秋月種長

 
秋月 種長
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄10年2月7日1567年3月17日
死没 慶長19年6月13日1614年7月19日
別名 三郎(通称
戒名 竜雲寺殿雄山俊英大居士
墓所 東京都文京区本駒込の吉祥寺
官位 従五位下長門守
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
日向高鍋藩
氏族 秋月氏
父母 父:秋月種実、母:田原親宏の娘
兄弟 種長高橋元種[1]種至、竜子(城井朝房正室)、加藤正方室、長野助盛室、相良頼房正室、板波長常室、秋月直正[2]
正室:彦山座主舜有の娘
昌千代(日野忠有室)、オチョウ(秋月種貞室)、ヲサイ(平松時庸室)、娘(下間某室)、辰姬(城井義綱のち入江親茂室)、娘(内田種正室)
養子:種貞種春
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秋月 種長(あきづき たねなが)は、戦国時代末期から江戸時代初期の武将大名日向国高鍋藩初代藩主[3]

生涯[編集]

永禄10年(1567年)2月7日、筑前戦国大名である秋月種実の長男として生まれる。天正14年(1586年)の豊臣秀吉九州征伐では父と共に豊臣軍と戦ったが、敗れて父と共に降伏した。このとき、父が秀吉に対して剃髪して謝意を示し、さらに隠居したため、家督を継いで当主となる。しかし間もなく、秀吉の命令で日向高鍋3万石に減移封された。

その後、豊臣政権下では文禄・慶長の役に出陣し、慶長3年(1598年)の蔚山城の戦いで功績を挙げた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して大垣城を守備していたが、関ヶ原の本戦で西軍が壊滅した直後の9月17日、水野勝成の勧めで東軍に内応し、同じく籠城していた弟の高橋元種相良頼房を誘って熊谷直盛垣見一直木村由信木村豊統父子らを城中で殺害して降伏、23日には守将の福原長堯は大垣城を開城して東軍に明け渡した。これによって徳川家康から所領を安堵され、高鍋藩の初代藩主となった。

種長には男子がいなかったため、長野鑑良の息子で種長の甥にあたる種貞婿養子として迎えた。だが、種貞が病弱であったため廃嫡し、種貞と娘オチョウの間に誕生した外孫の種春を後継者とした。このため、これを不満に思う家臣との間に確執が生じたという。

慶長19年(1614年)6月13日に死去した。享年48。家督は種春が継いだ。

系譜[編集]

父母

正室

子女

養子

脚注[編集]

  1. ^ 高橋種冬とは別人、同じ高橋鑑種の養子。
  2. ^ 『高鍋藩史話』安田尚義著 (鉱脈社ISBN 4860613325
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 17頁。
  4. ^ 彦山座主