福澤洋一

福澤 洋一
2017年9月26日、ロッテ浦和球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県飯塚市
生年月日 (1967-05-26) 1967年5月26日(56歳)
身長
体重
177 cm
75.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1988年 ドラフト外
初出場 1989年4月11日
最終出場 2003年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

福澤 洋一(ふくざわ よういち、1967年5月26日 - )は、福岡県飯塚市出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ監督解説者

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

直方学園高[注 1]では、1984年秋季県北部大会準々決勝に進むが、西田川高に敗退した。

大学は九州産業大学に進学。福岡六大学野球リーグでは2年生までに3回の優勝を経験した。1987年秋季リーグではベストナインを受賞、明治神宮大会では初戦でコールド負け。その後に中退。有藤通世監督に「キャッチャーがいないんだ」と見込まれて[1]ロッテオリオンズの練習生となり、1988年オフにドラフト外で入団した。

現役時代[編集]

1989年から袴田英利に替わる正捕手として期待され、開幕2戦目となった4月11日のオリックス戦(川崎球場)では斉藤巧に代わり捕手として初出場した。開幕5戦目となった同14日の近鉄戦(川崎)では、「8番・捕手」としてプロ発先発出場した。4月末に一軍登録を外れるが5月後半に復帰すると、その後はほとんどの試合でスタメンマスクを被り、新人ながらチームトップの98試合に出場。盗塁阻止率はこの年のリーグトップの.407を記録したが、村田兆治とはバッテリーを組むことはなかった(村田が引退する翌年は開幕からバッテリーを組み10試合マスクを被った)。また、打撃面では苦戦し、これが翌年以降正捕手争いで大きく響いた。

1990年もレギュラーとして開幕を迎えたが、5月に二軍落ち。6月に復帰するがチームは低迷し、オールスター後にはマイク・ディアズがスタメンマスクを被る機会が増えるなど、前年よりも出番が減る結果となった。

1991年も開幕スタメンに起用された。その後は新人の定詰雅彦青柳進やディアズらと併用される形でシーズンを過ごした。

1992年、チームは千葉マリンスタジアムへ移転した。新任の八木沢荘六監督は捕手を、守備の福澤、打撃の青柳のどちらかに固定することを明言。青柳はオープン戦からレギュラーを掴み、特に4月は月間MVPを獲得する活躍を見せていたため、福澤は控え捕手となった。その後、同29日の日本ハム戦(千葉マリン)まで1試合も出番がなかったが、その後は青柳もやや陰りを見せ始めたため、徐々に出場機会も増え、夏場はスタメン出場もしばしばあった。

1993年も青柳がレギュラーとして起用されたが、中盤から牛島和彦が復帰すると、1989年に多くバッテリーを組んだ福澤が女房役に指名された。

1994年は自身初の開幕二軍スタートとなり、一軍昇格の機会がなかったが、八木沢が8月前半に休養し、中西太が監督代行を務めた際に一軍昇格を果たし、特に成長株の榎康弘の先発試合ではスタメンで起用された。

1995年ボビー・バレンタイン監督体制となり、青柳がヤクルトへ移籍、日本ハムから山中潔が加入。その中で福澤は8月1日のオリックス戦(マリン)まで全く出番がなく、ほぼ1年間二軍暮らしとなった。

1996年は、一軍出場なしに終わった。

1997年はベテラン田村藤夫ダイエー、定詰が阪神に移籍したが、吉鶴憲治清水将海のレギュラー争いに入ることはできず、一軍昇格は中々果たせなかった。

1998年は清水が怪我で離脱したこともあり、5年ぶりに開幕一軍スタートとなった。チームは6月13日のオリックス戦(千葉マリン)から連敗し始めた。2連敗の後の2試合や、20年ぶりの10連敗を喫した翌試合で先発出場するが、連敗を止めることはできなかった。7月7日のオリックス戦(GS神戸)で9回裏二死、黒木知宏ハービー・プリアムに同点2ラン本塁打を打たれ、連敗阻止に失敗した試合でも[注 2]、黒木とバッテリーを組んでいた。18連敗を喫した翌8日の試合で右第一中手骨を骨折し、以降を棒に振った。

1999年は開幕一軍入り後、すぐに二軍へ落ちたが、夏場から再登録された。

2000年は序盤こそ一軍に帯同したが、橋本将の台頭などで6月ごろに二軍へ降格した。

2001年光山英和の加入、里崎智也の台頭により開幕からベンチを外れることも多かったが、5月から一軍に昇格した。

2002年は開幕一軍を果たすも、すぐに二軍落ちとなった。

2003年は通年二軍でコーチ補佐のような役割を果たし、同年限りで現役を引退した。

現役引退後[編集]

2004年はロッテに残り、1年だけ二軍バッテリーコーチを務めた。

2005年から2006年までは、横浜ベイスターズの一軍バッテリーコーチを担当。4年ぶりのAクラス入りに貢献した。

2007年は、新しく発足したクラブチーム「浦和ディアーズ」初代監督に就任。同年にはインターネット放送局「marines.tv」の『1ch「Game Live!」』に出演。2008年はこの中継が再構築され格上げになったTwellV プロ野球中継に不定期で出演した。

2009年、横浜の一軍バッテリーコーチに復帰し、2011年までに同コーチを務めた[2]

2012年からは日本ハムの二軍バッテリーコーチを担当[3]。現役時代の若手への指導がコーチ業で生かされ、栗山英樹監督1年目のリーグ優勝に大きく貢献し[4]、自身も初の優勝経験となった。その後、2013年10月16日に、同年限りで退団することが球団より発表された[5]

2014年からは古巣・ロッテに、二軍バッテリーコーチとして10年ぶりに復帰[6]2016年まで同コーチを務め、2017年は二軍監督を[7]2018年は二軍総合コーチを務め[8]、同年限りでコーチを退任した。

2019年からはスカウトを担当。2022年までの4年間で佐藤都志也髙部瑛斗[9]佐藤奨真[10]池田来翔[11]菊地吏玖[12]白濱快起[13]を担当した。

2022年限りでスカウトを退任し、2023年は二軍バッテリーコーチとして5年ぶりに現場に復帰[14]。その後、同年限りでコーチを退任し、再びスカウトに復帰した[15]

エピソード[編集]

  • 出場440試合のうち、先発出場は224試合であった。先発マスクを被った試合の勝敗は92勝123敗9分、勝率.428であったが、1990年と1991年はチームが20以上借金をしていた中で福澤自身は借金3ずつと他捕手より良かった。当時のロッテは捕手難のチームであり、先発出場224試合のうち、ゲームセットまで出続けたのは僅か72試合であった。途中交代のうち打席で代打を出されたのが185試合もあり、レギュラーを取れなかった原因の一つとなった。
  • 打撃に課題があったためレギュラーに定着するまでには至らなかったが、後年はベテラン捕手として若手の投手・捕手を支え、指南役として貴重な働きをした。
  • 現役時代の応援歌の原曲はチェッカーズの『ムーンライト・レヴュー50s´』

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1989 ロッテ 98 225 196 17 34 4 0 0 38 8 3 4 18 0 11 0 0 22 3 .173 .217 .194 .411
1990 68 160 136 10 34 7 0 2 47 9 3 2 15 0 6 0 3 20 1 .250 .297 .346 .643
1991 70 133 115 12 28 3 0 1 34 7 0 0 14 0 4 0 0 17 2 .243 .269 .296 .565
1992 40 36 32 1 4 0 0 0 4 1 0 0 1 0 3 1 0 12 0 .125 .200 .125 .325
1993 33 22 19 2 2 0 1 0 4 1 1 0 2 0 1 0 0 2 0 .105 .150 .211 .361
1994 19 30 25 3 5 0 0 1 8 2 0 1 4 0 1 0 0 4 0 .200 .231 .320 .551
1995 7 9 9 1 2 0 0 1 5 1 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .222 .222 .556 .778
1997 16 9 8 0 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 1 3 0 .375 .444 .375 .819
1998 36 38 30 5 6 0 0 1 9 4 0 0 1 2 5 0 0 9 0 .200 .297 .300 .597
1999 9 11 11 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .091 .091 .091 .182
2000 14 19 16 0 2 0 0 0 2 1 0 0 2 1 0 0 0 4 1 .125 .118 .125 .243
2001 27 18 14 1 2 0 0 0 2 1 0 0 2 0 1 0 1 5 0 .143 .250 .143 .393
2002 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
2003 1 1 1 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1.000 1.000 1.000 2.000
通算:14年 440 713 614 53 124 14 1 6 158 37 7 7 59 3 32 1 5 106 7 .202 .246 .257 .503

年度別守備成績[編集]



捕手










1989 ロッテ 97 81 43 38 .407
1990 68 48 32 16 .333
1991 70 47 29 18 .383
1992 39 12 7 5 .417
1993 29 20 18 2 .100
1994 19 5 4 1 .200
1995 7 3 2 1 .333
1997 16 5 5 0 .000
1998 36 16 13 3 .188
1999 9 4 2 2 .500
2000 14 1 1 0 .000
2001 27 6 3 3 .500
2002 2 0 0 0 ----
通算 433 248 159 89 .359
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録[編集]

初記録

背番号[編集]

  • 66(1988年 - 1990年)
  • 39(1991年 - 2003年)
  • 73(2004年、2014年 - 2018年)
  • 77(2005年 - 2006年)
  • 72(2009年 - 2011年)
  • 84(2012年 - 2013年)
  • 89(2023年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 後に直方東高と改称し、2003年に廃校となった。
  2. ^ ロッテは当時、同年6月12日のオリックス戦(マリン)で勝利したのを最後に16連敗(当時のプロ野球タイ記録)を喫しており、7月7日の試合はプリアムを打ち取れば約1ヶ月振りの勝利という状況であった。結局この試合と翌8日の試合にも敗れ、連敗は18にまで延びた。

出典[編集]

  1. ^ 山下徳人ロッテ二軍監督が箕島高で学んだ「人間野球」
  2. ^ 横浜:尾花監督2年目で解任、「来季も戦いたかった」”. カナロコ (2011年11月22日). 2011年11月22日閲覧。
  3. ^ コーチ就任のお知らせ”. 北海道日本ハムファイターズ (2011年12月4日). 2011年12月4日閲覧。
  4. ^ 福澤 洋一 | ジャパン・スポーツ・マーケティング
  5. ^ コーチ退団のお知らせ北海道日本ハム球団公式サイト2013年10月16日配信
  6. ^ 福澤洋一氏 2軍バッテリーコーチ就任のお知らせ 千葉ロッテマリーンズ公式サイト2013年10月26日配信
  7. ^ 【ロッテ】来季のコーチングスタッフを発表!”. ベースボールキング (2016年12月7日). 2022年12月14日閲覧。
  8. ^ 井口ロッテの来季コーチングスタッフが決定 諸積氏、小坂氏ら“復帰組”多数”. Full-Count (2017年12月7日). 2022年12月14日閲覧。
  9. ^ 2019年ドラフト会議全指名選手”. 千葉ロッテマリーンズ (2019年10月17日). 2022年12月11日閲覧。
  10. ^ 2020年育成ドラフト会議全指名選手”. 千葉ロッテマリーンズ (2020年10月26日). 2022年12月11日閲覧。
  11. ^ 2021年ドラフト会議全指名選手”. 千葉ロッテマリーンズ (2021年10月11日). 2022年12月11日閲覧。
  12. ^ 2022年ドラフト会議全指名選手”. 千葉ロッテマリーンズ (2022年10月20日). 2022年12月11日閲覧。
  13. ^ 2022年育成ドラフト会議全指名選手”. 千葉ロッテマリーンズ (2022年10月20日). 2022年12月11日閲覧。
  14. ^ ロッテ、栗原健太氏の2軍打撃コーチ就任発表 大砲育成に期待、光山氏&福澤氏も入閣”. Full-Count (2022年12月11日). 2022年12月14日閲覧。
  15. ^ ロッテが来季のコーチングスタッフを発表 小坂コーチは腰椎急性期圧迫骨折などの影響で守備コーディネーターに配置転換”. ベースボールキング (2023年11月29日). 2023年11月29日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]