片野萬右衛門

かたの ばんえもん

片野 萬右衛門
生誕 (1809-03-16) 1809年3月16日
文化6年2月1日
日本の旗 日本美濃国安八郡五反郷村福束輪中
(現:岐阜県安八郡輪之内町
死没 (1885-06-18) 1885年6月18日(76歳没)
記念碑 片野記念館
職業 庄屋
時代 江戸時代明治時代
団体 治水共同社取締役
著名な実績 木曽三川分流工事
配偶者 片野きく
子供 青樹英二衆議院議員
片野篤二(衆議院議員)
家族 片野温郷土史家
片野知二片野記念館館長
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片野 萬右衛門(かたの ばんえもん、1809年3月16日文化6年2月1日〉 - 1885年明治18年〉6月18日[1][2])は、江戸時代庄屋治水功労者。

私財を投げ打って治水事業に奔走し、岐阜県輪之内町の開発に貢献した。

人物[編集]

1809年3月16日文化6年2月1日〉、美濃国安八郡五反郷村福束輪中(現・岐阜県安八郡輪之内町)の名家に生まれる[1][2]

天保年間、30代で庄屋職に就任すると、以後30余年治水事業に尽力した。1854年嘉永7年)の豪雨大榑川洗堰が破損した時には、関係村々の総代代表として洗堰修復の金策に走り回り、元通りに復元した。1868年慶応4年)の洪水で決壊した堤防は、私財を投じて修築した。

宝暦治水から100余年。土砂の堆積により、水害は再び毎年のように起こるようになっていた。萬右衛門は1881年明治13年)、周辺7郡の代表者と連携し、「治水共同社」を立ち上げ、木曽川水系改修工事の実現に向けて国、県に強く働きかけを行い始めた[3]。治水共同社は80余りの輪中が利害や損得を乗り越えて団結した、従来にない事業組織であった。また、地域住民はもとより多くの役人からも支持を受け、国の土木局長であった石井省一郎は、50円という大金を寄付した。

近代史上まれに見る大事業、木曽三川分流工事を立案するため、オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケ木曽三川水系調査の途中に福束輪中を訪れると、萬右衛門は福束輪中周辺の案内役を務めた。自身の治水事業の経験をもとに大榑川の締め切りと長良川揖斐川の分流(三川分流)の重要性、さらに輪中のたまり水対策についてデレーケに強く訴えた。当初、分流工事においては「木曽川のみを分けるべき」と考えていたデレーケだったが、最終的には三川の完全分流が必要であること、また、輪中の排水が必要であることを組み込んで改修計画を作った。その後、デレーケの近代科学をもとにした合理的な計画にそって分流工事は着手された。萬右衛門は工事が着手される前の1885年(明治18年)に没したが、三川分流工事実現に向けて、中心となって取り組むとともに多大な役割を果たした。死後、郷里の人々はその徳を慕って記念碑を建てた。大藪大橋の上流、長良川右岸堤防の横に大榑川洗堰碑と並んで建立されている。また、片野家に遺された治水関係資料は、子孫の片野知二によって「片野記念館」として公開されている。

業績[編集]

萬右衛門は私財を投げ打って治水事業に奔走した。

長良川揖斐川の二大川は宝暦治水によって一応の小康を得たが大榑川洗堰の維持管理は並大抵の事ではなかった。関係村々が組合を設けてその維持にあたったが萬右衛門は役員として、また庄屋として常にこれを心配し、私財を投じて堤防を補強し洗堰を修理した。

福束輪中は低湿地で上郷と下郷とは水利に利害相反したため、古くから井戸に制限を設けるなどしたが、水による争いが絶えなかった。萬右衛門は株井戸の制を案出して、その運上金で水路を作り、悪水樋管を設けるなどして積年の紛争を解決した。なお外からの水害を守り、内の排水をよくするためには、福束輪中と三郷輪中の合併が是非必要であると考え、両輪中を合併させ新福束輪中を設定した。福束輪中の排水樋門である四間門樋の築造も萬右衛門の功績の一つで、彼の設計により1880年(明治13年)には、完成していた。しかし、岐阜県からの補助金は総額の一割にも満たない少額なものだったため、萬右衛門は岐阜県にその窮状を訴え、建築代金の調達はもちろんのこと、関連水路の拡幅工事及び新川の堤防の嵩上げ工事などがすべて実施され、内水湛水による被害は少なくなった。

水害の根絶のためには、河川の浚渫の必要を感じて、西濃の同志と謀って治水共同社を創設して自ら取締役となり、1880年(明治13年)2月、松方正義内務卿に三川改修の必要を建白し、政府が招いたオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケの来岐の折は三川分流、大榑川締切りを陳情するなど積極的に活動した。1881年(明治14年)8月18日にはデ・レーケが萬右衛門を訪問している[4]。1887年(明治20年)、政府は三川分流の工事に着手し、1899年(明治32年)ついに完成した。萬右衛門たちの熱意によるものであった。

輪之内町四郷にある片野記念館は、萬右衛門の子孫、片野知二が設立した私設博物館で、萬右衛門の遺品はもちろんのこと、民俗史料や美術書などが保管、陳列されている。

家族・親族[編集]

片野家[編集]

略系図[編集]

 
 
 
 
 
 
つる
 
萬右衛門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
南陽
 
青樹英二
 
三男
 
片野篤二
 
片野きくえ
 
片野省吾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
片野温
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
片野知二
 

脚注[編集]