生方良雄

生方 良雄(うぶかた よしお、1925年11月24日 - 2021年6月19日 )は、日本の鉄道研究家。小田急電鉄で車両部長や運輸計画部長などを歴任した[1]

経歴[編集]

東京市牛込区(現在の東京都新宿区牛込)で生まれる[2]1929年、4歳の時に世田谷区経堂町に転居[3]、その後、父親の仕事の関係で1934年から1940年までは中国東北部満洲)の奉天市(現・瀋陽市)に移住する[2]が、それ以外は一貫して経堂に在住している[3]日本大学理工学部機械科在学中には、日大鉄道研究会の発足に関わった[4]ほか、高松吉太郎が関わっていた東京鉄道同好会にも参加している[4]

1948年に日本大学を卒業し、東京急行電鉄大東急)に入社[5]国鉄への就職も考えていたが、当時の国鉄は運輸省直轄で、港湾や気象庁に配属されることもあると聞き、地元の東急に決めたという[5]。しかし、入社した時点で2か月後には分離独立することになっていたため、その年の新入社員は、車両部の一角に席はあったが仕事は何もなかったという[5]。同年6月1日、分離独立した小田急電鉄に移籍[5]、研修も兼ねて相武台工場に配属となったが、1か月ほどで本社運転課に異動[6]、当時取締役運輸担当兼運輸課長であった山本利三郎の部下となる。この年の10月、山本から「連接車が走っているのはどこか」と質問を受け[7]、生方が即答したところ、数日後に山本の随行者として、当時連接車として運用されていた西日本鉄道500形の視察に同行することになった[1]

その後、山本の下で同社3000形電車(SE車)の開発に携わる[8][注釈 1]が、1955年には相模大野電車区長に異動[6]。その後、企画室、運輸計画部などの部署で運輸計画業務に携わる[6]。車両部長、運輸計画部長なども歴任している[1]が、車両部門より運転部門にいた期間の方が長かったという[6]。また、1959年ごろからは『鉄道ピクトリアル』など、鉄道雑誌への寄稿も行うようになる[4]

1979年以降は箱根ロープウェイに出向[3]、同社の専務取締役となり、7年ほどは自宅からロマンスカーで通勤していたという[9]。その後財団法人小田急電鉄事業団の理事も務める[10]

2021年6月19日死去。95歳没[11]

人物[編集]

子供の頃からの乗り物好きで、特に電車、中でも小田急の電車が好きだと述べる[4]鉄道ファンである。趣味者の団体である鉄道友の会の参与を務めている[1]

主な著作[編集]

書籍[編集]

この他、小田急関連の書籍が多数。

雑誌[編集]

『鉄道ピクトリアル』の編集委員に名を連ねている[12]ほか、他の鉄道雑誌にも寄稿している。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 生方は自著の中で、「SE車の誕生と運転に携わることができた歓びは一生消えない」と述べている[4]

出典[編集]

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』交通新聞社〈交通新聞社新書008〉、2009年。ISBN 978-4330105093 
  • 生方良雄、諸河久『小田急ロマンスカー物語』保育社、1994年。ISBN 978-4586180295 
  • 生方良雄『小田急物語』多摩川新聞社、2000年。ISBN 4924882372 
  • 生方良雄『小田急ロマンスカー総覧』大正出版、2005年。ISBN 978-4811706559 

雑誌記事[編集]

  • 生方良雄「小田急SE車の復元に寄せて」『鉄道ファン』第386号、交友社、1993年6月、67-69頁。 
  • 平野雄司「鉄道・幾春秋 (4) SE車と山本利三郎」『鉄道ジャーナル』第477号、鉄道ジャーナル社、2006年7月、154頁。 
  • 「小田急座談 (Part1) 車両編」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、6-16頁。 
  • 「後続車から」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、319頁。 
  • 「読者短信・情報ファイル」『鉄道ピクトリアル』第989号、電気車研究会、2021年9月、136-138頁。