竹田光訓

竹田 光訓(宋 光訓)
基本情報
国籍 大韓民国の旗 韓国
出身地 日本の旗 日本東京都荒川区
生年月日 (1962-08-09) 1962年8月9日(61歳)
身長
体重
181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1984年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1986年4月28日
KBO / 1989年
最終出場 NPB / 1988年
KBO / 1990年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

竹田 光訓(たけだ みつくに、1962年8月9日 - )は、東京都荒川区[1]出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。在日朝鮮人であり、本名は宋 光訓(ソン・グァンフン、송광훈)。

経歴[編集]

中学時代はバレーボール部に所属[1]日大一高時代は平松政次横浜大洋ホエールズ)に憧れ、彼のフォームを手本にしていた[2]。高校時代はエースとして活躍するが、3年夏は東東京大会4回戦で敗れ甲子園には出場できなかった[1]

卒業後は明治大学に進学。明治大学硬式野球部時代は、東京六大学野球リーグ3回優勝を経験。同期の広沢克己[2]とともにチームを引っ張り、1983年春季リーグ、1984年秋季リーグの優勝に貢献。1983年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、いずれもMVPを受賞している[1]。リーグ通算43試合登板、21勝9敗、奪三振172、防御率2.63、ベストナイン2回選出。他の大学同期に捕手善波達也東京ガス-明大監督)がいた。

明治大学でもエースとして君臨し星野2世と言われ、フォークボールを得意とし気持ちで勝負するタイプの投手だった。なお日米大学野球にてマーク・マグワイアと対戦し、その時にスパイクを貰っている。

1984年のプロ野球ドラフト会議では同じ明治大学の広沢や、上田和明慶應義塾大学)とともに「東京六大学ビッグスリー」と呼ばれ、目玉選手として注目された[2]。竹田には大洋、読売ジャイアンツ(巨人)、中日ドラゴンズの3球団が競合入札し、抽選の結果交渉権を獲得した大洋に入団した[注 1][2]。竹田の第一希望は巨人だったが、大洋が交渉権を獲得したことを受けて「今度は大洋のために打倒巨人で向かっていく」と発言していた[2]。右のオーバースローだったが、プロ入り直後にノーワインドアップに改造し、2年目にはスリークォーター気味になる。武器は低めに決まる速球。カーブ。決め球は落差の大きいフォーク。

同年限りで引退した平松の背番号27を継承し、大きな期待を受けたが[2]、ルーキーイヤーの1985年は一軍登板無しに終わった。

1986年にプロ初勝利を挙げる。

1987年3月28日夜、大洋二軍イースタン・リーグ)の同僚3人(宮下正彦武田康長谷川国利)とともに、神奈川県横須賀市内で飲酒してタクシーで球団合宿所(横須賀市長浦)へ帰る途中、タクシーの前をノロノロ運転していた車の運転手(18歳少年)と喧嘩になり、少年ら3人を殴って怪我を負わせたとして、暴行に加わった宮下・武田の両名とともに横須賀警察署傷害容疑で取り調べられ[注 2][5]、暴行には加担しなかったもののトラブルに居合わせた長谷川を含め、球団から無期限謹慎処分を受けた[注 3][6](同年4月14日付で解除)[8]。この事件は掛布雅之阪神タイガース)の酒気帯び運転事件や、ランディ・バース(阪神)のスピード違反に続くもので、このようにプロ野球選手の不祥事が相次いでいたことを受け、川島廣守セントラル・リーグ会長は開幕(4月10日)を2日後に控えた4月8日付で、リーグ6球団に対し球団の管理および選手生活の指導徹底を要望する異例の通知を出した[9]

1989年から1990年まで同僚の新浦壽夫もかつて在籍した韓国KBOリーグ)のサムスン・ライオンズでプレーしたが、不本意な成績に終わった。

1991年に大洋に復帰したが、一軍登板はなく、同年限りで現役を引退した[10]

現役引退後は大洋に在籍したまま、打撃投手に転身。しかし、球団名が「横浜ベイスターズ」となった1993年に打球を頭に受けて負傷した。その後は、球団広報、寮長、査定担当を経て、2009年から2011年までチーフ・スコアラーを担当。球団名が横浜DeNAベイスターズに変わった2012年からは、ファームディレクターを務めている。さらに2013年からは、浅利光博(統括マネジャー)・吉田孝司(編成・スカウト部長)とともにGM補佐を兼務する。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1986 大洋 32 0 0 0 0 1 2 0 -- .333 209 51.0 43 5 16 1 1 27 3 0 27 22 3.88 1.16
1987 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 0.2 2 0 1 0 0 0 0 0 1 1 13.50 4.50
1988 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 36 9.0 5 0 5 0 0 5 0 0 5 4 4.00 1.11
1989 サムスン 9 1 0 0 0 1 1 0 -- .500 87 17.0 22 0 18 2 2 15 3 0 20 20 10.59 2.35
1990 7 4 0 0 0 0 2 0 -- .000 79 15.2 20 2 18 1 1 5 0 0 17 16 9.19 2.43
NPB:3年 40 0 0 0 0 1 2 0 -- .333 250 60.2 50 5 22 1 1 32 3 0 33 27 4.01 1.19
KBO:2年 16 5 0 0 0 1 3 0 -- .250 166 32.2 42 2 36 3 3 20 3 0 37 36 9.92 2.39

記録[編集]

NPB
  • 初登板:1986年6月10日、対ヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)、6回表に4番手で救援登板、4回3失点
  • 初勝利:1986年6月12日、対ヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)、4回表1死に4番手で救援登板、3回2/3無失点

背番号[編集]

  • 27 (1985年 - 1988年)
  • 21 (1989年 - 1990年)
  • 42 (1991年)
  • 90 (1992年 - 1993年)

登録名[編集]

  • 竹田 光訓 (たけだ みつくに、1985年 - 1988年、1991年)
  • 宋 光訓 (ソン・グァンフン、1989年 - 1990年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 外れ1位として巨人は上田を、中日は中村武志京都・花園高校)をそれぞれ指名している[2]。上田も竹田と同じく現役選手としては大成できなかった一方、中村は2005年まで21年間(同年のドラフト指名選手としては最長)にわたり、中日・横浜(大洋の後身)・東北楽天ゴールデンイーグルスの3球団で現役選手としてプレーした[2]
  2. ^ なお、竹田・宮下・武田の3選手は同年4月13日に横須賀署から横浜地検横須賀支部へ傷害および器物毀棄の容疑で書類送検されたが[3]、3人と被害者との間で示談が成立したことや、被害者の怪我が軽かったこと、3人とも反省していることなどから、同年5月8日付で起訴猶予処分となった[4]
  3. ^ また4人への謹慎処分だけでなく、若手選手らの管理不行届の責任を問う形で[6]、管理責任者4人(宮川進之球団代表・引地信之育成部長・前田益穂二軍監督・三浦健治寮長)が厳重戒告・減給処分(3か月間)を科された[7]。うち引地は球団への報告が遅れたとして、育成部長を更迭された[6]

出典[編集]

  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、332ページ
  2. ^ a b c d e f g h 【11月19日】1984年(昭59) 竹田光訓は巨人?、広沢克己は西武?…希望通りにならなかった」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2008年11月17日。2021年2月18日閲覧。オリジナルの2021年2月18日時点におけるアーカイブ。
  3. ^ 『毎日新聞』1987年4月13日東京夕刊第4版第一社会面11頁「大洋3選手も書類送検」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 1987年(昭和63年)4月号471頁
  4. ^ 『毎日新聞』1987年5月9日東京朝刊社会面22頁「傷害の大洋球団三選手を起訴猶予処分に」(毎日新聞東京本社)
  5. ^ 毎日新聞』1987年3月31日東京朝刊社会面23頁「大洋の竹田光訓投手ら3人、深夜ノロノロ運転の3少年殴り検挙」(毎日新聞東京本社
  6. ^ a b c 中日新聞』1987年3月31日朝刊第12版第一社会面27頁「【横須賀】大洋3選手 少年に乱暴 竹田投手ら ノロノロ運転に腹立て」(中日新聞社) - 『中日新聞』縮刷版 1987年(昭和63年)3月号1159頁
  7. ^ 朝日新聞』1987年3月31日東京朝刊第14版第一社会面31頁「大洋の竹田ら少年殴り謹慎 2人にけがさせる」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1987年(昭和63年)3月号1299頁
  8. ^ 『中日新聞』1987年4月15日朝刊第12版第一運動面19頁「プロ野球短信 14日 【大洋】竹田らの処分解ける」(中日新聞社) - 『中日新聞』縮刷版 1987年(昭和63年)4月号537頁
  9. ^ 『中日新聞』1987年4月9日朝刊第12版運動面19頁「選手の指導徹底を要望 川島セ会長」(中日新聞社)
  10. ^ 『中日新聞』1991年11月2日朝刊第一運動面25頁「竹田が引退 大洋・打撃投手に」(中日新聞社)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]