矢野純一
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1919年1月23日 |
没年月日 | 2002年12月22日(83歳没) |
身長 体重 | 170 cm 60 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 中堅手 |
プロ入り | 1951年 |
初出場 | 1951年3月30日 |
最終出場 | 1951年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について |
矢野 純一(やの じゅんいち、1919年1月23日 - 2002年12月22日)はプロ野球選手(野手)、元横浜大洋ホエールズ取締役球団代表。山口県出身。
来歴・人物
[編集]下関市立下関商業学校(現・下関市立下関商業高等学校)時代は甲子園出場を果たすことなく卒業。後に大洋でチームメイトとなる平山菊二は1学年下。2学年下に藤本英雄(のち巨人)がいた。その後、明治大学、社会人野球の満州電電や大洋漁業でプレーした。
1951年に親会社の大洋漁業から大洋ホエールズに入団。即戦力と期待され、開幕戦(3月30日の名古屋戦〔草薙球場〕)から出場した。5月19日の松竹戦(大分県営野球場)では、先制の本塁打を含む2本塁打と活躍した(結果的に、現役唯一の本塁打を記録した試合となった)が、チームは6回終了時点の12-2からエースの高野裕良が打たれ、10点差をひっくり返される大逆転負けを喫した(松竹ロビンス#キーワードを参照)。
1951年限りで現役引退。その後、大洋ホエールズ取締役球団代表を歴任した。
2002年12月22日午後5時5分、肺炎のため神奈川県横須賀市の病院で死去[1]。満83歳没。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1951 | 大洋 | 79 | 255 | 226 | 24 | 54 | 4 | 0 | 2 | 64 | 24 | 3 | 2 | 5 | -- | 23 | -- | 1 | 20 | 7 | .239 | .312 | .283 | .595 |
通算:1年 | 79 | 255 | 226 | 24 | 54 | 4 | 0 | 2 | 64 | 24 | 3 | 2 | 5 | -- | 23 | -- | 1 | 20 | 7 | .239 | .312 | .283 | .595 |
背番号
[編集]- 31 (1951年)
脚注
[編集]- ^ 矢野純一氏死去 元横浜大洋ホエールズ取締役球団代表47NEWS、2002年12月22日記事。