-420-3 
  25. ^ Sinclair, Andrew (2001). Blood & Kin: an empire saga. Sinclair-Stevenson英語版. p. 561. ISBN 978-0-9540476-3-4. "...さもなくば我々は座ったままのアヒルだ。彼らが私たちに声をかけても、私たちは溺れている船員たちの横を通り過ぎ、航海を続けなければならなかった。ひとりが「タクシー!タクシー!」と叫んでいたのを覚えている。私たちは止まらなかった。" 
  26. ^ Fisk, page 276
  27. ^ Sweeney, Pat (2010). Liffey Ships. Mercier. p. 227. ISBN 978-1-85635-685-5 
  28. ^ Ireland”. greyfalcon.us. 2021年2月23日閲覧。
  29. ^ a b Kerryman 1999”. www.u-35.com. 2021年2月23日閲覧。
  30. ^ “War on U-Boats”. Life Magazine (Time-Life): Cover and p. 79. (1939-10-16). https://books.google.com/books?id=RUIEAAAAMBAJ&q=%22life+magazine%22. 
  31. ^ a b Fanning, R., 1983, Independent Ireland, Dublin: Helicon, Ltd.. p. 121
  32. ^ Speech by Éamon de Valera at the League of Nations Assembly”. Documents on Irish Foreign Policy. Royal Irish Academy. pp. No. 347 NAI DFA 26/94 (1936年7月2日). 2011年3月27日閲覧。
  33. ^ Dáil Debates, 22 March 1939.
  34. ^ News from a new republic Ireland in the 1950s” (2013年3月1日). 2021年3月1日閲覧。
  35. ^ Longford, Earl of英語版 & O'Neill, T.P.英語版 Éamon de Valera (Hutchinson 1970; Arrow paperback 1974) Arrow pp.365–368. ISBN 0-09-909520-3
  36. ^ Memorandum by Mr R. G. Menzies, Prime Minister”. Department of Foreign Affairs and Trade (Australia)英語版. p. 1 (1941年4月10日). 2008年12月27日閲覧。
  37. ^ Lee, J.J., 1989, Ireland 1912–1985, Cambridge: University of Cambridge. p. 244
  38. ^ Churchill had Plan to Invade 'Nazi' Ireland”. Winstonchurchill.org (2010年3月21日). 2012年3月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月1日閲覧。
  39. ^ Winston Churchill & Éamon de Valera: A Thirty Year "Relationship"”. Winstonchurchill.org. 2010年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月1日閲覧。
  40. ^ Fanning, R., 1983, Independent Ireland, Dublin: Helicon, Ltd.. p. 124-5
  41. ^ Kennedy, Michael (2008). Guarding Neutral Ireland. Dublin: Four Courts Press. p. 148. ISBN 978-1-84682-097-7 
  42. ^ a b c Collins, M.E., 1993, Ireland 1868-1966, Dublin: the Educational Company of Ireland, pg. 374
  43. ^ Lee, J.J., 1989, Ireland 1912–1985, Cambridge: University of Cambridge, pg. 248
  44. ^ Lee, J.J., 1989, Ireland 1912–1985, Cambridge: University of Cambridge, pg. 253
  45. ^ Bew, Paul (2007). Ireland: The Politics of Enmity 1789–2006. Oxford: Oxford University Press. p. 468. ISBN 978-0-19-820555-5. https://archive.org/details/irelandpoliticse00bewp. "そして彼はこう付け加えた。「この事は誰にも言わないで下さい。噂になるかもしれませんから」" 
  46. ^ “Hyde (and de Valera) offered condolences on Hitler's death”. Irish Independent. (2005年12月31日). http://www.independent.ie/national-news/hyde-and-de-valera-offered-condolences-on-hitlers-death-228426.html 2012年4月26日閲覧。 
  47. ^ “The Irish Nationalist And The Nazi: When Éamon de Valera Paid His Respects To Adolf Hitler”. International Business Times. (2013年9月10日). http://www.ibtimes.com/irish-nationalist-nazi-when-eamon-de-valera-paid-his-respects-adolf-hitler-1403768 2015年6月28日閲覧。 
  48. ^ Dermot Keogh (1989年). “Éamon de Valera and Hitler”. Irish Studies in International Affairs, Vol. 3, No 1, p. 84. 2021年3月3日閲覧。
  49. ^ Bew 2007, p. 474.
  50. ^ Section on Clonyn Castle in Holocaust Memorial Day 2003 Program Booklet, January 2003, Holocaust Memorial Day. Dublin: The Holocaust Memorial Day Committee in association with the Department of Justice, Equality and Law Reform and Dublin City Council http://hetireland.org/app/uploads/2015/02/HMD2003.pdf Archived 28 September 2015 at the Wayback Machine. accessed 2015-09-27
  51. ^ Dáil Éireann - Volume 91 - 9 July 1943 Archived 2013-10-29 at the Wayback Machine. – antisemitic speech to the Dáil by Oliver J. Flanagan
  52. ^ “Horrid History: troubled past Irish-Jewish relations”. Irish Independent. (2014年8月3日). http://www.independent.ie/life/horrid-history-troubled-past-irishjewish-relations-30471952.html 
  53. ^ Republic of Ireland Archived 4 June 2011 at the Wayback Machine. – Stephen Roth Institute英語版
  54. ^ "Let's do better than the indifference we showed during the Holocaust – Irish Examiner英語版, 20 March 2004
  55. ^ Collins, M.E., 1993, Ireland 1868-1966, Dublin: the Educational Company of Ireland, pg. 383
  56. ^ Clair Wills, 2007, That Neutral Island: A Cultural History of Ireland During the Second World War
  57. ^ Fanning, R., 1983, Independent Ireland, Dublin: Helicon, Ltd.., p. 226
  58. ^ Fanning, R., 1983, Independent Ireland, Dublin: Helicon, Ltd.., p. 127
  59. ^ Fanning, R., 1983, Independent Ireland, Dublin: Helicon, Ltd.., pp 124–5
  60. ^ Elizabeth Keane – An Irish Statesman and Revolutionary: the nationalist and internationalist politics of Sean MacBride – London: I.B.Tauris Publishers ISBN 1-84511-125-7 "ソ連は、アイルランドがソ連と外交関係にない事や戦時中、アイルランドが連合国に協力せず、代わりに枢軸国とフランコのスペインに支援を提供した事を表向きの理由として、加盟申請に拒否権を行使した。おそらくアイルランドの反共主義の姿勢が大きな要因だった。 総会のメンバーは西側諸国に偏っており、ソ連は総会での地位が弱体化する事を望まなかった。" (p.150)
  61. ^ Lester, Sean, 1929– (Sub-Fonds)”. UNOG Library. 2010年11月6日閲覧。
  62. ^ Oireachtas (1955年3月29日). “Dáil Éireann debate - Tuesday, 29 March 1955”. Debates. Houses of the Oireachtas. 2018年9月28日閲覧。 ヤルタ会談がアイルランドの国連加盟申請の前年に開催され、マスコミの憶測に基づいている事を考慮すれば、これはありえない事のように思える。
  63. ^ Oireachtas (1955年12月15日). “Dáil Éireann debate - Thursday, 15 Dec 1955”. Debates. Houses of the Oireachtas. 2018年9月28日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]