海原さおり・しおり

海原さおり・しおり
メンバー 海原さおり (1957-05-22) 1957年5月22日(66歳)
海原しおり 1955年1月26日 - (2014-01-03) 2014年1月3日(58歳没)
結成年 1978年
解散年 2014年
事務所 ケーエープロダクションよしもとクリエイティブ・エージェンシー
活動時期 1978年 - 2014年
師匠 海原小浜
芸種 漫才
受賞歴
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海原さおり・しおり(うなばら さおり・しおり)は、日本の女性漫才コンビであった。よしもとクリエイティブ・エージェンシー大阪本部に所属していた。

メンバー[編集]

  • 海原さおり(うなばら さおり。1957年5月22日[1] - 、本名:西山日呂子(旧姓:弥永))
ツッコミ役。身長160センチ、血液型A型。京都府宇治市出身。
ボケ役。身長150センチ、血液型O型。鹿児島県薩摩郡甑島(現在は薩摩川内市に属する)生まれ、大阪府豊中市育ち。2014年1月3日午前8時33分ごろ、脳腫瘍のため大阪府豊中市の協和会千里中央病院で死去した[4]。58歳没。

来歴[編集]

1978年2月、「花の110番しおり・ひろこ」というコンビ名で、ケーエープロダクションよりデビュー。それ以前は女優活動をしていた。翌年暮に海原お浜・小浜の小浜に弟子入りし、海原さおり・しおりと改名。入門直後に海原お浜・小浜が引退した為、夢路いとし喜味こいし両師に稽古を付けてもらった。

結婚後も仕事を続け、漫才だけでなく、それぞれタレント、講演などの活動を行った。短期ではあるが座長公演(2003年)も実現させた。ケーエー時代に大阪・なんばグランド花月(NGK)に1989年と2003年に出演したことがあった。

1985年、さおりが漫才師の大木こだまと結婚、2005年7月、しおりが元競艇選手の夫と離婚[5]

2009年5月、ケーエープロダクションを退社しフリーで活動していたが、2010年2月19日よりよしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属した。よしもと所属での初舞台は2月28日、大阪・京橋花月であった。

しかし、2012年7月6日にしおりがなんばグランド花月での公演を終えた後、めまいのような症状を訴え、兵庫県内の病院に入院。早期の脳腫瘍との診断を受けた[6]。そして同年8月27日、大阪府内の病院の脳神経外科に再入院、脳腫瘍の手術を行った。年内は治療に専念するため休業し、その間さおりは一人で活動を行うと発表した[7]。しおりは手術後も治療を続けていたが、2014年1月3日に闘病の末に死去した。58歳没[8]

しおりは豊中市で和食店「創新美味しおり」を経営。元夫が経営、寿司職人のしおりの実兄が厨房を仕切っていたが、離婚後は、しおりが2008年に調理師免許を取得し、自ら板場に立っていた。2004年4月から8年余り続けてきた店であったが、しおりの体調上の理由で2012年8月16日をもって閉店した。

しおりは第一子の死(生後1ヶ月足らず)を乗り越え第二子を妊娠した際、さおりも初めて妊娠。さおりは4か月目で流産したが、しおりは第二子(女児)を無事に出産した。この後、しおりは第三子(男児)を、さおりも子を出産(女児2人)している。

上述のように、さおりの夫は大木こだまで、長女の西山加朱紗は元静岡第一テレビ(だいいちテレビ)のフリーアナウンサー、次女の西山穂乃加は元テレビ新広島のアナウンサー(2024年3月退職)。さおりは夫のこだまと夫婦漫才をやりたいと長年思っており、2006年11月に『芸恋リアル』の企画で実現した。近所の公民館で住民を集めて夫婦漫才を成功させた。

2009年2月に行なわれた「コンビ結成30周年公演」(ワッハホール)では、喜味こいしから「二代目・海原お浜・小浜」の襲名を薦められた事もあった。

さおりはレギュラー出演しているかんさい土曜ほっとタイム番組内で「孫が居る」と発言している。

受賞[編集]

出演[編集]

TV[編集]

ラジオ[編集]

CM[編集]

レコード・CD[編集]

  • MR.DOCTOR(1982年発売 ポリドール) - ジャケット写真では、さおりが看護婦でしおりが患者役になっている。
  • 好きなら好きやというてんか
  • 大阪パラダイス

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 生前は1959年生まれとされていた(海原しおり、脳腫瘍で年内休養 8月末に手術(スポニチ 2012年10月10日)では「53歳」とされている)。

出典[編集]

関連人物・項目・海原一門[編集]

外部リンク[編集]