生駒一正

 
生駒 一正
生駒一正像(龍源寺蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治元年(1555年
死没 慶長15年3月18日1610年5月11日
別名 一雅、三吉
戒名 玉龍院殿前讃州大守四品安岫崇泰大禅定門
墓所 香川県高松市法泉寺
京都府京都市妙心寺塔頭玉龍院臨済宗
官位 従五位下讃岐守
幕府 江戸幕府
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
讃岐高松藩
氏族 土田生駒氏
父母 生駒親正高木正資の養女
兄弟 一正村越直吉継室
正室堀秀重の娘
側室:於夏
正俊、山里、近藤政成正室、正信入谷盛之正房
養女生駒将監の娘
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生駒 一正(いこま かずまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名、第2代高松藩主。生駒親正長男。 

生涯[編集]

弘治元年(1555年)、織田家の家臣・生駒親正の長男として誕生した。

初め織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどで活躍した。信長死後は羽柴秀吉に仕えて数々の合戦に参加する。天正19年(1591年)、従五位下讃岐守に叙任される。朝鮮出兵にも参加し、蔚山城の戦いなどで活躍した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父・親正の代わりに会津出兵に参加し、そのまま東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げた。父の親正は西軍に加わっていたが一正の功により罪を問われず、1万5千石の加増となった。慶長6年(1601年)、家督を継ぐ。慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されている[1]

慶長13年(1608年)、妻子を江戸屋敷に居住させたため、その忠義を徳川秀忠より賞された。

慶長15年(1610年)、死去した。法泉寺に葬られた。家督は長男の正俊が継いだ。

系譜[編集]

父母

正室

側室

  • 於夏 ー 山下氏

子女

養女

出典[編集]

  1. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。 

外部リンク[編集]