浅野宗恒

 
浅野 宗恒
時代 江戸時代中期
生誕 享保2年8月23日1717年9月27日
死没 天明7年11月24日1788年1月2日
改名 仙次郎、岩松(幼名)、宗恒
戒名 鶴皐院殿天随道仙大居士
墓所 広島県広島市の神田山墓地
官位 従四位下伊勢守安芸守侍従刑部大輔但馬守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
安芸広島藩
氏族 浅野氏
父母 浅野吉長
前田綱紀の次女・節姫
兄弟 宗恒、蝶姫、英姫、松平定輝正室
正室前田吉徳の長女・喜代
側室:和泉
重晟水野忠鼎長員長包松平定功正室
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浅野 宗恒(あさの むねつね)は、安芸国広島藩の第6代藩主。浅野家21代当主。将軍徳川吉宗よりの偏諱宗恒と名乗った。水野忠邦の曽祖父。

生涯

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享保2年(1717年)8月23日、第5代主・浅野吉長の長男として江戸桜田の上屋敷で生まれる。享保11年(1726年)9月1日、将軍・徳川吉宗に拝謁する。享保16年(1731年)11月23日、元服し、従四位下・刑部大輔に任官する。寛延2年12月18日(1750年)、侍従に任官する。宝暦2年(1752年)3月7日、父が死去したため家督を継いだ。家督相続により、通称を安芸守に改める。宝暦3年(1753年)4月18日、お国入りの許可を得る。

広島藩の財政は父の時代からすでに悪化していたが、宗恒の時代にも幕命による延暦寺堂塔修復による15万両の出費に加えて、領内で凶作や大火が相次いで財政が窮乏化した。このため、宝暦3年(1753年)には家臣団の知行を半減し、宝暦4年(1754年)には永代家禄制度の廃止、能力制による家禄の改正など、世襲制の一部廃止を断行する一方で、自ら倹約に努め、さらに役人の不正摘発や裁判制度の公正化など、様々な藩政改革に着手して、改革をほぼ成功させた。

宝暦13年(1763年)2月21日、長男の重晟に家督を譲って隠居する。隠居により、通称を但馬守に改める。天明7年(1787年)11月24日、広島で死去した。享年71。

系譜

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